五十八話、その手をもう一度【ヴェラノラ視点】
特別顧問官が残していった、黒い蝶。
フォルシュトナーが語っていた「竜の背骨付近で黒いルミナリアと共に目撃された蝶」と同種だろう。
完全に言い逃れはできないが……今は置いておくしかない。
賓客室で、しばらく待機した。
窓辺に留まっていた蝶が、ふと一瞬だけ消えた。
――大丈夫か、あのバカは。
再び具現化したことからして、薬か、何か襲撃を受けて気を失った可能性がある。
心配ではないと言えば嘘になる。
セレスタのことも。あの子を一人で。
まだ、イグニスすら出たことがないというのに。
私の中の、母のような部分が顔を出す。
もう立派な大人なのだと分かってはいる。
けれど、彼女はあまりに真っ直ぐで――だからこそ、どうしても幼く見えてしまう。
……だめだな。可愛いと思ってしまう。
それがいけないことだと分かっていても。
ほんの少し、現実から目を逸らすように、私は窓辺を行き来していた。
場所が分からない。行きようがない。
それでも、身体と心は逸って仕方がない。
やがて、蝶がふわりと舞い立った。
――見つけたのか。
バリストンが連れていかれた先だろうか。
だが、願わくば――セレスタもそこにいることを。
その願いを胸に、私は扉に手をかけた。
城を抜ける。
衛兵たちが特に制止してこないのは、アルヴァインの命が行き渡っているからだろう。
無駄に時間を取られずに済むのはありがたい。
静かに感謝をして、私は速足で蝶を追い始めた。
次第に陽は傾き、帝都の街も灯りを灯し始める。
イグニスよりも人の数が多いのは、魔導灯のせいだろう。
冷たく無機質な光に照らされながら、私は裏通りへと進んでいく。
寂れた店舗。
営業しているのかも分からない、曇ったガラスと錆びた扉。
蝶が進んでいくその先は、まるで異界の入口のようだった。
そのとき、不意に。
「王子様!」
軽い体重が跳ねるように抱きついてきた。
この声――あの奇妙な少女だ。
「どこに行かれるのですか?」
「……ちょっとな」
「白い子を助けに、ですか?」
低くなった声音。
察しの良さに、私は言葉を探す。
……白い子。
私が答えぬままでいると、彼女はときめいたように呟いた。
「ほんとうに……王子様みたい」
うっとりと私を見上げる。
「私も囚われているの。ねえ、連れて行って?」
「は?」
「お願い。いつもいつも、実験されて……つらいの」
悲しそうに眉を寄せるその顔に、心が僅かに揺れる。
実験の影響で、少し歪んでしまったのかもしれない。
「……では、一緒に」
そう言って手を差し伸べると、彼女は満面の笑みで私の腕に絡みついてきた。
――仕方ない。
「私、場所知ってるの。こっち」
彼女はそう言って、蝶とは違う道へと私を引っ張っていく。
その瞬間――ほんの微かな違和感が、背を這った。実験と言っていた……フォルシュトナーの配下なら、時間稼ぎか?
(……セレスタ)
その名を、胸の中でそっと呼ぶ。
おまえの手を、もう二度と離さない。
そう決めたはずだろう――アッシュ。




