343 俺に良い考えがあるんだ!
「いや……お前なにを言って……」
ヌルの言葉に耳を疑う。
彼はこんなことを言うような奴じゃない。
「あんた……正気かい?
ユージさまになんてことを……」
彼の言葉に驚愕したのはウーも一緒。
とても信じられないと言った様子で彼を見やっている。
「ああ、俺は正気だ。
仕事を辞めてこの街を出るんだ」
「街を出てどこへ行くつもりなのさ⁉」
「さぁ……とにかく遠くへだ。
別の国に移り住んでも良い。
ヘルドなんてどうだ?
あそこはゼノよりもずっと栄えていて……」
「冗談言うんじゃないよっっっ‼」
怒髪天を衝くウー。
彼女は鬼のような形相でヌルにつかみかかる。
「アンタはいつだってそうだ!
いきなり訳の分からないことを言い出して!
私たちを振り回すんだ!
いい加減にしておくれよ! ほんとに!」
「いいから落ち着けって」
「これが落ち着いていられるかい!
私だってねぇ――私だってずっと我慢してきたんだよ!
子供の為だ、子供の為だってずっと!」
「話を聞くんだ、おい」
ヌルとウーで取っ組み合いが始まる。
二人の身体がテーブルにぶつかり、机の上の花瓶がぐらりと揺れる。
危ないと思った俺は花瓶を抱えて避難させた。
「父さん⁉ 母さん⁉ 何してるんですか⁉」
スーが戻ってきた。
彼女は慌てて二人を止めに入る。
「止めて下さい! 喧嘩なんて!」
「アンタは引っ込んでな! 怪我するよ!」
「いいですからとにかく落ち着いて!
母さんは殴るのを止めて!」
「うるさい! あたしゃもう許せないんだ!」
スーが止めに入っても喧嘩は一向に収まらない。
俺が間に入っても粉々になるだけなので、ただ見ているだけ。
と言うか、安易に止めたらダメな気がする。
ウーが怒る理由がもっともすぎるんだよなぁ。
なんでヌルは仕事を辞めるなんて?
もし本当に辞めるのなら、従軍するのもナシになるのか? 今朝の会議ではやる気満々だったのになぁ。
彼がなんで退職を申し出たのか俺は理解できなかった。
目の前では二人が取っ組み合いの喧嘩をしていて、その娘が必死に止めようとしている。
喧嘩が収まるまで、あとどれくらいかかるかな。
「ユージさまも見てないで手伝って下さい!」
スーが涙目になって訴える。
「無理、無理。
俺が止めに入ったらバラバラに砕けてしまう」
「そんなこと言ってないで!
お願いですからぁ!」
って言われてもなぁ。
三兄弟が帰って来るのを待つほかあるまい。
「はぁ……はぁ。
この馬鹿亭主! アホ!」
「そんな言い方ねぇだろうが」
「うるさい! 黙れ!」
そう言って顔面を殴りつけるウー。
さっきからヌルはボコボコにされているが、まったく反撃していない。
嫁を殴るのは気が引けるんだろう。
まぁ……殴られて当然のことをしたわけだが。
「ぜーぜー。はーはー」
「母さん、とにかく落ち着いて……。
何があったか話を聞かせてよ」
夫を殴り疲れて息が上がったウーをスーが引き離して落ち着かせる。
彼女がなんで怒ったのか知ったら、スーも味方をするんじゃないかな。
「お父さんが……仕事を辞めてこの街を出るっていうのよ」
「えっ⁉ なんで⁉」
「アナタたち、一緒に帰って来たんでしょ?
そんな話はしてなかったの?」
「全然! 聞いてないよ!
父さん、どういうことですか⁉」
スーも初耳だったらしい。
そうだよなぁ。
今朝と言ってることが全く違うんだもん。
「俺はなぁ……
そろそろ次のステージに進むべきだと思うんだ。
こんな街でくすぶってないで、マジでビッグな男になろうと思ってよぉ」
「「……は?」」
目が点になるウーとスー。
ヌルは二人に続けて言う。
「お前たち、こんな暮らしで満足か?
大豪邸に住んで、優雅な暮らしをしたくないか?
だったら、ゼノなんかに住むのは止めて、ヘルドへ行って大儲けしよう!
俺に良い考えがあるんだ!」
「「…………」」
暴走する父を前に妻と娘は白目を剥く。
とても直視できない。
ヌルは頭がぱっぱらぱーになったのか、自分の考えた成功のための秘策を延々と語り聞かせている。
そのどれもが子供の考えたようなもので、聞いていると頭が痛くなっている。
レオンハルトですら鼻で笑うと思う。
どこでどう突っ込むかと思案していたが、俺よりも早くウーとスーが動いた。
「母さん、これを」
「はいよ」
何処から持ってきたか分からないが、大きなハリセンをスーがウーに手渡す。
どこから持ってきたの……それ。
「いい加減にしろ! この馬鹿っ‼」
「うぎゃ‼」
思いっきり頭をハリセンでひっぱたくウー。
ヌルは頭を押さえてしゃがんでしまった。
「いてぇなぁ……何しやがるんだ!」
「それはこっちのセリフだよ!
いい年した大人が、子供みたいなこと言って!
人を馬鹿にするのもいい加減にしなっ!
大体、なんでそんなことを思いついたのさ。
話してごらんよ!」
「それは……」
ヌルは俺の方を見る。
……流石に人のせいにはしないよな?
「仕事が……面白くなくて……」
「面白くないっ⁉
なんだいそのしょうもない理由は!
ふざけるんじゃないよ馬鹿!
仕事なんてのはねぇ、面白くなくても、必死になって続けなくちゃいけないんだよ!
それが分からないわけじゃないだろっ⁉」
「でっ……でもぉ……」
でも……じゃねぇんだよなぁ。
ウーの言う通りだわ。
「アンタが思っている以上に、アンタが背負ってる責任ってのは重いんだよ!
息子たちも自立してもう働いてるけど、アンタが仕事を辞めたら食ってけなくなるだろ!」
「働くのをやめるわけじゃねぇよ。
俺たちがもっと幸せになるために、もっといい仕事を……」
「そんなもん、この世にはないよ!
この馬鹿! アホ! 間抜け! 屑!」
「いくら何でも言いすぎだろ……」
ボッコボコに言い負かされたヌルは何も言い返せずに身を小さくする。
ウーが一通り言いたいことを言うと、今度はスーが口を開いた。
「父さん、どうして急にそんなことを?
さっきまで普通な話をしてたじゃないですか」
「ああ……そうだな」
「もしかして私が原因ですか?
私が入隊するなんて言ったから……」
「…………」
何も答えないヌル。
大方、それが原因じゃねぇかなぁ。
他に考えられないんだよね。
あの時、スーの話を聞いた途端に、ヌルは顔色を変えて出て行ってしまった。
よほど彼女のことが心配だったのだろう。
しかし、父であるヌルは、スーをしっかりと叱れていないらしい。
14の娘が従軍するなんてとんでもない!
いい加減にしろ!
そんな風に怒鳴ってやれば、スーも考えを改めるかもしれない。
しかし……今の彼女を見る限り、ヌルから何か言われた様子はない。
じゃぁ、それを回避するために、仕事を辞めて他所へ引っ越すと言うのか?
それもちょっと……というかすごく。
浅はかで場当たり的な考えだと思う。
ヌルはそんなに馬鹿じゃないので、彼なりに考えた結果なのだと……思いたい。
「なぁ、ヌル。
きちんと話を聞かせてくれないか?
どうしてお前は……」
俺が尋ねると、彼はじっとこちらを見つめる。
その武骨な面構えに何やら不穏なものを感じた。
彼の瞳の中で暗い闇が渦巻いている。