293 フェルの恋は実らない1
これはフェルがゼノへやって来る前の話。
「おーい! フェル!」
丘の向こう側から兄の呼ぶ声がする。
のどかな丘陵地帯。
青い草に覆われた小さな丘。
青い空がどこまでも続いていて、白い雲がのんびりと流れていく。
そよそよと爽やかな風が吹き抜ける。
平和で、安らぎに満ちた場所。
フェルの故郷は幸せに満ちていた。
「兄さーん⁉ どこー?」
「ここだよー!」
丘に登ると兄であるセツの姿が見えた。
彼は両手を広げて大きく振っている。
その隣には――
(カインさんも一緒だ……)
カインはセツのツガイ。
二人はフェルがまだ幼いころから深い関係で、数日前に里の者に祝われるなか婚姻の儀を執り行い、晴れてツガイとなったのである。
結ばれてまだ数日も経っていないのに、すっかり仲の良い夫婦になっている。
雄と雌の区別のない白兎族。
彼らは同族同士でツガイになると、どちらが夫で、どちらが妻になるかを決める。
兄のセツは妻に、カインは夫になった。
フェルが丘の上から二人を見下ろすなか、セツはまるで見せつけるかのようにカインに抱き着きつく。
しばらく無邪気にじゃれ合ったあと、目線を合わせた二人は互いに吸い寄せられるように口づけを交わす。
(二人とも、すごく幸せそう。羨ましいなぁ)
幸せそうな二人を見つめて、フェルは胸のあたりがキュンと苦しくなるのを感じる。
モヤモヤした苦しさの正体を彼は知っている。
これは恋煩いだ。
◇
フェルの初恋の相手はカインだった。
幼いころからずっと傍にいて、いつも味方でいてくれた。
転んで怪我をしたらたらすぐに駆けつけてくれたし、さみしくて一人で泣いていると颯爽と現れて抱きしめてくれる。
まるでヒーローのような彼に、フェルが恋心を抱くのも時間の問題だった。
というか、物心がついたころにはカインがいて、彼はずっとフェルに寄り添っていた。
大きくなったら彼と結婚するんだと勝手に思い込んでいた。
しかし……カインがフェルの家に入り浸っていたのは、フェルを守るためではない。
兄であるセツを口説くためだった。
セツは里の中でも一番の美人と評されていた。
白兎族に雄と雌の区別がないと言っても、容姿には個体差がある。
ほとんどの白兎族が少年のような体つきをしているのに対して、セツの身体は丸みを帯びて、胸のふくらみもある。
人間でいう“女性”のような容姿をしているためか、里の若い者たちから人気があった。
フェルの前でセツは兄としてふるまっているが、ひとたび家の外へ出ればみんなのアイドル。
誰がセツと結ばれるのか里中で話題になるほどだ。
そんな騒ぎの中、セツの心を射止めたのはカインだった。
彼は弟のフェルを懐柔することで家族との結びつきを強め、セツに近づいていった。
気づけば家族全員がカインに心を許し、家族の一員として受け入れていたのだ。
要はセツ本人よりも先に外堀を埋めにかかったのである。
その作戦にまんまとハマり、セツはカインと結婚する道を選んだ。
フェルからしたらいい迷惑である。
幼い彼を利用してセツに近づいたカイン。
ただそれだけなら、別に気にもしなかっただろう。
優しい義兄として受け入れたかもしれない。
だが……フェルはそんな簡単に割り切れなかった。
彼が幼いころからカインはずっとそばにいて、騎士のように彼を守り、どんな時も傍にいてくれた。
そんな相手を好きにならないはずがない。
好きで、好きで、大好きで。
ずっと傍にいて欲しいと思ってしまった。
彼の子供が欲しいと願ってしまった。
そんなフェルの気持ちを知ってか、知らずか。
彼の前でいちゃつく二人。
唇を重ね合わせるだけのキスは、やがて過激なものになる。興奮してその気になったのか、二人はフェルのことなどお構いなしに、できたばかりの新居へと引っ込んでいった。
「はぁ……昼間からよくやるよ」
ため息をつくフェル。
優しく吹き抜ける風が、彼の頬を慰めるようにそっと撫でる。
くすぐったくて頬をこする。
フェルが一人で泣いていると、カインがやって来て、頬の涙をぬぐってくれたっけ。
もう……そんなことはしてくれない。
彼には誰よりも大切な人がいる。
兄のセツこそがセツにとっての世界で一番の相手。
フェルなんて、2番か3番か、そこらへん。
二人に子供ができたのなら、順位はどんどん下がっていくに違いない。
「はぁ……嫌になっちゃうなぁ」
またため息をつくフェル。
どんどん気持ちが重くなっていく。
きっと、カインは僕のことなどどうでもいいのだ。
兄を口説くために利用したに過ぎない。
そう分かっていても、いまだに気持ちを切り替えられない。
フェルは失恋から立ち直れずにいた。




