244 自分は、自分として、死んでいく
「まって!」
そこへ、ある人物が止めに入った。
天使の少年だった。
彼はアリサ達とハーデッドの間に割って入り、両手を大きく広げてゆく手を阻んだ。
「なんだ貴様か。
今更、何をしに来たのだ。
この裏切り者」
忌々し気に睨みつけるハーデッド。
その瞳はとても冷たく、憎悪と嫌悪にまみれていた。
そのあまりの冷たさに少年は思わず身震いする。
「ハーデッド、お願いがあるんだ。
彼らを見逃して欲し――
パァン!
少年がそう言いかけると、ハーデッドはすかさず彼の頬をひっぱたいた。
乾いた音が荒野に響き渡る。
「貴様は……貴様は馬鹿か。
いったい何を考えている?
この恥知らずが!」
唖然とした様子でハーデッドを見やる少年。
彼女は続けて言う。
「そこにいる女を見てみろ!
絶望的な状況に追いやられても命乞いひとつせなんだ!
己の運命を受け入れ無残に散ろうとしている!
貴様はその覚悟を汚したのだぞ!
恥を知れ!」
「うっ……あぅ……」
あまりの剣幕に、何も言えなくなる天使の少年。
しかし……ここで諦めたら全てが終わりだ。
マティスたちは殺されてしまうだろう。
「お願いだ! 僕の話を聞いてくれ!
さもないと……」
「どうするつもりだと言うのだ?」
「ぼっ……僕も戦う!」
そう言って、少年はひとふりのナイフを取り出した。
彼は両手でそれを構え、切っ先をハーデッドへと差し向ける。
「その小刀で、余と戦うと言うのか?」
「そっ……そうだ!
僕だって勇者なんだ!
だから……」
「そうか、貴様はそう言う奴だったのか」
何かを理解したのか、ハーデッドは急に表情を柔らかくする。
「悪かったな、少年。
余は勘違いをしていた。
貴様には戦う勇気などなく、
誰かに依存するだけの存在だとばかり。
貴様は真の戦士だったというわけだな」
「そうだよ! 僕だって戦うんだ!」
「だがな、少年。
あまりに無謀すぎるぞ。
貴様は余の血を受けて力を失った。
浄化の魔法が使えない今の状態では、
はっきりいって相手にもならん」
「それでも僕は……」
変わらない少年の意志を確認し、
ハーデッドは深くため息をつく。
「余と戦うと言うのだな?
分かった……相手をしてやる。
どこからでも良い。
かかって来い」
ハーデッドはやれやれとかぶりをふり、少年に目を向ける。
先ほどとは打って変わって、実に優しい顔つきになっていた。
彼女は腰に両手を置き、胸を張って前を向いている。
戦う構えとは言えないその姿勢。
少年はどうすればいいのか分からなくなった。
「いっ……行くぞ!」
両手でナイフを差し出したは良いが、その手は震えている。
少年は恐怖していた。
戦うことが怖いのではない。
ハーデッドを傷つけることが怖いのだ。
今まで、彼にとってアンデッドなど、埃か塵か、それ以下の存在でしかなかった。
ごみを掃除して綺麗になれば皆が喜ぶ。
だから不潔な不死者共をこの世から抹殺して清潔にするのだ。
他の誰にもできない仕事だし、それが天命であるとさえ思った。
しかし……ハーデッドと出会うことで、彼は考え方を変えざるを得なかった。
心の底から彼女を愛してしまった彼にとって、ハーデッドはアンデッドである以前に一人の女性なのだ。
愛している人に剣を向けることはできない。
そう思っているにも関わらず、彼がマティスたちに協力したのは……アイデンティティーの喪失を恐れたから。
彼にとって天使という属性は、他のものには代えがたい唯一無二の価値。
それを失った途端に彼は一人の人間となり、歴史の波にのまれて消えるだろう。
ようはただのモブキャラになることを恐れて、自らの属性を捨て去ることができなかったのだ。
「手が震えているぞ。
そんな調子で、本当に余と戦うつもりか?」
ハーデッドは眉をひそめる。
このナイフを突き刺したところで彼女は死んだりしない。
それは分かっている。
この行為に何か意味があるとしたら、自分の立ち位置をはっきりさせることだ。
契りを交わすまでに深まったハーデッドとの関係。
それをずるずると続けていたら、完全に魔のものに染まってしまう。
たとえアンデッドにならなかったとしても、ペットのような存在として扱われ、自らの存在価値を取り戻すことはできなくなる。
そうなってしまってはおしまいだ。
どんなに気持ちよくて、楽に生きられ、望むものが全て手に入ったとしても、一番大切なものを失ってしまう。
人は何かをなすべくして生まれてくるのだ。
彼に与えられた使命が不死者との闘いなら、そのさだめに背いてはならない。
戦え、セレン。
少年は自らに命じる。
己の責務を果たせと。
「うわああああ!」
ナイフを構えて突撃する。
目をつむってまっすぐにかけていくだけ。
これでは簡単にあしらわれてしまうだろう。
だが……。
どすっ。
鈍い感触が手に伝わる。
じんわりと生暖かい液体が漏れ出し、したたり落ちていくのが分かった。
「……え?」
少年は恐る恐るハーデッドの顔を見上げる。
彼女は何の抵抗もなく、棒立ちのまま、自らの身体にナイフが突き立てられるのを受け入れた。
「良くやった……偉いぞ、少年」
慈愛に満ちた表情を浮かべるハーデッドから、身体を包み込むようなぬくもりを感じる。
それは胎内にいる彼を優しく見守る母が、惜しげなく注いでくれたもの。
彼は自分が愛されているのを感じた。
ハーデッドは少年の全てを許容し、その凶行でさえも受け入れたのだ。
「なっ……なんで?」
「不思議に思うか?
余は貴様を愛してしまった。
ただそれだけのことなのだ」
少年はナイフから手を放す。
「貴様は余を裏切ったと思っていたが、
それは間違いだった。
貴様はずっと変わっておらなんだ。
勇者として余の前に現れた貴様が、
自らの責務を果たそうとするのは当然のこと」
「ハーデッド、僕は……」
「言わなくてもよい。
貴様も余と同じ気持ちなのだろう。
しかし、悲しいかな。
我々は決して交わることのない存在として、
この世に生まれてしまった。
魔王と勇者。
お互いに戦うことでしか存在を証明できない。
ならば、剣を交えるのが道理であろう。
……違うか?」
「……そうだ」
ハーデッドの問いに、少年は力なく答えた。
「だから……貴様が余を殺そうとするのも、
勇者に協力してユージを誘拐したのも、
当然の摂理と言える。
貴様を裏切り者と罵るのは間違っている。
何故なら、最初から貴様は勇者として戦っていた。
であれば……余の取るべき行動も一つ。
貴様を殺さなければならない」
「…………」
「覚悟は良いか? 少年よ」
彼はゆっくりと頷く。
そして……。
「お別れだ、少年。
短い間だったが楽しかったぞ」
「……うん」
ハーデッドは右腕に力を籠める。
勢いよく渦巻く闇のオーラが、とぐろを巻いた蛇のように彼女の腕に纏わりつく。
殴られれば、大ダメージを受ける。
おそらく助からないだろう。
これでいい。
この終わり方でいい。
少年は自らの終わりを悟る。
愛している彼女に殺されるというのなら、思い残すことは何もない。
自分は、自分として、死んでいく。
それはとても素晴らしい事なのだ。
「待てっ!」
そこへ、待ったをかけた人物がいた。




