212 切実なる思い
「ミィ……お前は何をしているんだ」
現れたのはウェヒカポだ。
身体の右半身を大きく欠損している。
どうも様子がおかしい……。
普段の奴とは雰囲気が違う。
あれは本当にウェヒカポなのか?
それに……奴はケンタウロスに乗ってここへ来た。
背中の羽で移動していたはずだが……。
「ミィ……しっかりするんだ。
落ち着いて俺を見るんだ。
俺の声が聞こえたら返事をしてくれ」
ケンタウロスから飛び降りたウェヒカポは、ゆっくりとミィへと歩み寄る。
その口調はとてもやわらかく、母親が子供に語り掛けるよう。
身勝手に命をもてあそぶ下種だとは思えない。
やはりあれはウェヒカポではない。
まったくの別人。
しかし……いったい何者なのだろうか?
「うぁ……ユージ……?」
「そうだ。俺だ。
お前を迎えに来たんだ。
安心しろ、俺はここにいる。
ずっと一緒だ。
どこへも行かない」
「うっ……ユージ……ユージぃ」
ウェヒカポの方へと歩み寄っていくミィ。
どうやら相手をユージだと認識したようだ。
「だから……もう怖がらなくていいんだ。
お前は一人じゃない」
「ううう……ユージぃ……」
彼の言葉を受けて、ミィは少しずつ大人しくなっていく。
彼女の身体に纏わりついていた黒い物質がバラバラと剥がれ落ちて、本来のミィの姿があらわになった。
彼女は布一枚纏わず生まれたままの姿をしていた。
「ユージ……私は……」
「もう何も言わなくてもいい。
ゆっくり休め……ミィ」
ふらっと力を失って倒れこむミィ。
ユージはそっと手を伸ばして身体を受け止める。
残された左腕には手首から先がなかった。
「ユージよ……終わったのか?」
「ええ、ハーデッドさま。
この通り、彼女は大人しくなりました。
ご面倒をおかけし、申し訳ありません」
ハーデッドが尋ねると軽く会釈するユージ。
口調や声のトーンは、明らかに彼のものだ。
どうやったかは分からないが、ウェヒカポの身体を乗っ取ったらしい。
「ふん、謝って済むような問題ではない。
余の身体を見てみろ。
その奴隷のせいで死にかけたぞ」
「返す言葉もございません。
どうかお許しください」
彼はそう言ってこうべを垂れる。
「そのミィという少女は何者なのだ?
ただの人間ではないようだが……」
「それは……私にも分かりかねます。
彼女は突然、私の前に現れて、
私と一緒に暮らすことになりました」
「ふむ……では何処からか飛ばされて来たのか?」
「ええ、そんなところですね」
ユージは肝心のことを話していない。
そんな気がした。
「いいだろう、その話を信じてやる。
だが貴様は何か隠し事をしているはずだ。
今はそれを聞かないでおいてやる。
……感謝しろよ?」
「はい」
ハーデッドの言葉に、深く頷いて答えるユージ。
彼はヒミツを抱えていることを認めた。
「さて、ユージよ。
ミィがまた今回のように暴走したら、貴様はどうするつもりだ?」
「その時はまた私が何とかします」
「ずっと従順でいるとは限らんぞ」
「ええ、分かっていますとも」
本当にユージは分かっているのだろうか?
ミィは危うい存在だ。
ユージに心を許しているとはいえ、その危険性は計り知れない。反旗を翻すようなことがあれば、誰も彼女を止められなくなる。
本当ならここで処分すべきだ。
息の根を止めてしまえば、それまで。
「そうか……貴様がそこまで言うのなら信じよう」
ここ数日、ユージと触れ合ったことで、彼がどんな男か、なんとなく理解できた。他人の幸福を願い、喜びを他者と分かち合い、弱いものを守る、そんな思想の持ち主である。
ハーデッドはユージを信じることにした。
「ありがとうございます、ハーデッドさま。
あの……言いそびれていたのですが。
アナタと一緒にいた天使の少年が……」
「何だ? 彼に何かあったのか?」
ユージはこちらを見て言う。
「ウェヒカポとの戦いの中で大けがを……」
「なぜそれを早く言わない⁉
おい、ケンタウロス!
余を彼の元へ連れていけ!」
「ケンタウロスじゃないのだ! プゥリなのだ!」
ハーデッドはプゥリの身体へ飛び乗り、彼女の案内で天使の少年の元へと向かう。
最悪な結末が脳裏をよぎる。
一度、命が失われてしまったら取り戻す方法はない。
死人を蘇らせることはできないが、アンデッドにすることは可能だ。
だが、そんなことをすれば――
「頼む、余が行くまで持ちこたえてくれ……」
祈るような心持でひとりごちるハーデッド。
身体を抱きしめて口づけをしたい。
好きだと思いを伝えたい。
それが出来たのなら、どんなに素晴らしいだろう。
「ついたのだ!」
「どこだ⁉ 彼はどこに⁉」
「あそこなのだ!」
プゥリが指さした先で四人の魔族が誰かを囲んでいる。
「どけっ!」
「なんだお前⁉」
「ノインさん! この人がハーデッドさまですよ!」
「え? コイツが!?」
オークの男とフェルが何かを言い合っている。少年の応急処置を行っていたらしい。と言っても、出来るのは傷口を押さえることくらい。彼らでは少年を救うことはできない。
4人はハーデッドが現れたと知ると、さっと身を引いて少年から離れた。
彼の姿があらわになる。
少年の着ていた服は真っ赤に染まっている。
多量の血が身体から流れ出した証拠。
このままでは助からない。
「少年、聞こえるか」
ハーデッドは彼の隣に跪き、優しく語り掛ける。
「は……ハーデッド?」
かろうじて返事をする少年。
意識を失いかけている。
「そうだ、余が来たのだ。もっと喜べ」
「あの化け物は……どうしたの?」
「あれなら余が倒した。
だからもう大丈夫だぞ」
「そうか……良かった…………ぐっ!」
苦痛に顔をゆがませる少年。
このまま放っておいたら、間違いなく彼は命を落とす。
それだけはなんとしても避けたい。
「少年、貴様は……。
もし自分が自分でなくなったら余を恨むか?」
「え? 何を……言って……」
「すまんな、少年。許せ。
余はどうしても貴様を失いたくないのだ」
「ハーデッド? 何を……」
ハーデッドはそっと少年の首筋に唇を当てる。
まだ血に染まっていない白い柔肌に、鋭い牙を突き立てた。
「あっ……あっ……」
大きく目を見開いてうめき声を上げる少年。
ハーデッドは体内の血を少しずつその身体へと流し込んでいく。
これでもう……彼は元の存在ではいられない。
高位のヴァンパイアの血を受け継げばアンデッドと化す。
天使の血を引く彼が彼女の血を受け継ぐことで、どのような変化をもたらすのか想像できない。
ハーデッドは祈る。
ここにはいない、誰かに。
彼を救って欲しい。
その切実なる思いを空虚に向かってふわりと飛ばす。
誰に届くかも分からない手紙を風船に括り付けて大空へ放つように。




