First Stage・悪魔と死にたがり(1)
その願いが、どれほど愚かで身勝手なものであるかなんてとっくに知っていた。
その望みが、どれほど幼稚で甘えたものであるかも嫌になるほど分かっていた。
だけどそれでも、私は――。
ちゅんちゅんと鳥たちが窓の向こうで朝の挨拶を交し、カーテン越しに朝の陽射しが部屋を照らしている。それをごろりと寝返りを打ちながら、薄目を開けて確認し、
(もう起きなきゃいけない時間か)
再び目を閉じ、眠る体制を取りながら他人事のように彼女は思った。
睡眠は、陣内千郷がこの上なく愛しているモノの一つである。
深く深く眠りの深海へ沈み込む、何も感じず何も思わない空白の時間も大変好ましいし、それに夢と現を往き来している半覚醒状態のゆらゆらした感覚も大変心地よいものだと思う。一度起こされて、それから再びうつらうつらとしている時間は千郷のとても好きな時間だった。
だから彼女を起こすのは、なかなかに骨の折れる作業なのだ。目覚ましでは、まず間違っても起きない。いや起きはするのだが、再び睡魔に身を任せてしまう彼女を完全に覚醒させるには、目覚まし程度では役者不足なのである。だから実質的に言うと、今のところ彼女を本当に起こせるのは母親の美里だけであった。
そして今日もまた、こんこんこん、と扉を叩く音を彼女は夢現に聞く。
まずいな、と頭の片隅で千郷は思った。手探りで目覚ましを止めてから、恐らく三十分は経っている。最近寝つきが悪く明け方まで本を読んで気を紛らわせていたことを、母は遅くまで本を読みふけっていたとしか思っていないから、きっと本格的な雷が落ちるに違いない。今日は日直だからと、早めに起こしてくれと頼んだのは自分であるから尚更だ。あれは目覚めに大変利くが、精神的にかなりきついものがある。
(………あぁ、母さん。親不孝な娘でごめんね)
思うけれど体は大変正直で、ごろりと寝返りを打っただけで起きるための努力は終わる。
まあ、いい。今はノックした人物が扉を開けて、安眠から自分を引き剥がすまでのその数十秒間を大切にしよう。その後のことは、その時の自分の判断に任せればいい。後悔することになるかもしれないが、その後悔をするのは今の自分ではないから構いはしない。たぶん。
そうこうしているうちに、静かに千郷の部屋の扉が開いた。ベッドに歩み寄る気配。
さよなら、至福の時。
そんな言葉が千郷の脳裏を掠める。だが、これから落ちるであろう雷を思うと、怖すぎて自分から目を開けることなどできはしない。内心では冷や汗をかきつつも、掛け布団を放すことが出来なかった。
しかし。
「…………」
いくら待っても何も起こらない。
気配は間違いなく傍らにあるのに、いつまでたっても雷が落ちる気配がない。
その段に到って、彼女はようやく訝しく思う。
これまでの経験から言って、こういう状況で怒り狂った母が『静かに』この部屋の扉を開けたことなどあっただろうか。普段ならいざ知らず、朝の忙しいこのときにあんな悠長にノックをしたことがあっただろうか。そんな彼女の戸惑いに気付いたからなのか。瞼にかかる影。ぎしりとベッドが軋み、枕もとの布団が沈む。
「……!?」
至近距離に近づいた気配に、思わず目を開けた彼女の視界に入ったのは。
「よ。おそようだな、ちぃ」
すぐそこに、端正な、整いすぎていると言っても過言ではない青年の顔。
濡れた烏の羽のような漆黒の髪、それと同色の睫は羨むほど長く、そのなめらかな肌は焦がれるほどに白い。切れ長の瞳も、すらりと通った鼻も、弓のような弧を描く眉も。その一つ一つが完成されており、それは中性的でありながらどこかしら艶やかささえ感じさせる顔立ちだった。
そして彼女は、この顔に見覚えがある。
「……ひろ?」
枕もとに置かれた腕に体を捩ることも許されず、今だ半覚醒状態の目を瞬かせ、問う。
窓の外からは相変わらず、小鳥のさえずりが聞こえている。
「あぁ。何だ、まだ寝ぼけてるのか?」
悪戯っぽく輝く、最近見知ったばかりの、しかし今ここで会い見えるはずのない鳶色の瞳の少年をやっと正確に認識し、
「とっとと起きないなら、今から襲うぞ? まぁ、こっちとしてはそれも有りだがな」
襲う、という単語の意味が今一よく分からなかったが、それでも彼がにやりと笑う様子から自分の置かれている状況をおぼろげながら理解した、その瞬間。
「…………」
彼女は躊躇うことなく、鼻先十センチにあった彼の顔に拳を叩き込んだ。
陣内千郷が住まうのは、築六年のマンションの四階、2LDKの一室である。
家族構成は、大黒柱であるエリート営業マンの剛志と専業主婦の美里。それから、長女で一人娘の千郷の計三人。近所づきあいも良好で、夫婦仲は睦まじく、娘の千郷は若干内気であるもののさして評判は悪くなく学校でも優等生で通っている。
まさしく、絵に描いたような平穏で平凡な、どこにでもありそうなその家庭。
『はじめまして、光月弘夢です』
そのお隣りに笑顔の眩しいこの少年が越してきたのは、つい先月のことであり。
そして彼女の担任が、時期外れの転入生として彼をホームルームで紹介したのはその翌日のことだった。
「本当にね、いろいろ言いたいことはあるんだけども」
寝巻きから制服に着替え、髪も整え。朝食のテーブルについた千郷は、ドンと効果音が聞こえてきそうな迫力で、サラダのプチトマトにフォークを突き刺しながら、母である女性をねめつけた。
「あら。なあに、ちぃちゃん?」
娘に睨まれて、美里は首を傾げた。十八の子持ちにあるまじき愛らしさ。先日出掛けた先で年子の姉妹だと勘違いされた事実が脳裏をよぎり、軽く頭痛を覚えたが千郷は懸命に己の理性で感情を押さえつける。
ここで声を荒げれば、その時点で千郷の負けなのだ。
そう、例え。
「気分でも悪いんですか、千郷さん」
巨大な猫を被った諸悪の根源が、隣りで何かほざこうとも、負けるな自分。
心配そうに自分の顔を覗き込んでくる、一見非の打ち所の無い優等生面の青年を極力視界に入れないように注意しながら、頭の隅で単身赴任中の父を大変うらやましくも恨めしく思いつつ。
千郷はなんとか平静を保って口を開く。
「ねぇ、母さん? 年頃の娘が寝ている部屋に、同級生の、知り合ってたかだか一ヶ月程度の男を起こしに行かせるなんて、母親としてどうだろうと私は思うんだけども」
遠回しに『常識を考えろ』と非難すると、相手はそうねと優しく微笑んだ。
「寝ぼけて目覚ましを破壊したり、親切に起こしに来てくれたクラスメイトに対して感謝の言葉どころか、寝起きざまに暴力を働こうとする人間を年頃の娘と呼んでもいいのなら、その通りだと思うわ。ね、ヒロムくん」
同意を求められた少年は、千郷からの刺すような視線に苦笑しながら答える。
「さっきのは、僕が迂闊だったんですよ。誰だって、家族でもない人間がいきなり部屋に居たら驚くでしょうし、こんな朝早くなら尚更でしょう。それにほら、結局は未遂だったわけですから」
そう言って彼が指し示した顔には拳の当たった形跡は無く、世の女性の羨望を集めてやまないすべらかな肌には傷一つ見当たらない。当然だ。この憎たらしい顔に叩き込まれるはずだった拳は、寸でのところで彼の掌に受け止められてしまったのだから。
「僕は気にしていませんから、どうぞ美里さんも気にしないで下さい」
にこにこと、人好きのする顔で彼はのたまった。
「まあ。ヒロくんはいい子ね。誰かさんとは大違いだわ」
「いやあ、そんなことありませんよ」
わざとらしい母の溜息に。いけしゃあしゃあとした少年の言葉に。
千郷は心の中で拳を震わせた。
(次こそ…っ)
次こそは絶対に沈めてやる。
そう心に決めた彼女は、一秒たりともこいつと席を並べてなるものかと、目の前の朝食を猛然とさらいあげた。ベーコンエッグも、サラダも、トーストも全て綺麗に平らげて、彼女はすっくと椅子から立ち上がる。
「ごちそうさま!」
ガラスコップに注がれた牛乳を持って、テレビの前のソファに腰掛け、リモコンで電源を入れると丁度朝のニュースをしているところだった。
「あらあら。ちぃちゃん、拗ねちゃったの?」
「みたいですね」
「もう困った子ね。せっかく一緒に学校行こうって、ヒロくんが迎えに来てくれたのに。失礼な娘でごめんなさいね」
「いやそんな。美里さんに謝ってもらうようなことじゃないですから。それに千郷さんにはいろいろと学校でお世話になっていますし、これくらい」
そんな和やかな会話が背後でなされているが、彼女は敢えて口を挟まず、リモコンを操作してテレビのボリュームを上げる。
都心部で起こった放火事件や、ネット詐欺業者の書類送検、怪しげな宗教団体本拠地の近隣住民の不満の声など、きな臭い報道に続いて、どこか見覚えのある住宅街の景色が四角い箱の中に広がる。やがて打ち出された『連続猟奇殺人事件』という、きな臭いどころか物騒すぎる、けれどどこかミステリー小説のふざけた副題を思い起こさせるテロップを目にして、千郷は眉を潜めた。
「これって、一駅向うの新興住宅の辺りじゃないですか?」
耳元で声がしたので振り向けば、彼も食べ終えたのか横顔がテレビ画面を見つめている。どうでもいいが、わざわざ彼女が凭れている場所のすぐ脇に手をついて身を乗り出しているのは、嫌がらせの一環とみてまず間違いない。
「…そうみたいね。これでもう三人目だったかしら。貴方たちも、登下校はもちろんだけど、出掛けるときは十分注意するのよ?」
美里が至極心配そうに言うのに対し、弘夢が胸を叩いて答えた。
「大丈夫、心配しないで下さい。陣内さんは僕が命に代えても守りますから」
「あら、ありがとうヒロムくん。けど、駄目よ。軽々しく命に代えてもなんて言っちゃ」
また始まった。
そう顔を顰めて千郷は牛乳を男らしく一気に飲み干した。
「でも陣内さんに何かあったら、僕は…」
わざとらしく口篭もって、まあ。
「こんな良い子にそんな風に思ってもらえるなんて、ちぃちゃんは幸せ者ね」
(…………)
無言の千郷とは対照的に、彼女の周辺で一際大きな耳障りな音が立つ。
コップと机がおかしな音を立てたのは、断じて千郷の所為ではない。それはもう絶対に。
……コップ、割れなくて良かった。
「どうかしました? 陣内さん」
「どうかしたの、ちぃちゃん?」
仲良く二人が声を揃えて首を傾げる。その姿を見ているうち、千里は何だか全てがどうでもいいような気がして来た。ああ、もう二人で勝手に仲良くやってなさい。
「いってきます!!」
言い捨てて、鞄を引っ掴んだ千郷は玄関に向った。
小走りに近い早足で歩を進め、一心不乱に彼女は通学路を行く。
だがそれも背後から付いて来る足音に気付くまでのことだった。
後ろから追いかけてくる足音は千郷よりのんびりとしたペースであるのに、確実に彼女に近づいてきているから妙に腹立たしい。
スピードを上げれば、相手の歩調もわずかに早くなる。
試しにペースを落としてみればどうなるかと実行してみるが、足音は何の躊躇いもなく千郷に近づいてくる。馬鹿らしくなって、彼女は足を止めた。
「…何か用?」
「何か用って。まだ僕のこと怒ってるんですか?」
振り返って睨みつけてやれば、同じように足を止めた光月弘夢は苦笑を浮かべている。彼と千郷の距離は三歩と少し分。わざわざ小首を傾げる仕種をして見せる辺りが、この青年の性格の悪さを如実に語っていると千郷は思う。
「せっかくお隣同士なんですし、いつも通り一緒に行きませんか」
「いつも通りも何も。毎朝毎朝、君が勝手に着いて来てるだけでしょーが」
第一、と彼女は盛大に顔を顰めた。
「何なの、その言葉遣い。新手の嫌がらせ?」
心底からの嫌悪を滲ませて言葉を投げつければ、彼は笑みを深くする。それは今までの爽やかなものとは違い、にやりとしか形容できないもの。これこそが彼の本当の表情なのだと、彼女はよく知っている。
だからこそ、その笑みに嫌な予感を覚えて半歩退いたが、時すでに遅く。
構える暇すらなく、鼻先数十センチのそこに端正な顔があった。
「嫌がらせとは酷いですね。貴女がいつも僕が猫を被っていると言って怒るから、わざわざこんな喋り方をしているのに。――なのにその言い方は無いんじゃないのか、ちぃ?」
がらりと変わった口調。
先程までの柔らかく優しげな声音とは打って変わって、低くも凄みのある、そして無意味に――と千郷は思う――甘い声が耳元で囁く。
思わず身を硬くした彼女の顔を覗き込むのは、それはそれは楽しそうに輝く瞳。それに腹立ちを覚えることでようやく我に帰った千郷は、キロリとその瞳をねめつけて顔を反らした。
「ほんっとうに、大きい猫よね!」
「おかげさまで」
「ほめてない!」
肩を怒らせ歩き始めた彼女の隣りに、許可も無く弘夢は並ぶ。どれほど歩調を上げようとぴったりと付いて来る相手に、さらに怒りを募らせながら、それでも自分の息だけが上がっている事態に虚しさを覚えた。腹立ち紛れに「大体っ」と声を荒げる。
「朝のあの連携攻撃は何? いつの間に仲良くなったのかは知らないけどね、そんっなに母さんが気に入ってるのなら、私にいちいちちょっかい出す必要はないでしょう!」
言外に自分に関わってくれるなと言ったつもりなのに、相手はそうは取らなかった。
「何。ヤキモチ?」
にやにやと笑う青年に、怒りがすっと冷えた。
「――ありえないわ」
「……。あんたな、そこは可愛らしく顔を赤くするとか否定するにしても、もうちょっとこう慌ててみせるとかするところだろうが」
心底嫌そうに、冷静に眉を顰めた千郷を弘夢は呆れたように見やる。
「死んでも、い・や」
「…やっぱり、あのまま襲っとくべきだったか」
そんな風に軽口を叩きつつ、彼らは仲良く通学路を進んだ。
用事があったからいつもより家を出る時間を早くしたのは確かだろうが、千郷の怒りにまかせての早足が、予定より早すぎる到着時刻の最もな要因なのだろうとも弘夢は思う。
因みにここ一ヶ月、登校時刻のきっちり五分前に到着することを日課としていた千郷が、信じられない時間に登校することが多いのも大概それが原因だったりする。
校内にはほとんど人気が無い。下駄箱で上靴に履き替えた千郷は、相変わらずくっついてくる背後の彼を振り返らずに口を開く。
「ひろ」
呼ばれた彼は、横に並ぶような愚を犯さず軽く肩を竦める。
「わーってるって、教室では俺はただの転校生。で、ちぃはただのクラスメイト。だからこうやって馴れ馴れしく話はしないし、家が隣りだって話は絶対洩らさない、だろう?」
「ならいいけど」
言ってから三白眼で振り返りもっと離れろと、弘夢を牽制してきた。
その牽制を受け、彼は軽く肩を竦めて降参というように両手を挙げる。そのまま足を止めたのを確認し、千郷はもう目と鼻の先だった教室の戸を開ける。
「あ、おはよう、陣内さん。早いね」
がらんとした教室から、クラスメイトの中でも割合千郷と親交のある少女の声。真面目そうな、眼鏡がこの上なく似合うこの少女の名を鷺井のぞみと言う。クラス委員長である彼女に声を掛けられて、先ほどまでの三白眼が嘘のように、千郷は照れくさそうに微笑んだ。
「おはようございます。私は今日、日直ですから。鷺井さんこそ、いつも早いですよね」
そう言って軽く会釈したのは、どこからどう見ても、恥ずかしがり屋で内気な、大人しそうな少女。黒髪の長い二本の三つ編みと、思慮深げな眼差しも手伝って、文学少女を絵に書いたような少女がそこにいた。
彼女が今朝方、クラスメイトの顔面に拳を叩き込もうとしたことなど、一体誰が想像出来るというのだろう。
「うん、まあね。押し付けられたような形でも、委員長になっちゃった以上はちゃんとしないとね」
えらいですね、と遠慮がちに言う千郷のずっと後ろで、教室に入るタイミングを計っている弘夢は、彼にしては珍しく疲れたように軽く息を吐いた。
「でっけぇ猫。あれで、人のこと言えるのか?」
ぼそっと呟く。
「あれ、弘夢じゃん。おはよ。つーか、んなとこで突っ立って、何やってんだ?」
「ああ、おはよう。別に大したことじゃないですよ。ただ、人間っていうのは自分のことは棚に上げがちだなぁ、なんて感心してただけですから」
「…はぁ? よく分からねーけど、お前ってやっぱ変な奴だよな」
「あはは、そうですか?」
天使の微笑みを貼り付けた少年はクラスメイトともに、ようやく教室に足を踏み入れた。