193 ハーデッド 後編
「……ここは?」
少女は辺りを見渡す。
そこは何もない真っ暗な空間。
しかし、不思議と自分の姿を見ることはできる。
「ここは貴様と余の心象風景を具現化した空間。
何もかもが混ざり合ったせいで、
混沌とした暗闇が広がってはいるが、
我々が一つになれば、また違った光景が見えるだろう」
前方からハーデッドが歩み寄ってきた。
ボロボロの身体を引きずりながら、少しずつ近づいてくる。
「いや……こっちに来ないで!
不死王になったらつまらない人生を送って、
少しずつ身体が朽ち果てていくのを、
だた待つだけの存在になってしまうのでしょう?
そんなのは嫌だ!」
「まったく……口の減らない奴よ。
素直に余を受け入れ、一つになるのだ」
苛立った様子のハーデッドは、少女を捕らえようと手を伸ばす。
もうここまでかと覚悟した彼女は、目をつむって最後の瞬間が訪れるのを待った。
しかし――
「……え?」
いつまでたっても何もされないのを不思議に思い、閉じていた瞼を開けるとそこには――
「コータ!」
「遅くなって悪かったな!」
ハーデッドの手をつかむ男の姿があった。
彼は見慣れない格好をしており、それが異世界の服装であることを少女は知っていた。
ジーンズに無地のTシャツと、凡庸な服装なのだが、この世界では非常に奇妙な姿になってしまう。
ハーデッドはその男の姿を見て、目を丸くして固まっていた。
不意に現れた存在を前に狼狽を隠せない。
「何だ、貴様……どこから湧いて出た?」
「ただの通りすがりのミュージシャンだよ。
俺はずっとこの子の心の中にいた。
この子を食べるって言うんなら、
先ずは俺の許可を得てからにしてほしいね!」
「まさか異物が入り込んでいたとはな……。
悪いが、出て行ってもらうぞ」
「出ていくのはお前の方だ!」
男とハーデッドは取っ組み合いになり、力比べをする格好になる。
少女の心の中にコータが現れたのは、いまから数年前のことだ。
暗い牢屋の隅っこでじっとしていると、不意に暖かいものが胸の中にこみあげて来た。何が起こったのか分からず混乱していると、男の声が優しく語りかける。
それには意志があるらしく、あれこれと質問をしてきた。
今までずっと一人でいたので、誰かと話ができて嬉しかった。
彼の名前はコータと言う。
こことは違う、別の世界から来たそうだ。
彼は同性の友人を好きになってしまい、一人でもんもんと悩み続けていた。
そして、ひとつの願望を抱くようになる。
普通の女の子になって、思い人と結ばれたいと。
そんな望みが叶えられることはなく、彼は心の奥底に抱えた願望を誰にも打ち明けずに、命を落とし、この世界へとやって来た。
その話を聞いた少女は二人でここから出て自由に生きようと誓う。そうすれば少女とつながっているコータもまた、普通の女の子としての人生を送れる。
そう思ったのだ。
「ぐぬぬぬぬ……」
コータはハーデッドを圧倒している。
このままいけば……。
不意に、真っ暗闇だった空間が明るくなり、辺りに色とりどりの花が咲き始めた。空は青く、遠くには山が見え、何処までも青々とした草原が広がっている。
「ぬぉおおおお! 何が起こっている⁉」
ハーデッドは周囲の変化に戸惑っていた。
「これは俺がこの子に見せたかった光景だ!
自然に囲まれた自由な場所で、
俺たちは新しい人生を歩むんだ!
邪魔するな、このガリガリハゲ野郎!」
「くっそおおおおおおおお!」
ハーデッドが叫ぶ。
奴の腕はあらぬ方向へとへし折れ、膝をついて完全に屈する形となった。
「どうやら勝負はついたみたいだな」
「ハァ……ハァ……くっそぅ」
「いい加減諦めて出ていきやがれ。
ここはこの子と俺の場所だ」
「ククク……いい気になるなよ、小僧。
もはや手遅れなのだ。
真祖の血は完全に受け継がれた。
余を拒絶したところで、何も変わらぬ」
「……なんだと?」
突然、ハーデッドの身体に亀裂が入る。
そこから……。
どばっ!
大量の血液が噴き出して全てを飲み込んでいく。
瞬く間に、辺り一面が赤い血潮で染まる。
「うわああああああっ!」
「コータ!」
コータはどこかへ流されてしまった。
彼が作り出した美しい風景も、血の海に呑まれて暗く濁っていく。
「もはや逃れるすべはない!
大人しく余に呑まれて一つになれ!」
何処からともなくハーデッドの声が聞こえる。
少女は血液の波に飲み込まれ、意識を失う。
もはや抵抗する力はなく、ただ運命のままに身を任せた。
身体が溶けていく。
心と心の境界があいまいになって、別の誰かの心と交じりあっていく。
自分が自分でなくなっていく感覚。
ああ、これが死なのだろう。
少女の人生はここで終わった。
「……むぅ」
目を覚ます。
そこはハーデッドの居室。
先ほどまで行われていた茶番は、全て心の中で行われていた。
その結果、私はこうしてここにいる。
少女は自分の姿を確認する。
部屋にあった鏡の前で裸になると、今までとは違う容姿へと変貌していた。
肌は青く染まり、髪は灰色に変色。
鋭い牙が生え、瞳孔は黄金色に輝いている。
これがヴァンパイアの身体。
真祖の血を受け継いで変態した結果だろう。
床の上には先代の亡骸が転がっている。
真祖の血を失ったそれは力を失い、ボロボロに崩れていた。
不愉快だ。
さっさと片付けなければ。
「おいっ! 誰かいないか! 誰か!」
ハーデッドの呼びかけに応じ、召使のヴァンパイアたちが飛んできた。
「ハーデッドさ……えっ⁉ アナタは⁉」
彼らはハーデッドの姿を見て戸惑う。
「先代から真祖の血を受け継ぎ、新たな不死王となった。
これからは余がハーデッド・ヴァレントである。
早速で悪いが、部屋を掃除てくれ。
先代の死体が床に転がっていて汚い。
邪魔になるからさっさと処分しろ」
「は……はぁ……かしこまりました」
手下たちは戸惑いながらも彼女の言うことに素直に従う。
しばらくして、先代の亡骸は完全に取り除かれ、部屋も綺麗に掃除された。
「ふぅ……」
綺麗になった玉座に腰かけ、ため息をつく。
おさがりを使うつもりは無いので、早く代わりの椅子を手に入れたいものだ。
どうやら私は吸血鬼になってしまったようだ。
少女としてのアイデンティティーは喪失している。
私はもう彼女ではない。
だからと言って、先代の不死王の意識が残っているかというと、そう言うわけではない。
あの醜悪な男の魂は欠片も影響を及ぼさなかった。
ただ無駄に長いだけの記憶が、脳内に保存されているだけである。
コータの魂についても同様だ。
心の何処を探しても、彼を見つけることはできない。
果たして、私は三人のうちの、誰の魂を引き継いだのか。
その答えは不明だが、あまり気にならなかった。
私は今、ここにいる。
それが全てだ。
一つだけ確かなことがある。
それは三人が望んだたった一つの願いが、この私にも受け継がれたと言うことだ。
すなわちそれは、普通の女の子になる。
それが私の唯一の望み、唯一の願望。
生涯をかけて果たすべき目的だ。




