192 ハーデッド 前編
あの日、ナブコフの屋敷から連れ出された彼女は、イスレイの魔王城でその人と出会った。
不死王ハーデッド。
それは真祖の血を受け継ぐヴァンパイアの長。
死霊の国を支配する絶対的強者。
玉座に腰かけ少女を見下ろす不死王は、全身を黒い布で覆い、口元も黒いマスクで隠していた。
どのような容姿をしているのか分からず、性別すらも不明。
しかし、真祖の血を受け継いだその存在は、他のヴァンパイアたちとは明らかに格が違う。
ハーデッドに血を吸いつくされて死ぬ。
そんな結末が思い浮かぶ。
少女は恐ろしさのあまり身を震わせた。
「あなたは……?」
少女は誰何する。
目の前にいるのが不死王であることは理解している。
しかし、得体の知れない存在を前にして、問いかけずにはいられなかった。
せめて対話が出来るかどうか確かめたい。
最後の言葉くらい、聞いてほしいものである。
「余の名前は……なんだったかな。
本当の名前はすっかり忘れてしまった。
随分と長い間、不死王として過ごしてきたからな。
であれば名乗る名前はひとつ。
余はハーデッド・ヴァレント。
イスレイの支配者、不死王の名を冠する者である」
思っていたのとは違う返答。
てっきり問答無用で殺されるものかと……。
少女は質問を続けることにした。
「どうして私をここへ?」
「貴様の噂を耳にしてなぁ……。
生意気な奴隷の少女がいると聞き、
興味がわいて呼び出したのだ。
そう恐れなくともよい。
むやみに殺したりはしない」
ハーデッドは強権的にふるまうでもなく、脅したり、大声を上げたりせず、ただただ普通に話をしている。
「あの、これから私はどうすれば?」
「とりあえず……余の話でも聞いてくれないか」
「え? あっ……はい」
それからハーデッドは淡々と語り始めた。
先代から真祖の血を受け継いだ彼は、この城の中にずっと引きこもって暮らしていた。
ボーっと玉座に腰かけ、たまに家臣たちの話を聞き、言葉を発することもほとんどなく、自分が何処の誰かさえも忘れてしまう。
無任所なこの役割になんの意義も感じず、ただただ解放されたいと願ってしまった。
そんな永遠とも思える時の中で、彼はひとつの願望を抱くようになる。
生まれ変わりたい。
生まれ変わって普通の存在になりたい。
夜になったら眠り、朝早く出かけて仕事をし、家族と語らい、仲間と酒を飲みかわし、誰かと恋人になって愛し合う。
そんなありふれた生活に憧れる。
できれば女として生きてみたい。
どこにでもいる普通の少女に生まれ変わって、人生をやり直してみたい。
それが不死王ハーデッドの願いだった。
しかし、一度不死王となってしまったが故、その願望を実現させるのは難しい。
真祖の血が体内に流れる限り、決してその運命から逃れることはできない。不死王の名を受け継いでしまった者の宿命である。
だが……彼にはある妙案が浮かんだ。
「当初は誰でもよいと思っていたのだが……。
なかなかどうして、これが難題でな」
「……?」
「第二の人生を送るのにふさわしい身体。
そう考えると妙にこだわってしまってな。
あれはダメ、これは嫌だと選別していたら、
無駄に時間がかかってしまった。
余の琴線に触れるような肉体を持った少女は、
奴隷商人が連れてくる屑の中にはおらなんだ」
不死王は不意に立ち上がる。
彼は纏っていた布を脱いで肉体をさらす。
その身体はところどころひび割れており、随分と長い時間を過ごしたことがうかがえる。
ハーデッドは死人の顔をしていた。
頭髪はほとんど残っておらず、鼻は腐って削ぎ落ち、瞳の色は濁ってくすみ、耳も片方にしか付いていなかった。
歯は全て抜け落ちて、唇には亀裂が入り、頬にはカビが生えている。
何とも醜悪なその見た目に、思わず悲鳴を上げてしまった。
しかしハーデッドは怒らず、むしろ彼女の素直な反応を見て、嬉しそうにほほ笑む。
「そうだ、その反応だ。
余が欲していたのは、生きた少女の心」
彼は一歩前へ踏み出す。
腰を抜かした少女は慌てて後ずさった。
「ナブコフに責められ心が死んだかと思ったが――違った。
貴様の心は暗い牢獄の中で折れることはなく、
誇りと気高さを失わなかった。
強い心と、美しい肉体。
その両方を備えた貴様は……合格だ」
ニチャァ。
不死王は不気味にほほ笑む。
その笑顔に生理的嫌悪感を覚えた少女は、床を這って何とか距離を置こうと必死に逃げる。
「逃げられるはずもない。
余は腐っても不死王。
どこへ逃れても直ぐに追いつく」
少女の肩に手が置かれた。
「真祖の血を受け継ぐと同時に、
我が魂も貴様の体内へと侵入する。
私は貴様の肉体と魂を喰らい、
普通の女の子になれると言うわけだ」
「そんなはずない! 私を食べたからって……」
「勘違いをするな、これは捕食ではない。
我々の血と魂が渾然一体となる崇高な儀式なのだ」
「いやぁ! 離して!」
ハーデッドは少女を仰向けにし、その上に乗って身体を拘束する。
「少女よ、余の全てを受け入れろ。
代わりに余も貴様の全てを受け入れてやる」
「嫌だ! 助けて! コータ!」
「こうた? 何のことだ? まぁ良い」
不死王は少女の首筋に食らいつく。
そして真祖の血を体内へ流し込んだ。
「あっ……ああっ……あ……」
少女は意識を失っていく。
ゆっくりと自らの肉体が変容していくのを感じた。
ゆっくり、ゆっくりと……。




