炎
tyottokaerukamo...
私は特別だった。
私は産まれたとき、世界を理解した。
そういう力が、周りが、私を肯定する。
特別な私はなにをやっても良い。
世界は塵芥の矮小なものしか居ない。
その筈だった。
■■がいた。
私だけが■■を知ることができた。
■■を知れば知るほど憤りが生まれる。
それをしておいて、いったいどの面下げてその振る舞いができる。
お前ではないお前は相応しく無い。私が、私こそが――
◇◇◇
10月26日
刑務所の門が、ゆっくりと開いた。
油の匂いと、金属が擦れる低い音だけが、朝の空気に溶けていく。
灰色がかった短髪が、外の光を受けてわずかに白く揺れた。
佐祥倖は小さな荷物を肩にかけ、門の前に立つ職員へ静かに頭を下げた。
深く、丁寧に。 不安と後悔を置いて行く儀式として。
「ここからは自分で行けるな」
職員の声は事務的で、それを世界の歯車だと感じた倖はこれからはこれに成らなければならないという決心とともに、今できる精一杯のそこそこ元気な返事をする。
「はい」
門を出て道を見た瞬間、空気が変わった。
外の風は思ったより軽くて、光はやけに白い。
更生保護施設までの道は、地図で見れば短い。
歩き出す。
通り過ぎた植え込みの低木、鳥の鳴き声、人々の会話。普通の循環がまた自分に不安として吸収される。
ただ歩く。
それでも今を愛さなければ。進まなければならない。
更生保護施設へ向かう道を、倖は紙の地図を手に歩いた。
曲がる角も、歩く距離も、何度も確認した。
地図どおりに進んでいるはずだった。
けれど、気づけば道は妙に細くなり、
両側を灰色の壁に囲まれたような地形に変わり、行き止まり。
「……あれ?」
倖は立ち止まった。
地図を見返す。
合っている。
いや、でもそもそも住宅街にこんな壁はない。あるはずがない。意味が分からない。
一歩だけ後ろへ下がる。
その瞬間、背後から低い振動が地面を伝ってきた。
重いエンジン音。大きな車の音。
振り返ると、道の奥から巨大なトラックが迫っていた。
「すみませーん! ここ行き止まりみたいです!」
みえにくい運転席をしっかり見上げた。
そこにいるはずの運転手は──
目が焦点を結んでいなかった。
まばたきもなく、口元だけがわずかに動いている。
人間の反応ではない。
正気が抜け落ちたような、からっぽの表情。
「は? おいっ……嘘だろ……!」
倖は押し出されるように前に走る。
だが、前方は完全な行き止まりだった。
灰色の壁が道を塞いでいる。
高く、登れない。登る時間はない。
逃げ場がない。
「ちょっと待てって……!」
背後のエンジン音が膨らむ。
壁に反響して、逃げ道を嘲笑うように響く。
痛い。横に反れようともトラックもその動きをして何度か衝突されては受け身をとるのに精いっぱい。
意味が分からない。頭がアドレナリンで一気に沸騰してパニック状態。
遂には際にまでやってきてしまった。
「……なんなんだよ!……なんでっ……!」
トラックの影が覆いかぶさる。
圧が迫る。
背中に、鉄の塊の気配が触れた。
「……っ!」
息が押し戻される。
肩で、背で、全身で、
“まだだ、まだ終わりたくない”と叫ぶように壁へ押し返す。
何なんだこの人生。
せっかくここまで来たのに。
やっと外に出たのに。
こんなところで終わるなんて、冗談じゃない。
倖は歯を食いしばり、迫る圧に必死で抗った。
地面が滑る。
視界が揺れる。
「……くそっ……!」
だが、圧は強くなるばかりだった。
胸が潰れそうなほどの重さ。
視界が白く染まる。
──死。
その瞬間、何かの感覚があった。
今際の際、こちらを選べば生き残れるという道への生存本能から来る選択肢。
知能とは単に迂回し、選び、生き残っただけに過ぎなく、それに類似する何か。
その無意識の何かが生んだ奇跡。
世界が裏返るように、色が抜け落ちていく。
壁も地面も、音も、すべてが遠ざかる。
倖はただ、落ちていた。
落ちているのに風はない。
重力もない。
暗い空間をゆっくり沈んでいくような感覚。
そのとき、
誰かの“意味”が頭の内側に直接触れた。
──期待している――
──繋いであげる――
声ではない。
言葉でもない。
ただ、意味だけが流れ込んでくる。
パニックの彼は叫びながら、その意味を考える余裕なんてなかった。
まあ考えても意味が分からない。だからしない。
そして──落下は終わり、
どこかの地面が、荒く倖を受け止めた。
◇◇◇
「ほんとぉーに意味が分からなくて草!」
出所。そして撥ねられ、押しつぶされそうになった個所は痛くて、尻もちついたのも痛くて、自分に起きている事をまとめると心も押しつぶされそうな中の精いっぱいな強がりだった。
さっきの意味は何だったんだろう。それを思い返す暇なく、次がやってきた。
焦げた匂いがして倖は上体を起こす。
目の前には、焼け落ちた一軒家。
黒く焦げた木材、崩れた棚、色の抜けた花びら。
西洋風の家の残骸。
「燃えてて花、今度はなんだってえの」
胸の奥がざわつく。
なんでだろう、地下に“誰か”がいる気がした。
同時に行かなきゃという使命感にかられる。
倖は崩れた床をどかし、何故か解かったカーペットに隠された階段を見つけ、降りていく。
空気は重く、淀んでいた。
「……マジかよ」
薄暗い地下室。
床に倒れている少女がひとり。
倖は駆け寄った。
「……っ」
少女は動かない。
だが、かすかに胸が上下している。
その瞬間──少女の意識の奥で、微かな思考が揺れた。
◇◇◇
私は街外れの花屋の娘で、昔から病弱だった。
ベッドから起き上がれない日もあった。
母には迷惑しかかけていない。足手まとい甚だしい。
さながら籠の中の鳥のように滑稽でつまらん人間だ。
なんの為に生きているのか、日々思い続けてきた。
そんなある時の今日、母に半ば強引に血相かいて地下にいけと命じられた。
何事かと思ったが、今日の具合もすこぶる悪くそのまま従った。
静かだった。
が、いきなり爆音とともに倒壊する音、パチパチと木の水分が弾ける音。理解した。
そしてどんどんと息苦しくなり、気が遠くなる。
あぁこれで終わりか。
こんなにくだらないんだ、私は。
願わくば、私が……私が、母の代わりに死ねばよかったんだ。
……暗い。
……苦しい。
……でも、誰かの気配がする。
声を出そうとしても、喉は動かない。
まぶたも重くて開かない。
ただ、意識だけがかろうじて沈まずに残っていた。
◇◇◇
薄暗い地下室。
倒れている少女は、黒髪だった。
日本人のそれとは少し違う光の当たり方で青みが差すような、冷たい黒。
肌は白く、輪郭が細い。
けれど、骨格のどこかが日本人とは違う。
言葉にできない違和感だけが残った。
「あの、さ……おーい、大丈夫?」
倖は少女の肩に手を置き、軽く揺さぶった。
返事はない。
だが、少女の指がほんのわずかに動いた。
「……いや、もう大丈夫だから。とりあえず上いこう」
倖は少女の呼吸の浅さに気づく。
そっと体を支え、抱き起こすように腕を回した。
少女は声を出せない。
目も開けられない。
けれど、確かに生きている。
倖は少女を抱き上げた。軽い。刑務所暮らしをしていた自分が他人の食生活を心配する程に。
地下の空気は重く苦しい。上ではまだ何かが崩れている。
階段を丁寧に急いで上がり、焦げた残骸の隙間を抜けて焼けた家から離れた。
◇◇◇




