下界(Ⅱ)
五年前のことで鮮明に覚えているのは、あらゆる色が失われた灰色の世界を我武者羅に駆け抜けたことだけだ。
荒い息遣いと地面を踏みしめる乾いた音。
全身の血は熱く沸騰し、肺は際限なく空気を求め続ける。
「―――――――はぁ、はぁ――――――っ」
仮面越しに酸素を求めようと必死に唇が閉口を繰り返しているのに、ちっとも空気を吸いこめた気がしなかった。
挙句の果てに、痙攣し始めた唇を血が滲むほどに噛みしめながら、灰色の霧を全身で切り裂き走る少年の疾走は休むことなく続いた。
どれだけ走り続けたのか。
考えることも馬鹿馬鹿しくなるくらいに走って、走って、走り続けた。
自分の体がとっくに限界を超えていることに気づいたのは、全身の感覚という感覚が消えて崩れ落ちるように膝を着き、地面に倒れこんでしまってからのことだった。
体を動かそうとしても、もう、ピクリとも動かない。早鐘のように脈打つ心臓の鼓動が轟く中で、少年は掌を開いた。
ドロリと粘り気を帯びた真っ赤な血に染まった掌が視えた。
掌だけではない。足元も、背中も、首も、全身の至るところにそれは泥のようにこびりついていた。
―――――――――ここは僕が食い止める!
「…………どうして。こんなことに」
上官から命じられた初任務。既に開拓された地域の巡回任務、生命の危険とは程遠い、何の変哲もない命令。
『魔獣』の生息区域から外れている。戦闘など在り得ないと、当時部隊を率いる役目にあった上官は得意げに語っていた。そのはずだったのに。
突如として顕れた『奴』と向かい合うことができたのは『彼』だけだった。
「どうして、俺たちなんかを助けたんだよ」
上官は、誰よりも早く逃げ出していた。無様にも背を向け、悲鳴を挙げながら脱兎のように。
即座に状況を判断し、動いたのは彼。
逃げろ、彼はそう叫んだ。
余りの恐怖に蜘蛛の子を散らすように部隊の全員が逃げだした。
脳裏に蘇るのは、無様にも逃げ出しながらも振り返った先にあった光景。
足は捻じれ、腕は引き千切られ、胸にはぽっかりと風穴が空いて。人体にはこんなにも沢山の血が流れているのかと思うくらいの鮮血を流し続けて。もう死んでしまうというのに。人生の終着点に到達して尚、それでも彼は、笑みを絶やしていなかった。
仲間を護れて、本当に良かった。そんな感情を顔に浮かべながら、本当に、最期の最期まで笑って逝った。
「クリス」
同じ部隊に配属されてから数年間を一緒に過ごした仲だった。公明正大にして、誰に対しても平等。同じ隊の仲間たちと比較することすら烏滸がましいほどの才覚にあふれた男だった。
誰もが、彼の背中に綺羅星のごとく輝く、未来の英雄の姿を見た。
だが、彼は死んだ。
「――――――クリスハルト」
決して返事が返ってくることなどないと知りながら、力なくその名を呼んだ。
「…………俺、は」
両足に、力を込める。
もう体力なんてこれっぽちも残ってない。
小刻みに痙攣する全身には、これ以上の駆動に耐えられるだけの余力が無い。
自分が一番それを理解している。だというのに、それでもなお、心が器を動かした。
引きずるように身体を酷使して、震えながら立ち上がる。
霞む視界の中、真っ直ぐに前だけを見る。
訳は決まっている。
本当に立ち止まってしまったら、命をかけた彼の行動が無駄になる。
どこまでも続く、終わりのない灰色の回廊を見据えた少年は、命を懸けて仲間を守って逝った彼が願った通りに歩きだす。力強さなんて微塵もない、頼りない小さな歩幅で。
「―――――――は―――――――っ」
それでも、確かな一歩を踏み出して。
――――――――とん、と。
奇妙としか言いようのない軽さが少年の感覚を戸惑わせた。
「――――――――ぁ」
視界が傾く。
いや、違う。これは体全体が傾いているんだ。
歩調が乱れ、膝から地面に崩れ落ちる。
軽い、軽い、軽い。
左半身だけが、酷く軽い。
まるで、本来そこにないといけないものが、ごっそりと消えてしまったかのような異常な軽さ。
「――――――――――ぇ」
『少年』は己の左腕が、肩口から先が、跡形もなく無くなっているのを見た。長袖だったはずの衣服は肩から先がない。無理やり引き千切られたように、力なく垂れさがっていた。
焼き付くような熱感が脳裏を貫いた。
滲みだす赤い染みが、噴き出すような鮮血へと変わる。
声は出なかった。痛みを認識することすら出来なかった。
どうしようもないほどの喪失感、失くしてはいけないものを取りこぼしてしまったような虚無感だけが心を蹂躙した。
―――――――まさか。
体を震わせながら振り返って、その存在を目視した。
黄金の獣。
禍々しい漆黒の霧が寄り集まり、四足歩行動物にも似た形を形成している。
黒の躰にびっしりと浮かび上がる黄金の光の線が、不気味に明滅を繰り返す。
獣が持つ天を貫くような捻じれた二本の角の真下、禍々しいまでの輝きを帯びた黄金の双眸が、静かにこちらを睥睨していた。
獣を前にして出来たのは、ただ呆然と見上げることだけ。
「―――――――どう、して―――――なんで」
ここにいるはずがない。
ありえない。
あいつが命をかけて足止めした。
してくれたんだ。
なのにどうして。
おかしいだろう。
お前はここにいちゃいけないはずだ。
お前がここにいたら、全部を投げうった彼は―――――――。
意味のない言葉の切れ端の羅列が、口から勝手に零れだす。
「死ぬのか」
最期に浮かんできた言葉は、何の捻りもない感傷だけだった。
恐怖はなかった。ただ、悔しかった。
彼のありったけの献身と命を捧げた代価として得た今を、それを活かすことの出来ない自分自身が、腹立たしくて、悔しくて仕方ない。
空虚さと惨めさと、怒涛の勢いで溢れだす諦観の念を隠すように、宙を見上げて。
遥か虚空の宙が、朝焼け色に染まった。
頭がそれを認識するよりも早く、全てを焼き尽くすような紅蓮が目の前を埋め尽くした。
遥かな空から堕ちてきた『焔』は反応すら許さずに毒の大気ごと大地を、空間を、『獣』をも焼き払った。
あまりの衝撃に『少年』の体が埃か何かのように後方へと吹き飛ばされる。二転三転と大地の上を転がり、全身の至るところを打ち付けながら、必死に体勢を立て直した後で目にしたのは―――――赤の世界。
見渡す限りの砂の大地は溶岩の如き紅蓮に煮え立ち、黒い蒸気が立ち上る中で少女を見た。
近づくことさえ不可能な圧倒的熱量。紅蓮の海と化した炎の中に、一人の少女が重力を無視するかのように、ふわりと降り立つ。
黒の長髪が、熱風に煽られて宙を舞う。
少女の両手には二振りの紅刃。刃それ自体が煌々と紅蓮の光を放っていた。
「―――――――はい、失敗しました。直前に逃れたようです」
少女の耳元に吊るされた耳飾りが淡い光を帯びていた。
「相手は『第三位階』。『神罰隊』の『二十席』から『三十席』までの上位席次を保有する『機士』の派遣要請を。各自、『神機』の開放を以って敵を捜索、発見次第討滅してください」
少女が纏う黒の外套が翻る。紅蓮の炎に照らされた背には、『逆十字』の紋様が刻まれていた。
ゆっくりと、黒髪の少女が振り返りこちらを見た。
「―――――――――――ぁ」
呆然と目を見開いた少年に向かって、彼女が何事かを囁いた。
聴こえない。何も、聞こえない。
無音の中で、少女の小ぶりな唇がいくつかの形を描き、言葉を紡ぐ。その意味を脳が理解した瞬間、少女の胸元で輝く『一』と刻まれた黄金の徽章が見えて。
――――――――夢視は終わりです。疾く目醒めなさい、十三番目の星の仔よ。
「――――――――っ!」
霞む視界に飛び込んできたのは、黄ばんだ天幕の天井だった。
耳に聞こえるのは鋭い風の音色。嵐のように吹きすさぶその風の所為か。バタバタと揺れる頼りのない天幕の壁を眺めてから、酷く全身が冷たいことに気がついた。
指先は痺れたみたいに感覚が酷く鈍いところを見るに、外気温は氷点下に近い数値を叩きだしているに違いない。
吐いた吐息が白い靄となって天井へと昇っていくのを見ながら、視線を逸らした。
暖はある。今も天幕の真ん中で燃える焚火は消えてない。格子状に組まれた貴重な木材がパチパチと音を経てて炭化していく。
「お、起きたねテムジン。どうだい、体の調子は」
鉄の棒を動かして火の番をする青年、ヒューイの声にゆっくりと上半身を起こした。
傍にかけていた黒塗りの外瘻を身に纏う。換気遮断の機能を持つ外瘻を着込めば、すぐに体温が戻ってくる。
羽毛と呼ぶには少し頼りない生地の薄さ。けれど、天幕内の冷気を遮るには十分すぎる効果があった。
「………倦怠感はあるけど、悪くない」
「そりゃよかった。君ってば案の定、副作用でぶっ倒れてね。とりあえず移動して、『結界』を張れそうな場所を見つけて天幕を設営したってわけさ。でも運が無くってね、暫くしたらこの寒さだよ。これなら、もう少し北に行ったところにある『浄化街』まで足を伸ばせば良かったよ」
はぁ、と嘆息したヒューイの吐息が白い。
「気候も天候も、てんでバラバラ。一定の時間経過で気温が数十度変わることだって日常茶飯事。一時間後には冬から夏へ、なんてね。四季なんて言葉がなくなって久しいけど、こうも環境が無茶苦茶だと、ほんとに世界って滅んだんだなぁって思うよ」
彼は半笑いで焚き木を突く。
「あ~……寒いなぁ、もう。嫌になるよね、ほんっと。僕は寒いの大の苦手なんだって、ずっと言ってたのに、隊長ってば、気合で何とかしろ、だなんて無茶苦茶なこと言ってさ。酷いと思わないかい?」
大体さぁ、と呟き、ごろんとその場で横になった。
「僕は生粋の『第五浮遊都市』育ちなわけ。あそこは気象設定が常に常夏みたいなもんだからさ。いくら外瘻を着ても耐えがたいのさ。本当ならもっと木材を燃やして暖をとりたいんだけど」
「木材は貴重だからな……無駄に消費したらあっというまに無くなるぞ」
立ち上がろうとして、ズキリと全身に走った痛みに顔を顰める。
「痛っ………まだ、駄目なのか?」
「そりゃあね。君、副作用舐めすぎでしょ。寧ろ、そんな短時間で立ち上がれるくらいまで回復してる君の体の方が凄いのさ」
「休んでなんて、居られないからな」
ぽつりと呟く。
「状況に変化はないのか?」
「いんや、特には。幸いこのあたりは地形も安定してるし、『魔獣』の徘徊コースからも外れてる。まあ、君が起きる少し前に一体だけ近くをうろついてる逸れ個体はいたんだけどね。『第一位階』程度、僕の遠距離狙撃一発で追い払える程度だし、近づかないように脅しておいた」
傍らに立てかけた銃をコツンと叩き、ヒューイは笑った。
「隊長には」
「いや、報告してないよ。隊長は今、奥の別室で会議中。邪魔なんてしたらま~た統括官に陰口言われそうだし。僕、あいつ嫌いだから」
「相変わらずだな、お前」
「君だって考えてみなよ、グスター統括官だよ。ほんっと、あのジジイめ。さっさとくたばれば良いのにさ。良い年こいて出世欲に塗れてる分、しぶといんだよねぇ、あいつ」
どんどん顔を不機嫌そうに歪めていく。
「『第二浮遊都市』の領主様から『貴位』を授かってるからねぇ。下手うったら不敬罪適応さ。なんであんな奴に『貴位』なんてあげたかなぁ、領主さまは」
忌々しそうに頭を掻く彼から視線を外し、天幕の出入り口へと向けた。
「あ、外に行くなら一応、『結界』の起動確認だけよろしく頼むよ。それだけ動けるなら副作用も大丈夫だろうし」
「了解」
テムジンは天幕から外へ出た。
暖気が一転して寒気へと変わった。
全身を突き刺すような冷気に包まれて尚、テムジンは顔色一つ変えることはなかった。
視線は頭上に。闇に包まれた灰色の空に向けられた。
太陽はとっくに沈んで、本来であれば夜空が広がるはずの宙は灰色の帳に閉ざされたまま。朝の日差しも、夜の星光も、如何なる光も遮断する。
見ているだけで気分が悪くなるような空とを隔てるように、天幕の周囲を、薄らと蒼色に輝く『光の壁』が包み込んでいた。
地面に突き刺さる四本の杭が基点となり、光を発生させていた。
簡易型大気浄化装置『浄化の帳』。そう呼ばれる装置が無事に起動していることを確認し、テムジンは憂鬱げに目を細めた。
まるで確かめるように大きく息を吸い、吐いた。
本当に、嫌になる。大気浄化装置なんて御大層なものがなければ、たったこれだけの行為が出来ない。
人類以外の生命は環境に耐えきれずとうの昔に絶滅した。生物の多様性などという言葉は辞書からも消え去った。
だというのに、それでも人は生きていく。
大気も、水も、大地も。
世界に存在するもの全てが汚染された。
――――――――千年も前に終わってしまった、穢れた世界の亡骸を踏みしめて。