蛍の行方
どこから書いたものか。あれは昨日の深夜だった。日付で言うと令和五年の四月二十一日だ。俺は仕事終わりにばったり会った友人との飲みが終わった後、家に帰宅してシャワーを浴びた。既に日付が変わっているような時間だ。
残っているタスクは寝るだけなのだが、俺は寝る前に煙草を吸わないと寝れない。煙草には覚醒作用があるから寝る前に吸ってはいけないらしいが、数年間の社会人生活でルーティーンと化してしまっていたので吸わないとしょうがなかった。
俺は窓を開けてベランダで煙草を吸い始めた。その日の日中は雲一つなく晴天で、煙草を咥えながら首を上げると星がよく見えた。子供のころ田舎で見た星より弱弱しく光っているが、流石のお星さまも都会のライトには勝てなかったのだろう。
「ひっぐ。」
ベランダの仕切りの向こうから女性の声が聞こえた。我慢できなかったのであろう嗚咽、不規則に漏れ出た声が深夜の暗闇に小さく溶けていった。
都会の人間は他人に冷たい。それは正しくもあり間違っているのだとこの数年で学んだ。正しくは興味がないのだ。喧しい声が聞こえようが人が倒れていようがそれが当たり前だから。いちいち気にしていられない。そして、どうでもいい。
いつもなら俺もそんな都会の人間らしい対応をしていたと思う。しかし、アルコール摂取で理性が緩んでいたのか、俺は仕切りの向こうに声をかけた。
「大丈夫ですか。」
嗚咽が一瞬止まった。声をかけた瞬間、何やってんだ俺はと後悔したのをよく覚えている。
「…え、っぐ、あ、ずいません。」
俺がベランダに出る前から長い時間感情をさらけ出していたのだろう。その声は濁音が混じり少しだけ枯れていたが、綺麗な女性の声だった。一度だけ朝の挨拶を交わしたときの声と似ていたから、隣に住んでいる女性だろう。顔はよく覚えていない。
「何かあったんですか。」
「あ、いえ。大丈夫です。」
「すいません。気になってしまってつい…。」
脊髄から俺の声は零れた。興味が勝ってしまった。大学を卒業してからここに住んでいるがこんなことは初めてだったから。たまに、隣室から喜怒哀楽…様々な声は聞こえてきたことはよくあったが。
「あの、話を聞いて貰えませんか。」
震えた声で彼女が訪ねてきた。構いませんよと俺は仕切りの向こうに返答をした。煙草の灰が少し零れた。
「夢があったんですよ。それを叶えるために都会に来たんですけど、もうタイムリミットが来ちゃって。」
彼女は流れ出すように独白を続けた。
「明日、ここから引っ越して田舎に帰るんです。最後の夜に、今まで我慢してた煙草を吸ってたら、いろいろ思い出しちゃって、はい、その…今に至ります。」
よくあることだ。自分とは異なる煙草の匂いに鼻孔がくすぐられつつ、俺の頭は非情にも結論を出していた。夢を叶えるために上京するが、ほとんどの夢は無残にも散っていく。彼女の夢の残骸を聞いた俺は彼女に本音を話した。
「少し羨ましいですね。」
「え。」
「それに人生を賭けれたことがです。俺にはそんなものなかった。」
二十歳の自分に手紙を書こう。小学生の頃、担任がそんな手紙を書かせてきた。自分はそんなこと完全に忘れていたが、実家に帰省した時母親がその手紙を見せてきて思い出したくらいだ。その話を聞いた彼女は俺に尋ねた。
「なんて書いてあったんですか。」
「小説家になっていますか…でしたね。」
「今は違うんですか。」
「普通のサラリーマンですよ。正直、そのこともすっかり忘れていました。」
女性の声から推測するにおそらく二十代。何年かは分からないが、その貴重な数年を夢のために捧げたのだ。それが潰えた時のリスクを込みで。その一線を踏み越えて挑戦したこと自体が眩しかった。
「一つ聞いていいですか。」
俺は仕切りの向こうに声をかけた。彼女から了承の声を聞いた後に尋ねた。
「あなたの夢は何だったんですか。」
聞いてみたかった。彼女が挑戦して敵わなかった夢が何だったのか気になってしょうがなかった。おもちゃを見つけた子供のような声で彼女は答えた。
「なんでしょうかね。当てれたらお答えしますよ。」
「流石にそれは難易度高すぎませんか。」
「そうですね、じゃあ三回質問していいです。タイムリミットはそうですね…私の煙草が無くなるまでです。」
聞くと彼女の煙草はあと半分ほど、大体二分くらいか。あまり時間はなさそうだ。俺は急いで頭を回転させ質問を投げかけた。
「それは職業ですか。」
「そうですね。立派な職業です。」
「それは一般人が目にするものですか。」
「うーん、昔はあまり見なかったものだと思います。最近はテレビとかのメディアに出演されることがありますね。」
彼女は何かの職業につくこと。そして、それは都会の方が仕事が多くある。都会云々は大体の仕事がそうだからあまり関係ない。そう整理する俺の頭は後悔の感情でいっぱいになっていた。急ぐあまり熟考せず質問をしてしまった。
「あと、一分くらいで吸い切りますね。」
こちらを焦らす声が聞こえた。気持ち嬉しそうなのは気のせいではないと思った。何かないだろうか、核心を突くような質問は。
「次で最後の質問ですね。もう二回くらい吸ったら全部灰になっちゃいますよ。」
その言葉を聞いてハッとする。そうだ彼女はこれまで…。
「それは煙草を吸っていてはできないお仕事ですか。」
「喫煙者でもやっておられる方もいますよ。私は吸わない方がいいと思ったので我慢していましたけど。」
正直、いい質問達ではなかった。もっと考えていれば核心をもって答えれていたと思う。
「私の煙草の火は消えました。さて、私の夢は何でしょうか。お隣さん。」
それでも俺はこれまでの生活、そして今の三つの質問を経て彼女の夢を拾い上げた。
「あなたの夢は声優になること…違いますか。」
「すごい。正解です。」
安堵の声が口から漏れた。自分の手元を見ると煙草の灯は消えており足元には灰落ちていた。
「どうして分かったんですか。」
「あなたが煙草を我慢していたことから、おそらく喉に負担をかけないようにしていたのだと思いました。最初にそこに気付けていれば一つ目の質問にできていた。失敗です。」
「なるほど、でもそれだけだと分かりませんよね。」
それはそうだ。だってこれは質問とは関係ないから。俺が隣室に住んでいたからこそ気づいたことなのだから。
「夜中によく変な声を出していませんでしたか。怒った声、泣いた声、笑った声…いろんな声が聞こえてきました。これはセリフが書かれた台本を読んでいたのだと思ったんです。」
そういう人だっているかも知れないと言われたら、ぐうの音も出ないが。俺の不安をよそに彼女からは別方向からの突っ込みが来た。
「台本を読むのは声優だけじゃありませんよね。代表的なもので言えば舞台に立つ役者さんも台本を読みます。むしろ、そっちの方が真っ先に思いつきません。」
俺もその二択で悩んでいたが、質問を使い切ってしまい何も聞けなかったのだ。だから、単純にこれは運が良かった。
「そこは二つ目の質問であたりをつけました。声優さんがメディア露出し始めたのは、私の知る限り最近になってからだと思います。俳優、女優の方は昔からバラエティなどでゲストで呼ばれていましたからね。」
この二分間の問答で良く分かった。俺は探偵にはなれない。こんばガバガバな推理で当てられたら読者も憤慨ものだろう。ひとえに運が良く、そして彼女が優しかったから正解というお墨付きをもらえたのだ。
「憧れてたんですよ。不思議なマスコットを連れた女の子が一生懸命頑張る姿に。すごい大好きで調べていくうちに声優っていう職業があることを知ったんです。最初はあの女の子がいないことにショックでしたけどね。」
「でも、もう無理なんです。半年前に父親が倒れて仕送りが無くなったんです。アルバイトして頑張っていましたけど、シフトが合わずに制作会社さんとの挨拶に行けなくて、それが何度が続いてもう声をかけられなくなりました。」
「貯金も底を尽きたのでもう限界かなと。生きるだけでお金ってこんなになくなるんですね。お年玉もっと貯めておけばよかったです。」
俺は彼女の言葉を聞くことしかできなかった。蛍族という言葉がある。うちの父親のように集合住宅などのベランダで煙草を吸う人をそう呼ぶのだ。隣に住んでいた蛍は都会に住めなかった。光ることを我慢して住み続けたが限界を迎え、今まさに最後の光を灯して消えたのだ。
「お話聞いてくれてありがとうございました。最後に貴方と全部話せて良かったです。」
「…お元気で。」
「はい、ありがとうございます。」
翌日、隣室を確認すると既に誰もいなかった。早朝に引っ越しを済ませたのだろう。あのベランダの仕切りを挟んでの会話が最後だった。
あれを聞いて俺の何かが変わるわけではない。強いて言えば台本を読む愉快な声が聞こえなくなるくらいだろう。でも、何故だろう。俺の胸の中心から何かが抜け落ちたような、穴が開いたような虚無感に襲われる。
玄関の外を見る。そこから見える景色はいつもと変わらなかった。この地から一匹の蛍がいなくなっても平然と無常に日常が回り続けていた。俺にできるのはあの蛍がまた輝くときが来るよう祈るくらいしかない。
いや、他にもできることがあった。俺は玄関の扉を閉め、急いで自身の部屋に戻った。今ではネットの動画コンテンツを観るくらいしか使用していなかったノートパソコンを立ち上げ、適当なエディタソフトを起動した。
彼女の名は世界のどこにも残らない。でも、その欠片を誰かに伝えることはできるのだと思う。そうして彼女とのやり取りをできる限り思い出す。
これは何処かへ行った蛍を誰かの記憶に刻み付けるため。そして子供の頃、小説家になりたいと言っていた自分への手向けとするため俺はキーボードを叩き始めた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
数年ぶりに筆を取りましたが、久しぶりに物語を綴っていく過程は、とても大変でそれ以上に楽しいものでした。春の推理2023という企画がなければ筆を取ることはなかったと思います。ひとえに関係者の皆様に感謝申し上げます。