210 理解を越えた存在
「がはっ……」
ハーデッドは膝をつき、大量に血を吐く。
全く歯が立たなかった。
敵はあまりに強すぎる。
全身を強くなぶられ、まともに動かせない。
もはや戦い続けることは不可能だ。
「…………」
化け物は無言でハーデッドを見下ろす。
これが本当にあのミィなのか?
とても信じられない。
彼女は愛想が悪かったが、よく働いていたと思う。
ハーデッドが呼べばすぐに来てくれたし、文句を言わずに面倒をみてくれた。
特に変な印象はなく、他の奴隷たちと変わらない普通の少女だった。だが……目の前にいるのは理解を超えた存在。
とても普通の人間だとは思えない。
「待つですの! やめるですの!」
エイネリが間に割って入る。
かなりのダメージを負っていたはずだが……。
「この人を殺さないで欲しいですの!
代わりにわたくしが……」
「よせ、エイネリ……」
「止めないですの!
ハーデッドさまはわたくしの全てですの!
だから……どうか……」
必死に懇願するエイネリだが、その願いが聞き届けられることはあるまい。
ハーデッドは既に、自分の運命を予期していた。
「そんなことをしていないで、早く逃げろ。
お前まで犠牲になる必要はない」
「嫌ですの! わたくしは……あっ」
エイネリの腹部を化け物の腕が貫通する。
そして……。
ぶちっ。
まるで手縫いの人形を引きちぎるかのように、エイネリの胴体は真っ二つに引き裂けた。体液と臓物をその場にぶちまけ、無残に氷上へ残骸が散らばっていく。
空中に彼女の体液と肉が舞い散る光景が、あまりにゆっくりとハーデッドの目に映る。エイネリの胴体が弾け飛ぶその向こう側で、真っ黒な体の化け物が嬉しそうに笑っていた。
「エイネリいいいいいいいいい!」
ハーデッドは彼女の名を呼んだ。
当たり前だが、返事はない。
氷の上に転がる彼女の身体が物を言わずにひっそりと横たわっている。
「貴様……よくも、よくもっ!」
憎しみがこみ上げ、歯を食いしばるハーデッド。
だが、その感情を拳に込めたところで、相手に傷を負わせることはできない。
そんなことは分かっている。
分かっているつもりだが――
「うおおおおおおお!」
ハーデッドは化け物に殴りかかった。
フラフラの身体で必死になって繰り出した拳は、あっさりと化け物につかまれてしまう。
「くそっ……うっ! あがあああああああ!」
化け物はハーデッドの腕をつかむと、想像を絶する力でそれをねじ切ってしまった。
一瞬のことで何が起こったのか分からなかった。
不意につかまれた右腕の感覚が消失。
化け物が自分の腕を手に持っているのを視認して、初めて体の一部が欠損していると知った。
あまりの出来事に正気を失いかけた彼女はガタガタと体が震えるのを感じる。
おのれが恐怖しているのだと、少しだけ遅れて気づく。
化け物は興味をなくしたのか、つまらなそうに放り投げる。
氷の上を転がるハーデッドの腕。
まるで何かをつかもうとするかのように、上向いた手のひらが広がっている。
切り離された自分の身体を眺めていると物悲しい気分になった。
そんなことを考えている暇など無いのに、ハーデッドは愁然と首を垂れるのだった。
「まって! その人を殺さないで!」
また誰かがやってきた。
この声は……ベルだろう。
自ら死地に赴くとは……エイネリといい、この娘といい。
死にたがりばかりだな。
しかし、なぜ彼女が?
ハーデッドは疑問に思う。
エイネリはともかく、ベルがハーデッドを助ける理由がない。
ほんの数日、世話をしただけの相手。
お人よしにもほどがある。
「あなた……ミィよね?
こんな姿になって……何があったの?」
「べっ……ベルぅ……」
「私が分かるのね?」
ミィはベルの言葉に反応する。
「ミィ、聞いて。私の歌を」
「うっ……うた……」
「~♪ ~♪」
ベルは不思議なメロディを口ずさむ。
歌詞の無いその歌を聞いて、ミィは少しずつ大人しくなっていく。
「うっ……うあ……」
「私の声が分かる?
お願い……ミィ。思い出して。
アナタはこんなことするような子じゃない。
私と一緒に帰るの」
「か……かえる……」
「そう、私たちが暮らす、あの農場へ」
「いっ……嫌だ……いや。
いやだ、いやだ、いやだ!
あああああああああああ!」
ミィは暴走を始める。
大声を上げて身体をくねらせると、無数の黒い管のようなものを伸ばし始めた。
アレに触れたらヤバい。
ハーデッドはそう直観する。
「離れろ! 小娘!」
「きゃっ!」
慌てて彼女の身体を引っ張るハーデッド。
なんとか敵の攻撃は回避することができた。
しかし……。
「この状況、まずいな」
化け物の身体から伸びた管は膨張して形を変える。
その先端は鋭い刃物のように変形し、切っ先をこちらへと向けた。
「どっ、どうしましょう……」
「とにかく逃げろ。奴と戦っても勝ち目はない」
「でもハーデッドさまが……」
「余のことなど捨て置け。
最後まで付き合う必要はない」
こんなことを言い合っている間にも、化け物は少しずつこちらへ歩いてくる。
この距離ではもう――
ひゅんっ!
突然、何かが飛んできた。
勢いよく化け物の身体に突き刺さる。
それは大きな矢だった。
「ベル! ハーデッドさまを連れて早く!」
マムニールの声がする。
彼女は少し離れた場所で弓を構え、矢を番えていた。
「ベルちゃん! こっちへ!」
「シャミ⁉ お前も来ていたのか?」
「ハーデッドさま、肩を貸してください。
歩けますか?」
「ああ……なんとかな」
シャミとベルは両脇からハーデッドを抱え、その場から彼女を連れ出そうとする。
逃げ切れるかもしれない。
淡い期待を抱き始めた……その時だ。
「あっ……」
ベルの身体に黒く細長いものが巻き付いた。
かと思うと、彼女の身体は空高く持ち上げられ、無慈悲に空へと放り出されてしまう。
「ベルっ!」
マムニールは弓を捨て、投げ飛ばされた彼女を受け止めようと走り出す。ベルの身体は高く飛ばされたので、落下すれば無事では済まない。
化け物は無数の管を一斉に伸ばし、マムニールが向かう先へと差し向けた。
受け止めたタイミングで、二人そろって串刺しにする気のようだ。
落下するベルの身体を、マムニールはなんとか受け止めるが、衝撃で二人そろって倒れてしまう。
そこへ、化け物の差し向けた刃が迫る。
もう助からない。
誰もがそう思った、その時だ。
ガキィン!
突如として現れた何者かが刃を打ち払った。
二人を助けたのは……。
「ご無事ですか! ご婦人!」
ワニの獣人、クロコドだった。




