三十六話、あの子がいない、ということ【ヴェラノラ視点】
静かだった。
あれほど整えられた空間に身を置いたはずなのに、終わってみれば、何ひとつ手応えがなかった。
帝王――アルヴァイン・ヴァルトライヒは最後まで姿を見せなかった。
外交という言葉の裏に、私たちを“観察する目”だけが張り付いていたように思える。
その視線の正体はわからない。
だが、感じる。
ずっと、見られている。
部屋に戻っても、夜の帳に包まれても、その感覚は薄れなかった。
机に並べられた帝国製の茶器。
魔道石で温められた湯の音さえ、耳に刺さる。
「……静かね」
誰にも言うわけでもないが、そう呟いてしまう。
普段からセレスタに引っ付かれているのだ。
正直、寂しさしかない。
バリストンもさすがに今日は早めに戻った。
葡萄の一房を抱えていた。
最後までワインか葡萄だった。
何か見つけたと思ったが……。
……いや、考えすぎか。
あの男が“何か”を嗅ぎ取っていることは間違いない。
それでも、口を開こうとはしないだろう。
まだ、自分の領分でなんとかするつもりだ。
まったく……。
「……セレスタ」
その名を、夜の空気にそっと溶かす。
窓を開ければ、帝都の灯りが、星のように瞬いていた。
イグニスと違う。
光の意味が違う。
燃えるような命の灯ではない。
整然と制御され、冷たく、美しく輝くだけの都市の星。
けれど、きっと――
その中にも、彼女はいる。
これを平穏にあの子と見られないのが、残念だ。
そうすれば、冷たいだけの夜空さえ、暖かくなったはず。
今日すれ違った、あの一瞬の白。
ヤツのレイの嗅覚の方は異常だ。
何か嗅ぎつけたのかもしれない。
だとしたら。
私も、負けていられない。
明日は正式な外交会談。
帝国王・アルヴァインとの対面。
きっと、試されるだろう。
私という人間が。
イグニスという国が。
そして――セレスタを、どこまで“私の騎士”として信じていられるのか。
自らの手で髪をほどき、深く息をついた。
眠れなくてもいい。
この夜の沈黙を胸に、明日の火を灯すために。




