六十四話、黒蝶が、示す先【セレスタ視点】
黒い蝶が、ゆっくりと舞い、重たく冷たい空気を切り裂いていく。
目の前に、朽ちた扉。
そこが出口だと、誰が見てもわかった。
ここまで、私は――
叔父様を抱きかかえたまま歩いてきた。
柔らかな重み。
震える指先。
肩に寄せられた額の温もり。
全部、まだ腕に残っている。
けれど。
蝶がこちらだと告げるように宙を飛び回る。
(ここまでだ)
私はそっと足を止めた。
「……叔父様」
声は、思ったよりも穏やかだった。
でも心の中では、ひどく、痛かった。
ゆっくり、慎重に。
まるで宝物を扱うように。
叔父様を腕から降ろす。
重力に逆らっていた身体が、地に触れる。
その瞬間、彼の指先が、ぎゅっと私の袖を掴んだ。
――まだ、離れたくない。
小さな、小さな拒絶。
だけど、私は微笑んだ。
ゆっくりと、優しく袖をほどく。
(……ありがとう、叔父様)
彼は、顔を上げなかった。
そのまま、背を向ける。
私を、見ない。
見られない。
きっと、自分自身が赦されてしまうのが、怖いのだろう。
でも私は、何も言わなかった。
ただ、その背中を見つめる。
小さく見える、大きな背中。
たくさんのものを抱えて、たくさんのものを失って、それでもまだ、生きようとしている背中。
黒い蝶が、ふわりと間をすり抜けた。
扉の向こうに、かすかな光が見えた。
叔父様は、何も言わずに歩き出した。
まるで、私から逃げるように。
でもきっと、それは、私を守るためだった。
私はその背中を、見送った。
何も言わずに。
何も求めずに。
――だって、知っているから。
この人は、本当は、私を抱きしめたかったのだと。
それでも、手を離したのは。
私を、大切に思っているからだと。
だから、私は微笑む。
悲しみも、愛しさも、全部抱きしめて。
ただ、静かに、歩き出した。
あなたが世界から消えないために。
私が忘れないために。
私を忘れさせないために。
出口へ向かって。
この世界の、先。
未来へ。




