十九話、最悪の選択肢
「ヴァルディス……」
翌日。
公務室。
兄上がソファに腰掛け、戦略書を読んでいるのを視界の端で眺めながら、私は覇気のない声で名を呼んだ。
一応、公務はしている。
だが、どうにも内容が頭に入ってこない。
――平時であれば、この時間。
セレスタが、レイの姿で休憩しに来てくれる頃なのだ。
その姿がないだけで、胸の奥がすうっと冷える。
女王の仮面すら、揺らぐ。
「いかがされました?」
今朝がた、国境から帰還したヴァルディスが、優しい声音で問いかけた。
……このままでは「もう休まれては」と続けてきそうな、そんな声。
「私直々に、帝国へ行く」
息を吐き、彼は観念したように呟いた。
「……おっしゃると思いました」
「な」
「アッシュ様のことですからな。二年前も、そうでしたでしょう? 火山でセレスタ嬢を助けに向かわれた時も」
苦笑しながら、どこか父のような眼差しを向けてくる。
「はっ……確かに、あれも似たようなものだったな」
私は吹き出しそうになりながら頷いた。
この宰相には、本当に何も隠せないらしい。
「ですが――アッシュ様が動かれるとなれば、同行者も必要です」
「おまえが来ればよいのでは?」
「いや。私は無理ですな」
即答。
すでに疲れたような息をつきながら、彼は続けた。
「公務はヴァルセリアス殿下にお願いするつもりです。ですから私も、国内に残って支えます」
「え? 兄上が?」
「わ、我!?!?」
私と兄上が同時に声を上げる。
兄上が戦略書を盛大に落とした。
……昔から、座学は苦手だった。
脱走癖もひどかった。それは私以上に。
風の噂によれば、将軍職での事務作業も、未だに別の事務員に任せているらしい。
それでも重宝されているのは、軍事においては優れている証拠なのだろう。
いや、興味がないことに対する関心が薄いと言ったらいいだろうか。兄の顔を立てるなら、軍事関係の会議ならずっと熟考できるタイプだ。
――だが、政務は別だ。
私は兄上に、不安と、少しばかりの哀れみを込めた視線を向けた。
「……重要案件以外であれば問題ありません。私も補佐に入りますし」
ヴァルディスがいれば安心だ。
だが、ただでさえ片方の宰相が不在で忙しいというのに……。
しかし。
……たとえ、この身が誰かに咎められても。
国を空けたことで、何を失ったとしても。
私は――あの子を、探したい
(が、やはりヴァルディスの胃腸が本当に心配だ)
「そ、そうか?」
私が納得しかけたその時。
ふと、あることに気づく。
「……付き添いは誰になる?」
ヴァルディスの表情が曇った。
少し口ごもっている。
この宰相、本当に言いにくいことがある時だけは、髭を撫で付ける。
「……カイルでもいいぞ?」
「その、ですね……」
兄上はどうにか書物を拾っていた。
……あっ、書物が逆さだ。どれだけ動揺しているんだ兄上。
「ヴァルディス?」
「……清濁併せ呑む、と申しますし。嫌なら、私を殴ってください」
そう言いながら、扉の方を向いて――
「――入れ」
「失礼しまーす」
聞き覚えのある声とともに、公務室の扉が開いた。