279 ベルは今日も忙しい11
本屋から離れて、市場をぶらつく二人。
店には色とりどりの果物や、新鮮な野菜、水産加工食品などが並んでいる。
特に何かを買うわけでもなく、ただ商品を眺めて歩き回るだけでも楽しい。
調理用具やアクセサリなど、見ているだけでワクワクするような商品が沢山。
買い物ってこんなに楽しかっただろうか?
いつも人目を気にしてばかりで、ゆっくりと市場を見て回ったことはない。
必要な物だけを買ってさっさと帰っていた。
楽しいと思ったことなど一度も……。
「なんだか楽しそうですね」
不意にムゥリエンナがそんなことを言う。
「え? 楽しそうにしてましたか?」
「ええ、とってもワクワクしてましたよ。
まるで本を見ている時の私みたいに」
「……それは」
あんな風には興奮してなかったと思う――
いや、絶対にしてなかったはずだ!
変な物でもキメて過度に興奮して涎をダラダラ垂らしながら、おもむろに自分が産んだ卵を他人に勧めるような、ヤバい感じにはなっていない!
それだけは間違いないはずなのだ!
「あの……どうしたんですか?」
「変な顔になってなかったかなって。
私変な顔になってませんでしたよね⁉」
「なってませんでしたよ……」
ユージからもらった手鏡で自分の表情を確認する。
不安のあまり泣きそうになっていた。
「よかったぁ……本当によかったぁ」
「なにがよかったんですかね……」
ムゥリエンナはとっても悲しそうな顔をしていた。
私みたいという言葉に過剰反応されたのがショックだったようだ。
「えっと……その、ごめんなさい」
「いえ、いいんですよ。
私って変な子ですから。
自覚もしてるんですけどね……ははは。
あっ、でもベルさん。
さっきは本当に楽しそうにしてましたよ!」
やはり自分が買い物を楽しんでいたのは間違いないようだ。
まったく無意識だったが、自然と気持ちが高揚していたのかもしれない。
「そうですか……。
誰かと一緒に市場へ来たのはこれが初めてなので。
もしかしたら楽しんでいたのかもしれないです」
「へぇ……じゃぁ、私が初めての相手、ですね。
あっ、今の言い方、ちょっとキモかったですか?」
「いえ、別に……」
「よかったぁ!」
胸に手を当ててホッとしたように笑みを浮かべるムゥリエンナ。
次第に彼女との付き合い方が分かって来た。
本のことになると興奮して暴走したり、自分の卵を食べるように勧めたりするが、それ以外は常識人で普通に会話ができる相手。
コミュニケーションが苦手なわけではなさそうだ。
「私、もしかしたら嫌われちゃったかなって」
「そんな……まさか」
「あの、良かったら私たち、友達になりませんか?」
「え? ともだち?」
一瞬、固まる。
友達と言われてもピンとこない。
ベルにとって友達なんて、別の世界の存在だと思っていた。
ミィもシャミも、他の奴隷たちも、同じ身分の者たちであって、友達と言われると少し違う感じがするのだ。
もちろん、ミィのことも、シャミのことも好きだ。
大切に思っている。
でも……彼女たちが友達かと言われると、少し違うと言うか。
なんだろうか、このモヤモヤとした感覚は。
心の底では、ミィやシャミと友達になりたいと思っているのかもしれない。
でも二人は仕事仲間で……立場としてはベルの方が上で……。
ううん……。
「えっと、嫌でしたか?」
「え? あっ、違います!
違うんです!
友達と言われてもよく分からなくて。
ちょっと混乱しちゃって」
「あんまり深く考えなくてもいいんですよ。
友達は友達。
ちょっと距離が近くなる。
ただそれだけなんです」
距離が近くなる……か。
ベルにとって、今まで周囲にいたのは仕事仲間や使えるべき主人であり、友達と言えるような距離感の存在は一人もいなかった。
だから誰かと友達になれるかと言われるとピンとこない。
私は彼女と友達になれるだろうか?
「嫌じゃなかったら、握手をお願いします。
もちろん強制じゃないですよ!」
笑顔で右手を差し出すムゥリエンナ。
ベルは恐る恐るその手をとった。
「やったー! これで私たちは友達ですね!
これからよろしくですー!」
「はい、よろしくお願いします。
でも卵はいらないですからね」
「ええええ⁉ なんでですかぁ⁉」
先手を打たれて卵を断られたムゥリエンナ。
やはりお近づきのしるしとしてプレゼントするつもりだったようだ。
「あっ、でもちょっとくらいなら……」
「いりません」
「料理したらどうですか?
スクランブルエッグとか美味しいですよ」
「お断りします」
「いっそのこと生で……」
「断固として拒否します」
「ひどいいいいいいい!」
酷いと言いながらも、ムゥリエンナはちょっと楽しそうにしている。
これは友達になるための儀式のようなものなのだろう。下らないやり取りを通して心と心を近づけるのだ。
彼女なりの冗談のつもりなのかもしれない。
誰かと友達になるのって、思っていたよりもずっと簡単そうだ。
ミィやシャミとも、こんな風に冗談を言い合える関係になりたい。
「あっ、そういえば。
ベルさんはどうしてゲンクリーフンに?
何か用事でもあったんですか?」
「……あっ」
すっかり忘れていた。
イミテの店へ行くところだったのだ。
市場巡りがあまりに楽しすぎて、目的をすっかり見失っていた。
空を見上げると、いつの間にか夕焼け色に染まっている。
早くしないと時間が――




