第一話 完璧姉妹の冒険
小さな丘の多い、でこぼこの大地。
夏の強い日差しを受けた草木が、ぼうぼうと茂っている。
大地を横切っている一本道は、きちんと土を固められているが、そこさえも草たちは勢力下にしている。
それでも、ときどき通る馬車のおかげで、道の外に比べれば草の丈は短く、地面が見える程度にはまばらである。
そんな道を三台馬車が走っていく。
三台ともホロをかけた荷馬車。
馬は4頭仕立てで、傾斜と蛇行の多いこの一帯でも、悠々(ゆうゆう)と走っている。
先頭の馬車の御者席に座る男が大きなあくびをした。
デイターという名の旅商人で、この商隊のリーダーである。
年は四十二歳。
つばの広い帽子の下の頭髪はかなり薄くなっている。その代わりに口髭はふさふさと豊かだ。
デイターはあくびを噛み殺した。
朝から日陰のない場所を走っていたので、疲れがたまっているのだろう。
遠くの森を見て、もう少しだと自身を奮い立たせる。
あの森についたら、昼食にしよう。
その時だった。
逃げ水で歪む森から、何かが空へと飛びだした。
色はよくわからないが鳥のように見える。
だが森との距離を考えれば、鳥であるわけがない。
大きすぎる。
デイターは馬を止めた。
森に近づくのは危険だ。
ホロから少年が顔を出した。
「父さん、どうしたの?」
デイターはそれには答えずに、空に上がった鳥のようなものを眺めた。
それは、大きくなっているようだ。
「ロウガ、フィリップたちに……」
デイターは途中で言葉を飲んだ。
空のそれが、急速に大きくなって、はっきりと形が見えるようになったのだ。
大きな翼を生やしたトカゲ。
そんな形だ。
だが、それがかもしだす雰囲気は、トカゲなどという生易しいものではない。
ドラゴン。
最強の魔物といわれる存在だ。
「逃げろ」
デイターは叫んだ。
言葉とは正反対に、唖然と空を見上げている息子を抱きしめた。
もはや、どうあっても、間に合わない。ドラゴンは確実に自分たちを殺しつくすだろう。
突風が起こり、ホロを揺らす。
馬たちが激しくいななく。
デイターは身を震わせながらも、背後を振り返った。
馬車のすぐ傍らに、二階建ての家屋ほどの赤茶色の塊があった。
息子が胸の中で何かをわめいている。
デイターは、ひと思いに頼む、と心中つぶやいた。
ドラゴンが真っ赤に光る片目で、デイターを睨む。
もう片方の目は、つぶれ、青い体液が流れている。
デイターに、その怒りをぶつけるかのように、うなり声をあげる。
威嚇のためだろうが、デイターには死刑を告げる宣告のように聞こえた。
その時だった。
ちらり、と光線が横切った。
ドラゴンの隻眼が、青い血しぶきをあげて弾けた。
ドラゴンが咆哮する。
先ほどのうなり声とは訳が違う。
デイターは心臓が吹き飛ぶかと思った。
だが、それが唐突に止まった。
恐る恐る顔を上げると、ドラゴンの頭には幾本もの矢が突き刺さっていた。
まるで針立てのようだ。
ドラゴンが、翼をはためかせる。
デイターにはそれが逃げるためだと分かった。
なりふり構わずという態だ。
圧倒的な恐怖を体現していた存在は、もはや欠片もない。
ドラゴンは飛び立てなかった。
いつの間にか、翼はボロボロになっている。まるで何十本もの矢を受けたかのようだ。
「往生際が悪い子ね」
ふいに聞き覚えのない声がした。
ドラゴンのすぐ真下に、人影があった。
小柄だ。息子のロウガと同じくらいの背丈ではないだろうか。
マントを羽織り、顔には大きなゴーグルをはめている。
手に持った複雑な形をしたクロスボウを片手で上に向ける。
クロスボウに装填された矢の先が光った。
次の瞬間、射出された矢がドラゴンの首を貫いて、天空へと飛んでいった。
ドラゴンの首がクタリと垂れた。
四肢を折って潰れると、そのまま動かなくなった。
呆然と、ドラゴンと、それを射た人物を眺めるデイター。
息子が彼の腕から抜け出した。
「すげえ、本物のドラゴンだ」
クロスボウを持った人物が振り返った。
女性だった。
胸当てを始めとした革のプロテクターを身に着け、麻色の髪をアップに結い上げた小柄な女性。
「すみません。ご迷惑をおかけしました。お怪我はありませんか?」
女性が言った。
「お姉さん冒険者?」
「ええ、そうよ」
「すげえ。ドラゴンを一人で倒すなんて」
「一人じゃないわ。仲間がいるんだけど、
ドラゴンが逃げたもんだから、私だけ先に追ってきたのよ」
後ろの馬車からデイターの仲間たちが、おっかなビックリという様子でやってきた。
女性とドラゴンを見比べている。
「本当にご迷惑をおかけしました。我々のミスです。せめてもの償いに、行先まで同行させてください」
女性が深々と頭を下げる。
「ミスだなんて、とんでもない。あなたがいなければ、私たちは皆殺しにあっていたんですから」
ようやくデイターは商隊のリーダーとして振る舞うことができた。だが、まだ声が震えている。
「姉さん、冒険者なら、『勇者アルフレッド』に会ったことあるかい?」
ロウガが言った。
すると、かしこまった様子だった女性が、胸を張った。
「ええ。私、あの方の弟子だもの」
大興奮のロウガ。
すげえ、すげえ、と声をあげている。
デイターはようやく女性の正体に思い至った。
ドラゴンをなんなく倒すことができる冒険者。
それも、あの『勇者アルフレッド』の弟子。
「ひょっとして、あなたは『完璧射手ルカ』ですか。クラングランを救ったという……」
「『完璧射手』って呼ぶな」
女性がピシャリと言った。
女性はすぐに、頭を振って、非礼を詫びるとゴーグルを外した。
まだ十代後半くらいと思われる年若い女性だった。
「『勇者アルフレッド』の一番弟子のルカです。ミスばかりしている、まったく完璧ではない未熟者ですよ」
◇◇◇
諸人歴1023年夏。
二体目のアルタードラゴン『ラミーナ』が復活し、新生エルデス帝国(旧カザイン王国領)帝都アクアランダ、および、ガーラント帝国帝都ガーラント、そして魔法使いギルドトゥリスの本拠地である『無限の塔』を焦土と化してから、二年の月日が経った。
西方六ヵ国中、ガーラント、クロン、新生エルデス帝国の三ヵ国が完全に瓦解したのである。
その混乱は未だに収束の兆しすら見えない。
それでも、残った三ヵ国、サンストン、ウルヘルム、オルデンは、互いに協力し合いながらも、かろうじて秩序を維持していた。
ただ、押し寄せる難民や、増える野盗などの対応に終われ、どの国も軍や治安維持組織は大わらわ。
魔物の対応にまで手が回らず、そのつけは、冒険者たちに向かうことになる。
そういったわけで、この日も、オルデン王国王都にある冒険者ギルド本部は、大賑わいだった。
混雑するホール。
走り回る制服姿の職員たち。罵声や怒声がそこらかしこで飛び交っている。
そんな中、ルカと相棒のリリィは受付の職員から依頼の報酬を得ていた。
「ドラゴンの早急なる退治。ありがとうございました。本来ならば、上級冒険者総動員で、ことに当たらなくてはならない事態だったというのに、さすがは、かんぺ……」
言いかけて眼鏡の女性職員は、こほん、こほんと咳払いした。
「今回はミスをしました。もう『完璧射手』ではないですね」
ルカは淡々とした口調で言った。
「ミスですか? 被害の報告はありませんが。まだ幼体とはいえ、ドラゴンが集落にでも現れれば、その被害は甚大だったでしょう。あの辺りは、新しい村も多く、届け出のない集落もたくさんありますから」
魔物除けの結界は領主から太陽教会への要請があって、初めて張られる。
住民が領主に届け出をしていなければ、税を払わなくて済む代わりに、破魔結界を張ってもらえない。
「最初の攻撃でドラゴンが逃げるとは思わなかったんです。おかげで、近くを通っていた人たちを危険な目に合わせてしまいました。失態ですね。『完璧射手』の名も返上すべきでしょう」
「いえいえ、結局、その方々も助けたのですから、ミスに入りませんよ。むしろ、より完成度の高い仕事を目指すというその姿勢こそが、『完璧射手』たるゆえんじゃないですか」
「私は嫌だと言ってるんですけどね。ルイーザさん」
ルカは女性職員を睨んだ。
「『勇者アルフレッド』も勇者の名を嫌がってましたけど、きちんと勇者でしたわ。そういった師匠の姿に習うべきでは?」
ルイーザは不機嫌に黙り込むルカから、その隣にひっそりと立つ女性に目を向けた。
「『沈黙剣』さんもおつかれさまでした」
背の高い女性である。見事なプラチナブロンドにグラマラスな体つき。顔立ちも整っているが、存在感が薄い。
ルカと同じくプロテクターを金具で連結させた防具を身にまとっている。腰には武器の刺突剣レイピア。
ルカの妹で、冒険者としてのパートナー、リリィである。
妹といっても二人の間に、血縁関係があるわけではなく、義理の姉妹となるような関係性も特にない。
姉妹となることを誓った間柄ということである。
「私は別に『沈黙剣』でもいいけど」
リリィはじっとルイーザを見つめた。
「先生の名前をくだらないことで使われるのは不愉快」
「では次もよろしくお願いします。『完璧姉妹』さん」
ルイーザはまったく気にせずに言って、頭を下げた。
ルカは報酬の入った大袋をつかむと、受付に背を向けた。
口を引き結んだまま、床を鳴らして早足で歩く。
その後ろをリリィが静かについていく。
そんな二人に多くの視線が集まっている。
冒険者にとって、ドラゴン退治は『神々の試練』攻略に次ぐ誉れである。
それをたった二人で成したのだ。
さすがは、『勇者アルフレッド』の弟子。
そんな無言の言葉が伝わってくる。
◇◇◇
「誰が、『完璧射手』だってえの。本当、いい加減にしとけよ」
ルカはもう何倍目かになるビールのジョッキを空っぽにすると、ダンとテーブルに叩きつけた。
その顔はもうすでに真っ赤で、目はすわっている。完全に酔っ払いだ。
「お~い、お姉ちゃん、次ちょうだい、次」
大声で店員を呼ぶ。
込み合った店内を動き回っている店員の一人が、は~い、と声をあげて寄ってきた。
「ビールでいいですか?」
「お姉ちゃん、いいお尻してるじゃない。歳、いくつ?」
サワサワと尻を撫でる。
「二十二歳です」
「あれ、私より年上かあ。肌、つやつやあ」
今度はむき出しの腕を撫でながら、でへへ、と笑う。
「お客さんも同じくらいじゃないですか?」
「私は二十歳。そっちのは、もうちょっと年いってるけど。いくつだっけ、リリィ」
「二十五」
リリィが短く答えた。
「お二人とも冒険者ですよね」
「ええ? そう見える? 私ったら筋肉つきすぎ? 超ショックなんだけどぉ~」
ルカもリリィも冒険支度から着替えている。
ルカは赤い胸元の大きく開いたワンピース。肩から薄絹のショールをかけている。
リリィは黒いノースリーブの上からコルセット。大きな胸を強調している。
見た目だけならば、少し派手な女性の二人組といったところだろう。
「雰囲気がありますから。ここ、冒険者の方もよくご利用されるんですよ。ほら、あの方々も、たぶん冒険者ですよ」
ちょうど店に入ってきた三人組の男性をそっと指して、店員が言った。
「ほおほお。あの黒髪、ちょっと先生に似てない? ねえ、リリィ、似てない? 似てるよね」
ルカは黒髪のすらっとした青年を思いっきり指さして言った。声もでかい。
「似てない」
リリィはひと言で片付けた。
「似てるよ。絶対似てるよ。生き写しだよ。リリィ、ちょっと一緒に飲もうって言ってきてよ」
「嫌」
「なんでよ。あんたの方が男好きするんだからさあ。そのでっかいオッパイで誘ってきてよ。あの人とやりたいんだよお」
「かわいそうだからダメ」
リリィにしてみれば、ベッドまで誘い込んだ挙句に、途中で正気付いたルカにあられもないかっこうのまま叩き出される男がかわいそうでしょうがない。
その行為を、一人美人局とリリィは密かに名付けている。
「処女を捨てたいなら素面のときにしたら?」
「うるせえ、ビッチ。乳もむぞ」
「ガラ悪い。その一杯でおしまいにして」
先ほどの店員が置いていったジョッキを、グイッとあおるルカ。ぷはぁ~、と酒気を吐く。
「先生に会いたいなあ。ねえ、リリィ」
「うん。会いたい」
「会いたいよお。帰ってきてよ」
テーブルに突っ伏して、よよよ、と泣き始めた。
リリィはその頭を撫でた。
それが心地よかったのか、嗚咽がいつの間にか寝息に変わっていた。
格別、いつもよりも酒量が多かったわけではない。
ルカは酒が好きだし、飲み始めると潰れるまで飲む。
リリィにとって、こんなことは毎度のことである。
ルカが酒の味を覚えたのは、彼女たちの師であるアルフレッドが、この世界からいなくなってからのこと。
リリィでさえも心に大きな穴がポッカリと空いたようで、今でもその空虚さは埋まっていない。
アルに恋慕していたルカにとってはなおさらだろう。
リリィは手の平を、ルカの結い上げた頭から、顔の方へ下ろしていった。
テーブルにくっつけた顔が歪んでいて、ひどく幼く見える。
リリィの顔に薄っすらと笑みが浮かんだ。
愛おしさが込み上げてきて、満ち足りた気持ちになる。
ふっとその顔がいつものボンヤリとした茫漠とした表情に変わった。
二人のテーブルに近づく者がいた。先ほど、ルカが指さしていた冒険者たちだ。
「なあ、あんたたち、さっき俺たちの話してただろう?」
黒髪の男が言った。ルカがアルに似ていると言った男だ。
リリィは、さっと一瞥。すぐに視線をルカに戻した。
「連れの子、潰れちまったじゃないか。だけど、あんたはまだ飲みたい気分だ。違うかい?」
いかにも戦士といった大柄でガッチリとした男。
「なんなら、あんたの連れ、俺が送ってやろうか」
また黒髪の男。
どうやら、ルカが自分を指さしていたのを、好意と受け取ったようだ。
一人美人局の餌食にしようか、とリリィは一瞬思った。
たとえ、潰れていても、ルカが体を許すことは万に一つもないだろう。
だが、そのあと、ルカが三日間くらい落ち込むことは目に見えているし、なによりもこんなつまらない男が大切な人の体に触れるのは虫唾が走る。
「消えて」
リリィは目も向けずに言った。
「そうつれないこと言うなよ。俺たち、こう見えても冒険者なんだぜ。こいつなんて、『勇者の後継者』なんて名乗ってるんだぜ」
三人目。小太りの男が言った。
リリィがようやく顔を向けたので、脈があると思ったのだろう。
黒髪の男がドンと胸を叩いた。
「『勇者の後継者レイト』だ。『ベルクライン』じゃあ、一番の出世株なんだぜ」
冒険斡旋屋『ベルクライン』。王都には何軒もある斡旋屋のひとつである。
男たちは気楽な服装をしている。
胸元までボタンを空けたシャツ。まくりあげた袖。短剣すら帯びていない。
リリィもルカも、ももに小ぶりの短剣を結んでいる。いざというときのための備えである。
何があるかわからない。常に最低限の武装はしておく。それがアルが教えてくれた冒険者としての心得である。
「姉さんが起きてなくて良かったね」
リリィは、黒髪の男レイトの鼻をつまみながら言った。
う~、う~、と暴れるレイト。
彼にしてみれば、わけがわからないだろう。リリィがいつ、立ち上がったのかすら、見えなかったのだから。
「いい? 次に私たちがこの街に来た時に、まだあんたがそのふざけた名乗りをしていたら、金玉を潰してやるから」
常に瞳にかかっている靄のようなものが晴れ、鋭い眼光が男を突き刺す。
「てめえ、このアマ」
大柄な男が怒声をあげてリリィに殴りかかる。
リリィはレイトの鼻をつまんだまま、別の手で、大柄な男の顎の先を人差し指で突き上げた。
男の動きが止まった。顎を突き上げられたまま、どうにも身動きできなくなったのだ。
「うるさい。姉さんが起きるじゃないか」
ついっとリリィが顎から指を外すと、男は大きくバランスを崩して、尻餅をついた。
鼻をつまんでいるレイトの顔をぐいっと引き寄せる。
「全然似てない。先生はもっとハンサム」
レイトもポイッと捨てる。尻餅をついた。
男たちはそのままおずおずと引き下がっていった。
再び席についたリリィは彼らに目もくれない。
ルカの涙の跡が残る頬を、そっと拭いた。