下界(Ⅲ)
「愚か者が!」
野太い男の怒号が木霊した。
天幕の天井部から降り注ぐ暖かな色彩の光の下、磨き上げられた巨大な円卓があった。
設けられた座席は全部で三十。そこに座すのは、今回の『任務』においてそれぞれ分隊を率いることを任された分隊長が勢揃いしていた。ただ、三十席もある座席に座る誰もが、時折乱れるようなノイズを走らせる立体映像としての仮想体だった。
今回の『任務』において作戦立案、指令伝達を一挙に担う『拠点』にある中央天幕の中において、唯一実体ともいえる肉体を以って参加しているのは、円卓より少し離れた上座に座る禿頭の男と、彼に仕える数人の兵士たちだけだった。そんな数人の兵士たちも怒鳴り声をあげる己の上官の姿を恐々とした顔で見つめていた。
天井で揺れる発光灯の光を反射するほどに磨かれた禿頭の男。ぶくぶくと顔や腕、特に、ここからでは机の所為で見えないが、腹部にこれでもかというほど脂肪が蓄えられていることを、分隊長マードックは知っていた。
よく言って、ふくよか。悪く言えば、肥満。部隊員であるヒューイは彼のことを嫌っていたはずだ。益々体に余計な肉をつけた彼を見ればデブと叫びそうだ、と頭の中で想像し、そっと嘆息。
「よりにもよって、『魔獣』どもと遭遇した為に遺跡を前に撤退しただと!?馬鹿者、貴様らの役割は何だと思っている!貴様、貴様だ!言ってみろ!」
ビシッと彼の指先が円卓に座す三十人の内、適当な一人のところを指し示した。
幸運の女神が存在するとしたら、きっと見放されているのだろう。偶然にも運悪く指差された分隊長の一人が顔を顰め、口を開く。
「げ、『下界』に点在するパンドラ文明の遺産を発見し、持ち帰ることです」
「そうだ、分かっているではないか!我らは下界探索任務に従軍する遠征隊だ!『下界』という荒廃しきった末世に散らばる遥か古代のパンドラ文明、その遺産を探索、発見し、それを我らが故郷たる『第二浮遊都市』、ひいてはその『領主』たるエリザヴェータ様のもとへと持ち帰ることが至上の命!そのために我らは態々、この世で最も安全な浮遊都市から『下界』に降下し、任務にあたっているというのに、貴様らは――――」
延々と続く禿頭の男の叫び声に、誰も口を開かない。
誰もが分かっている。この男に反意を示すことは、己の身の破滅を招くことくらいは。
統括官グスター。統括官とは、『下界』探索任務において、総指揮を委ねられた人間。誰でもなれるわけではなく、『浮遊都市』の『領主』から“貴位”を授けられた都市貴族のみが成ることを許される。
生粋の兵士である『黒兵』――――『下界』の探索にその身を捧げた『浮遊都市』の兵士たちとは根本的に考え方、思想が異なる。
作戦中に意見が食い違うなんて言うのは、ハッキリ言って日常茶飯事だった。
このようなことで時間を割いている余裕は、我々にはないというのに。
マードックは再び嘆息した。
千年前にあったという『大天罰』によって、世界は一変した。
当たり前のように享受していた大気は猛毒と成り、大地は穢れ、水は濁った。あらゆる緑が石灰と化し、人類を除く他の生命体の悉くが急激な環境の変化に適応できず死滅した。
何故人類だけが生き残ったのか。それは他の生物にはなく、人類にあったもの、智慧があったからに他ならない。
長い時の中で連綿と積み重ね続けた智慧を以って、人類は唯一生存することに成功した。荒廃しきった地上世界、『下界』を捨て、雲海の上を漂う『浮遊都市』を造りだし、そこに移住するという方法で。
『大天罰』直後の当時、どのようなことがあったのか、詳細は今でもわかっていない。
確かなことは、残されていたパンドラ文明の超科学を用いて生みだされた九つの『浮遊都市』の存在が、人類を空へと逃がし、生かし続けるための希望の箱舟となったこと。
空に逃れた人類は、皮肉にも地上ならざる安住の地を手に入れたかと思えた。
(第三浮遊都市が二百年前に。そして第六浮遊都市が機能を停止し、『下界』へ墜ちたのが八十年前)
如何な超科学によって造られていようが、人の手によって生みだされたもの。
超古代の技術の塊である『浮遊都市』の中枢は『領主』一族を除き、一部の者にしか情報開示が許されていないが、同じ機構である他の都市が墜ちた以上、ここに居る全員の故郷でもある『第二浮遊都市』も、いつかは同じ結末を辿るのは必然。
故に決起する必要があった。
『浮遊都市』の墜落という悪夢を回避するために、かつてパンドラ文明が存在した大地、即ち遥か千年前に人類が捨て去った『下界』で超科学を秘めた『パンドラの遺産』を手に入れ、人類存続の希望とするために。
いつ訪れるかも知れない墜落。逃げようにも逃げられない恐怖に駆られた人類の総意によって、『下界』の探索とそれに従事する『浮遊都市』の兵士である『黒兵』は誕生した。
彼らは戦うことを宿命づけられた。人類の明日を切り拓く、その為に身命を賭す。
とはいえ。
「発見した『遺跡』はパンドラ文明当時の施設だったに違いない!それをみすみす『魔獣』に畏れを成して撤退など、そこに我ら人類が求める希望があったならばどう責任をとるというのだ!」
唾を飛ばして怒号を響かせるグスターに、痺れを切らしたマードックが手を挙げた。
「発言を」
「きょ、許可します。第四十八迎撃分隊所属マードック分隊長」
この会議の進行役が声を震わせながら言う。
「恐れながら、統括官。『魔獣』の生態は未だ分かっていない部分が多い。状況を冷静に判断し撤退することは、兵士たちの命を守るという意味でも理に適った、必要な判断だったと思いますが」
既に『下界』の探索が始まって二百年。思うように進んでいないのは、何も『下界』の劣悪な環境だけが問題ではない。『大天罰』以降、全ての生命体が死滅した後、入れ替わるように地上世界を席巻したのが、『魔獣』と呼ばれる存在だった。
彼らは『下界』の環境などものともしなかった。彼らはただ顕れ、禍々しい漆黒の霧を身に纏い、大よそ御伽噺にしか登場しない様な怪物の姿でもって人類の前に立ちはだかった。
『浮遊都市』が完成し、大多数の人類が空へ逃れたばかりのころは、地上にも『国家』と呼べるだけの人口と武力を持った生存圏がいくつもあった。
だが、そのすべてが『魔獣』たちによって滅ぼされた。
地平を埋め尽くす程の数万、数十万、あるいはそれ以上の『魔獣』の軍勢によって消えさった大国もあったと聞く。
生態の一切が不明な彼らについて分かっていることはたったひとつ。
『魔獣』が人類の宿敵であること。それ以外の全てが分かっていない、まさしく正体不明の化け物。
そんな存在を相手にする黒兵たちの命を無駄に散らす行為は避けるべき、マードックはその主張を長年の信念としていた。
「また貴様か、マードック分隊長。つくづく意見が食い違うな」
上座に座す統括官は、己とまるで真逆の思想を持つことは、当の昔に知っていた。故に、この男と真っ向から言い合うのも、今回が初めてではない。
「以前にも言ったはずだ。貴様ら黒兵は『浮遊都市』の手足。『浮遊都市』を存続させるためにある。良いか、貴様らは所詮、駒に過ぎん。大多数の人類が掴みとるべき未来、その可能性の一助となるために“消費”される歯車だ」
その物言いに、マードックは眉をひそめた。
「何故、役割を果たさぬ。貴様ら黒兵の命はそのように使われるべきだ。私には統括官としての役割、貴様らには黒兵としての役割がある。そうして人類社会は機能する。あらゆる者に役割はある。その役割を果たさない者は、『浮遊都市』を機能させる歯車としての価値すらない」
「しかし、だとしても私は、彼らの命を預かる者として、貴方の言葉に頷くわけにはいかない」
マードックの主張を聞いて沈黙。後に打って変わって低い声で彼は言った。
「綺麗ごとだな、マードック分隊長。犠牲なくして世界は回らぬ。この世界は、そう優しくは出来ておらん。可笑しなものだ、かつては『機士』であった貴様の口からそのような言葉が出るのか理解に苦しむ。儂が口にしたことを最も強く理解し体感してきたのは、他ならぬ貴様であろうに」
グスターの瞳に怒りとは異なる暗い感情が浮かぶが、一瞬の後にそれは消えていた。
肌を突き刺す程の沈黙が、中央天幕内に満ちる。
誰も口を開けない。無理もない。この場で最も発言権を有するグスター統括官と相対することが可能なのは、マードックを置いて他にいないと誰もが理解しているからだ。
当事者二人が口を開かない以上、第三者が水を差すことは出来ない。
「相変わらず、平行線になっているようだな、グスター統括官。それに、マードック」
清涼感のある声が、天幕内の静寂を引き裂いた、というより吹き飛ばした。
沁みるような青の長髪をした男の登場に全員が驚きの声をあげた。
「話しは聞いた。だが、私には分隊長の言葉にも一理はあると感じたのだが。如何かな、グスター統括官」
「――――――ウルス・アイズグラム、何故……其方がこんなところに」
唸るような声でグスターは男を睨み付けた。
「『魔獣』の生態について判明していることは少ない」
コツコツと硬質な靴音を響かせてやってきた男は薄らと笑みすら浮かべてグスターと相対した。
「『第一位階』は“群れ”で行動する。過去、はぐれの個体を討滅した後、複数体もの『魔獣』の群れが押し寄せたこともあると聞く。仲間を呼ばれる可能性がある以上、不用意に彼らを刺激して、不測の事態を招くのは得策でないと思うのだが」
二人の統括官の睨みあいに誰もが息を呑んだが、先に折れたのはグスターの方だった。
「………同じ統括官、加えて『領主』の信頼も厚い其方の言だ、今は儂が退く」
「感謝する」
「だが、儂の意見は変わらんぞ、マードック分隊長。命とはそのように使われるべきだ。この世界では全てを守り切るなどという綺麗ごとは通じん。神ならぬ我ら人間に出来ることなど知れておる。身に余る願いは身を滅ぼすぞ」
かつてのパンドラ文明のように、と口にした。
「忠告、痛み入る」
ふん、と不愉快そうに鼻を鳴らしたグスターは視線を外した。
「それで、何故其方が此処におる?其方は南西方面の遠征分隊を現地指揮するために『西方拠点』へ派遣されたはず」
『下界』の探索任務はここにいる全員だけではない。各方面に分散して派遣された彼らは、各々の担当区域で任務に従事する。唐突に現れたこの男は、ここにいる兵たちとは別方面を一任された統括官だったはずだ。
マードックたちが陣を構えているのは中央拠点。対して、彼が派遣された西方拠点とはそれなりに距離があった。
「その通りだとも、グスター統括官。最小限の隊を率いて『下界』を駆けてきたのだ。申し訳ないが、私の部下の休息の為に天幕を借りているよ」
よく見れば、彼の衣服は擦りきれ、汚れた個所が幾つもあった。
「統括官の位にありながら、黒兵どもと戦場を歩むなど。豪気なことだ」
吐き捨てるような物言いにウルスは笑った。
「戦い方はそれぞれということだ。私にはグスター統括官のように情報を正確に収集、統合、分析する能力に欠けている。偏屈な言い方をすれば、統括官には不向きなのだ。根っからの現場肌、と言っても良い」
統括官としての在り方は貴方の方が正しい、と断言するウルスは一転。柔らかな物腰から、触れれば切れるような鋭い気配を身に帯びた。
「話しが逸れたな。ああ、諸君らの聴きたいことは分かっているとも。何故私が此処に来たのか。それは、この場に居る諸君らにどうしても伝えておかなければならないことがあるからだ」
空気がざわついた。
「なに?」
眉を顰めたグスター。他の分隊長たちもみな同じ顔をしていた。
そのような予定はない。担当する方面は違えど、探索任務の開始以前に全ての打ち合わせは完了している。
些細な情報であっても取りこぼすことは命取り。それが下界。人の命など容易く奪い去る、魔の領域。
故に万全を期して任務に望む。
「勘違いしてもらっては困るが、│浮遊都市で行われた事前協議において、諸君らに伝達し損ねたことなど一切ない。そのような不手際は私とて許さないとも。だが、今回ばかりは例外と思ってほしい」
そうして彼が語った内容に、誰もが眉をひそめた。
「『魔獣』共が本来の巡回ルートを大きく外れて姿を見せただと?」
グスターが不可解そうに口にした。
下界を闊歩する魔獣たちの動きにはいくつかの規則性があることが長年の研究により判明している。
浮遊都市首脳部はそれら魔獣の行動範囲を巡回コースとして地図に刻み、各部隊に提供する。
死と隣り合わせの下界で活動する黒兵たちにとって、それらは生命線ともいえる命綱。とはいえ、あくまで統計データであって魔獣の行動を完全に網羅できているわけではない。
予定外の場所に現れることなど、さして珍しくもないことだった。
「それが、何だというのだ。その程度の情報であれば通信端末越しでも問題なかろう。わざわざ担当区域から離れてまで報告に来るほどのことだとは思えんが?」
「勿論、それだけであれば私も問題視はしなかった。だが、それが同時多発的、それも数十体単位で顕れたとなれば話しは変わる」
「馬鹿な、数十体だと?ありえん、魔獣どもが群れるのはせいぜいが数体のはずだ。そのような数、尋常ではないぞ」
「それだけではない。私の担当区域から多少距離はあるが、『第二位階』の個体も確認された。すでに西方拠点でも少なくない人的被害が出ている状況だ」
全員がどよめいた。
ありえない、と部隊長たちの顔色が変わる。
「『第二位階』だと?」
呻いたグスターの頬を冷汗が伝う。
「其方、嘘偽りでは済まん内容だぞ」
「『領主』と私が与った『貴位』にかけて真実だと誓おう」
揺るぎのない眼差しで告げるウルスに、不服そうに端から息を漏らすグスターは腕を組む。
「それで、其方は何が言いたいのだ」
「無理を承知で進言する。此度の下界探索、すぐに中止すべきだ」
先ほどよりもより大きな騒めきと動揺が広がった。
「ふん、其方ともあろうものが戯言とはな」
「グスター統括官。今回の魔獣たちの動きはおかしい。明らかに今までとは違う、異様な動きを見せている。生息範囲を大きく外れるどころの話しではない。それに、妙な胸騒ぎがするのだ。このまま見逃せば、何か致命的なことが起きると」
探索任務の最終的な決定権を持つのは『領主』だが、下界の環境は熾烈にして過酷。
どのようなトラブルが起きてもおかしくはない。
それ故に統括官には『領主』が決定した作戦行動を一時的にではあるが制限、あるいは破却できる権限が与えられている。
此度の作戦においては、統括官が三名派遣され、内2名はここにいるウルスとグスターが該当する。ただ、作戦を中止するとなれば、統括官のうち過半数の承認が必須とされていた。
「ここにいる両名の決定があれば、此度の作戦を中止することが可能だ。『領主』への謝罪と弁明は私がする。グスター統括官、どうか私の意見を汲んではもらえまいか」
腕を組んで一連の話を聞いていたグスターは嘲笑を浮かべた。
「馬鹿馬鹿しい。そのようなことできるはずがなかろう」
臆病風にでも吹かれたか、と侮蔑の眼差しを向けるグスターにウルスは顔をしかめた。
「そう言われても仕方のないことだとは思っている。だが、実際に西方拠点で魔獣たちと戦って感じたことだ。魔獣たちの様子がおかしい。なにか殺気立っているような――――――」
「笑わせよる。あの化け物共が殺気立っているのはいつものことだ。意思疎通すら諮れぬ化生どもの様子など、いちいち考慮していてはキリがない。悪いが、儂は忙しい。そのような戯言は聞くに堪えん」
立ち上がったグスターにウルスが詰め寄る。
「グスター殿!」
「……三度目はない。これ以上、下らぬ妄言を口にするようであれば、『領主』に報告させてもらう。大体、其方は一体誰に対してものを言っている?同じ統括官といっても、其方は『三等貴位』、儂は『二等貴位』。統括官で居続けたいのであれば、身の程を弁えることだ」
「っ!そのようなことを言っている場合では――――――――」
「失礼する。会議は一時終了だ」
羽織を翻しこの場を去るグスターに合わせ、参画していた部隊長たちも気まずそうに消えていく。
結局最後まで残っていたのは険しい顔つきで嘆息するウルスとマードックだけだった。
「災難だったな、ウルス統括官」
「マードック。そのような他人行儀な呼び方はやめてくれ。同じ訓練校の同期、遠慮はいらない。幸い、誰も残っていないからな」
「そうだな」
薄く笑みを浮かべたマードック。
もう十年以上前のことになる。二人は黒兵の養成を行う『訓練校』の同期だった。
卒業し、お互いに目指すべきものを見出し、それに向かって一心不乱に駆け抜けた。
部隊長とはいえ黒兵でしかないマードックと、貴位を授けられて統括官となったウルスとでは、都市階級の身分差としては天と地ほどもの開きがある。
しかしそれは、二人の関係性を変える要因にはまるでなり得なかった。
「それで、先の話しだが」
「ああ。すべて事実だ。西方拠点ではすでに百名近くの負傷者が出ている」
「三分の一近くか」
「既存の分布図は当てにならない。最早、事前に作戦を立てることすら不可能なほど魔獣が次々と姿を見せている。このようなことは初めてだ。巡回ルートや生息域を完全に逸脱した事態だ。今は何とか持ちこたえているが、いつまで戦線を維持できるか分からない。せめて、グスター統括官の同意さえ貰えていれば」
後悔先に立たず。ウルスにとっても、未だ戦場で戦い続けている部下たちのためにも、ここで何とかして被害を食い止めるための一手を打つ必要があった。
「統括官はもう一人いるはずだが」
「難しいな。彼女は私と同じ『三等貴位』。たとえ過半数の承認を抑えても、グスター統括官の意向を撤回するまでは至らなかっただろう」
「浮遊都市での肩書を下界に持ち込むことの無意味さは、実際に魔獣との戦いで生命の危機を実感した者でなければ実感は難しいか」
「全く。君が早々に統括官の位を得ていればな」
ウルスが恨めしそうな眼差しを向けた。
「生憎と、地位や名誉には興味はない」
「そうか………惜しいな。かつて『黒の剣帝』とも謳われた『神聖国』の『機士』であった君が―――――」
「その男は死んだ。もう二度とこの世に現れることはないだろう」
有無を言わさぬ強い口調にウルスは口を噤む。
「すまない」
僅かな沈黙が天幕内を満たした。
「………マードック、気を付けてくれ。先ほども言ったが、今回の異変はいつもとは違う。最悪の状況が起きないとも限らない。もしもの時は」
「無論、今の俺にできる全力で仲間を護ろう」
愚直なまでの返答にウルスは安堵したように笑うと天幕を去った。
独り残ったマードックは胸元に仕舞われていたそれを取り出した。
黄金に輝く徽章。正真正銘の純金で象られたそれには、大きな亀裂が刻まれていた。
「………まさかな」
自身の呟きを搔き消すように首を振って、マードックもまた天幕から姿を消した。
「隊長。お疲れ様です。会議、終わりですか?」
伸べ棒のような保存食を口に咥えていたヒューイが、天幕の奥から姿を見せたマードックの姿に立ち上がった。
「拠点へ帰還する」
会議を終えた直後のマードックの台詞はそれであった。
「ちょ、ちょっと。急すぎやしませんか?何があったんです?」
普段は飄々としているヒューイが目を丸くして問いかけた。
当然だ。最初に下されていた任務とあまりにかけ離れた指示だ。
マードックは何かを逡巡するような表情を浮かべたが、すぐに目を閉じた。
「気にかかることがある。それよりも、テムジンは何処にいる」
「?」
言葉の節々に感じる違和感に、ヒューイは首を傾げた。
「テムジンなら、山向こうの『城下街』に行ってますけど。物資を補給しないといけませんでしたから」
「そうか。他に何か変わったことはなかったか」
「別に………ああ」
思い出したように口を開いたヒューイ。
「そういえば、他の部隊からの通信がありましたね。どうにも、野営ポイントで魔獣と遭遇したとか。今まで一度も魔獣との遭遇歴がない場所で戦闘になったみたいで、注意するよう報告が来てます」
「―――――――」
僅かに顔を伏せたマードックに今度こそヒューイは目を細めて詰め寄った。
「何かありました、隊長?隊長は隠し事なんて出来る顔じゃないんですから。全部ゲロったらどうですか?」
「………お前には道すがら話そう。急ぎ天幕を片付けるぞ」
「了解です」
「それと、顔は関係あるまい」
ビッと敬礼したヒューイの頭に拳骨が一つ落ちた。