六十五話、誰にも気づかれず、再び月は雲の下へ【バリストン視点】
足音だけが、静かに響く。
背後から、なにも聞こえない。
追ってくる足音も、声も。
(……それでいい)
強く言い聞かせる。
これでいい。
これが、正しい。
俺は彼女を――レイを、セレスタを――縛るべきではないのだから。
自由に。
好きな場所へ行けるように。
だから、こうして、俺は背を向けた。
でもーー。
(……本当は)
喉が焼けるほど痛い。
胸が締め付けられる。
左手が。
無い右腕も、震える。
どうして、どうして。
あんなにもあたたかかった腕を、
自分から、手放してしまったのだろう。
(だって、俺は――)
欲しかった。
抱きしめ返して、あの温もりにすがりついて、許されたいと、縋りつきたかった。
――「消えたくない」
――「忘れられたくない」
心の中で、何度も何度も叫んだ。
なのに。
なのに、俺は――
背を向けた。
誰にも見せないように、音も立てずに、そっと、涙を零した。
――ごめん。
――ありがとう。
――愛してる。
どれも言えない。
どれも伝えられない。
そもそも伝える資格はあるのだろうか。
ただ、黙って歩き続けた。
背中で、彼女から、逃げるように。
黒い蝶が、ひらりと舞う。
その一匹が、俺の指先に触れた。
かすかに温かかった。
まるで、彼女の手のひらのように。
(……行こう)
震える心を叱咤して、俺は出口へ向かって、歩みを進めた。
そう、彼女が指し示してくれた道を――。
再び俺は己の内に蓋をする為だけに指を鳴らした。




