2.
ごろり、寝転がって見上げた空は抜けるように青く、この間までの雨をたくさん蓄えたような黒くて重い色ではない白くてふんわりした雲が競うように高く伸びている。
時折がたん、と衝撃を伝えてくる背中の振動も、今は心地良く。促されるようにやって来る眠気に身を任せるのもいいだろうけれど、隣に置いた鞄に手を突っ込んでお目当てのものを探り出す。
「さて、どこに行こうかしら」
指先に引っかかった感覚から、自分の思っていた通りのものを引き出せたのは分かったのでそれをそのまま鞄から出して目の前に広げる。祖父母が残してくれたこの大陸全土をかたどっただけの地図。大きな町は書いてくれてあるけど、ほとんど空白のそれは、地図とは呼べないのかもしれない。
「荷馬車はこの先の町までだろう」
「そうだけど、その後の話よ」
寝転がったわたしの隣でわずかについていた柵に背を預け、立てた片膝に腕をかけていたヴォルフが呆れるような声を出したけれど。言いたいことはそうではないのだ。
「何だ、どこに行くのか決めてないのか」
わたし達の声が聞こえたのか、馬を操っていた男性がクルリと振り返った。面白がっている響きのなかに、少しだけ心配な声が混ざっている。よく祖父母を訪ねて来てくれたから、小さい頃からお世話になっているし、何よりこの人は商人なのに感情が分かりやすい。特性だ、と言われればそれ以上は何も言えないが、隠さないでもいいのだろうかと幼心にも思ったのはまだ、本人には内緒だ。
「そうね。あえて言うならリュムの果てまで、かしら」
「ははは! そりゃあいい! なんか珍しいもの見つけたら教えてくれや」
心配されていると気づいている事には触れないで返事をすれば、大口を開けて笑う。屈託のない笑みはこちらも気持ち良くなるもので、自分の顔に自然と笑みが浮かんだのが分かった。
ただ心配だから連絡をしろ、なんて言われてもわたしが連絡をしない事が分かっているから、珍しいものを見つけたらなんて理由をつけてくれたんだろう。もちろん、そう言われたら断るつもりなんてないけれども。
「もちろん、と言いたいところだけど。わたしは連絡手段持ってないわよ?」
「そうだった、セレネはヒト族だったなあ。そんじゃ、おっちゃんから餞別だ」
思い出したかのように呟いた後、おじさんは何やらごそごそと胸のあたりを探っている。わたしとの話が盛り上がるのは良いんだけれど、さっきから馬の手綱握ってないのは大丈夫なのかしら。
この辺りで物盗りが出たなんて話はわたしがあの町に住みついてから一度も聞いたことはないし、何より気配に敏感なヴォルフが何の反応もしていないから大丈夫だとは思うのだけど。わたしだって一応旅に出ると祖父母に告げてから自分の身を守る手段は身に付けてあるし。
自分たちがいなくなってもわたしが生きていけるように祖父母がいろんな術を授けてくれたうちのひとつ。それをしっかりと自分のものに出来た、と判断されたから旅に出る許可が下りたのだから。
そんな事を考えていたら、おじさんがさっと目の前に差し出してきた羽根に目が釘付けになった。
「綺麗な色の羽根ね。これは?」
「それを見せて、おっちゃんの名前出せばどこからだって俺の手元に届くからな」
にんまりと笑うおじさんから渡された羽根。わたしの手と同じくらいの大きさで真っ直ぐに伸びるのは空の青に映えるような赤が中心なんだけど、緑や黄、角度によっては青にも見える色が混ざっている。主張は激しいし、派手と言われればそれまでなのになぜか目を引く不思議な魅力を持っている。
「……破格だな」
「そんだけ、あの二人には世話になったってこった。俺にとっても孫みたいなもんだからな」
わたしが初めて見る羽根の美しさに見とれている間、ヴォルフとおじさんは何やら言葉を交わしていたのは聞こえていたけれど、何を話していたのかまでは聞き取れなかった。
羽根をくるくる回したり、空にかざしているわたしの姿はおじさんの満足のいくものだったのだろう。存分にその色を堪能したわたしが羽を大事に鞄にしまったのを見て、ポンポンと頭を撫でられた。毎日の荷運びなんかで鍛えられたおじさんの手は、節が目立ったおじいちゃんよりも硬かったけど、その大きな手の温かさは変わらなくて、嬉しいのになんだか少しだけ泣きたくなってしまった。
「ありがとう、アロンズさん」
「いいってことよ。旅の幸運を祈ってるぜ」
俯いたわたしの、小さなお礼は無事に届いていたようで、その後何度か頭を撫でられたけど、誰も特に何を話すこともなく。
そうして、しばらくガタゴト揺れる荷馬車を楽しんでいると、目的の町に着いたようでおじさんから声がかかった。ここで食料品とか、あの町にはない日用品を買い出ししてまた戻るそうだ。
それじゃあと気楽に別れの言葉を口にしたおじさんに、同じようにいつものような返事をして、ヴォルフと二人、反対へと歩き出す。
「どうした、ぼーっとして」
ちょっとだけ歩いた先で立ち止まり、辺りを見渡すでもなくただ行き交うヒトを見ているわたしが不思議だったのだろう。ぶっきらぼうなヴォルフだけれど、問いかけてきた言葉には優しい響きがあった。
自分ではそんな事はないと言っているから自覚はないのか、そうじゃないと言い聞かせているのか。ヴォルフは思っている以上に優しいのに。それを告げると突っぱねられてしまうのはもう何度か体験済みだから、口にしたのは別の事。
「あの町もそうだったけど、この世界にはたくさんのヒトがいるなって」
「あそこは特別、たくさんの種族がいたからな」
祖父母の住んでいた町と、両親の住んでいた街。もちろん全然違うのは分かっていたけれど特別たくさん、と言えるくらいの種族がいたなんて初めて知った。小さい時には目につくものをあれこれ質問して、答えてくれたことはきちんと纏めたノートがあるし、それは今も鞄の中にあって持ち歩いている。
祖父母の友人、気のいい隣人なんて思っていたからあまり種族の事を気にして接していなかったな、とも。
「だけど、ヒト族はいなかったわ」
「この先で出会うこともあるだろう」
「リュムに住んでいるなら、きっとおじいちゃん達と一緒よね」
「そうじゃなければこの大陸にはいないな」
例えば、両親の住んでいた街には獣人が一人もいなかった。あそこだけかと思っていたけれど、祖父母の家に戻ってきてから調べてみれば、どうやらあの街がある大陸には獣人がほとんどいないらしい。
獣人側からしてもあの街のある大陸には、よほどの覚悟がないと行く場所ではないと言っていたし。ヴォルフに聞いても、おじさんやアンおば様に聞いても同じ答えが返ってきたからそうなんだろう。
「そうね、会えたら声をかけてみようかしら」
おじいちゃん達以外のヒト族に声をかけるのは、少しだけ怖いんだけど。この大陸にいるヒト族ならきっと上手く話せるはずだ。でも、優しそうなヒトを見つけられたらいいなとは思う。
「それよりもまずは宿探しだな」
「あ、おじさんからいい宿を聞いているのよ。名前は、えっとね……」
出発した時は青かった空も、もう少ししたらオレンジが混ざり始めるだろう。そうなると人気だったり設備のいい宿は埋まってしまうので、早めに取っておいて損はない。
別れ際におじさんから教えてもらった宿の名前をヴォルフにも教えて、町を歩きながら探していく。
大通りから一本奥に入った小道にある宿は、こじんまりしていたけれど掃除も行き届いているし、窓際に小さな花を飾ったりしていて目を配っているのが分かる。
「二人一部屋ですね。これが部屋の鍵で、夕食は別料金になるけど、どうします?」
「二人分、お願いします」
「分かりました。料金は二人で一泊銀貨三枚です」
思っていたよりも安かったものの、予算に余裕が出来るのは良い事なのでここでは予定通りに二泊。町に着いて、見て回って、調べ物をして次の町へ。そのくらいの時間があれば十分だろうとの判断からだけど、別に急いでいる旅でもないので足りなければ追加すればいいだけの話だ。
ただ、最長で五日間にしようとは二人で決めたけれど。居心地がいいところを見つけても、住む場所を見つける旅ではないんだから。
預かった鍵は何の抵抗もなくするりと通り、開いた扉の向こうから落ち着いた木の香りと、日差しをたっぷり浴びただろう、ふかふかの布団が出迎えてくれた。
「さすが、おじさんの紹介してくれた宿ね」
「そうだな」
思った通りのふかふかな触り心地を楽しんだ後、荷物の整理や今後の予定を話したりしていたらあっという間に外が暗くなった。それに比例するように美味しそうな匂いが漂ってきたので、ヴォルフの方を見れば、向こうも異論はないようで立ち上がる。
「食事、楽しみね」
「別料金なんだから変なものは出ないだろ」
「そうなんだけど、外で食べるのってわくわくするじゃない」
そんなことを話しながら、案内された食堂へと歩いて行った。