1.
ゆったりペースで更新していく予定です。
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「これが最後かしら」
もうだいぶ片付けたと思っていたのに、家を空っぽにするために動かした物はそれなりに残っていた。わたし一人ではこんなに早く終わらなかっただろう。朝からバタバタしているのを見かねて町の力自慢たちがこぞって手伝ってくれたおかげだ。
あっという間に大きいものを運んで立ち去った彼らはまだまだ体力が有り余っているようで、これから仕事なのだと尻尾を揺らしながら颯爽と歩いて行く背中に少しだけ、羨ましいと思った。
「随分と広かったのね、この家」
ガランとした部屋を見渡せば、古いながらも丁寧に手をかけていた様子がそこかしこに見られてくすぐったくなる。ちょっとだけ周りと色の違う壁は、小さい時に加減を間違えて開けてしまった穴を塞いでくれたときのものだ。
大泣きしたわたしを宥めながら手早く穴を埋める祖父も、気を逸らすために笑いながらお茶を用意してくれた祖母も、もうここにはいない。
「……いいのか」
「ヴォルフ」
座り込んだわたしの隣に置いた荷物、何を言わなくてもひょいと抱えてくれたのは最近よく顔を出してくれる黒い耳を持った隣人。辺りの様子を探るようにピンと立てた耳とか、眉を寄せた表情で不機嫌だと取られがちだけど、そうではないと知ったのはいつだったか。
同じ色の尻尾は気を付けているのかあまり動かさないようにしているみたいだけど、少しだけ揺れているのが目に入って思わず笑みが漏れる。
「何だ、いきなり笑って」
「なんでもないわ」
変な奴、なんて声が聞こえたけどそれには答えずに家を見渡すようにぐるりと首を動かす。どこを見ても、何を見てもいろいろ話せるくらいには思い出すことがあるんだけど、それを始めてしまうとここから動けなくなってしまう。だから。
「寂しくない訳じゃないけど、旅をする間は掃除も出来ないもの。それに、アンおば様の息子さんなら大事にしてくれるわ」
立ち上がって、家から外を見ると暖かな日差しが降り注いでいるのが分かる。この間雨季が終わったばかりだから、風にそよぐ草木は力強い緑色を揺らしている。しばらくは穏やかな天気が続くと言っていたし、その通りになるだろう。安定した晴れ間が続く乾季がやってきたこの時期は、旅立つのにちょうどいい。
「お前がいいなら構わない」
「お前じゃなくて、セレネって呼んでって言ってるじゃない」
頭一つ分違う身長では、隣に立つヴォルフを見上げないといけない。もう何度口にしたのかも分からない事を告げれば、返ってくるのはいつも同じ台詞。
「そんな威嚇しか出来ない子供ならお前で十分だろ」
「威嚇って、そりゃ獣人みたいにはいかないわよ。わたし、ヒト族だもの」
昔は人間、と呼んでいたそうだけれど今ではその呼び名は人間の間だけでしか使われていないらしい。わたしは人間と自分の事を呼んだことはないから馴染みはないけれど、覚えておかないといけない事だから。
そよそよと柔らかく吹く風を楽しむように、目を細めるヴォルフの耳はイヌのように三角の形をしている。獣とヒトの特徴を併せ持つ彼ら獣人から見たら、ヒト族には何の特徴もないし力も弱いそうだ。今朝からの荷物運びなんかで痺れている自分の腕は、鍛えていない訳ではなくて種族的に力が弱いからだ、と言い聞かせて。
今では珍しい純粋なヒト族、獣人を嫌う者が多いなかで友好的な関係を築いていた祖父母は、変わり者だと蔑まれていた。獣人の事も、その環境も受け付けなかった母は早々に家を出て、別の大陸にまで移住したそうだ。
母はもちろんヒト族と結婚して、生まれたのがわたしなんだけど。どうやら変わり者なのはわたしも同じ。祖父母の家に身を寄せた行動力だけは認めたくないけれど母の遺伝、なのかもしれない。
「ああ、まだいたねセレネ」
「アンおば様」
立ち上がったはいいけれど、何だか離れがたくなって壁に背を預けてぼんやりと目の前で揺れる草木を眺めていたら、聞こえてきた声。耳に馴染んだその声に振り返れば、思い描いた通りに灰色の髪の毛を後ろで一つに纏めたおば様の姿があった。
わたしよりも小柄なおば様はネズミ族だから耳や尻尾で感情を読み取るのが難しいんだけど、その分表情や表現が豊かなので困ったことはない。今も、わたしの姿を見つけて安心したように笑っている。
「これ、持ってお行き」
押し付けるようにして渡されたのは、綺麗な布に包まれたなにか。両手に収まるくらいの大きさなのに、持った手はずっしりとした重みを伝えてくる。そっと中を見てみれば、鈍い光を放つ金属。重さといい、これはお金だ。それも、使いやすいようにわざわざ小さく崩してくれた。
「いただけないわ。家だって買い取ってもらったのに」
「それだって相場の半値以下で売ってくれたじゃないか。これくらいさせておくれよ」
中身が見えそうな小包の布をぎゅっと縛り直して、もらえないとアンおば様に返す。けれど、おば様もわたしが簡単には受け取らないと分かっていたようで、一歩距離を置いて手を伸ばしても届かない位置まで移動してしまう。
「アンおば様の息子さんも、今度来るお嫁さんもネズミ族でしょう? きっとたくさんの子供に囲まれるわ。その方がおじいちゃん達も安心すると思うの」
「グスタフさんとマリーには良くしてもらったよ。もっとたくさん話したかったねえ……」
一歩、わたしが進むたびにおば様も一歩遠ざかる。ネズミ族は多産だから祖父母の暮らしていた大きな家は手狭になるかもしれないのに、壊すくらいだったら、と買い取ってくれたんだから。
アンおば様は半値以下だと言っているけれど、わたしは自分の貯めていた分だけで旅立つつもりだった。だから、家を引き取ってもらった分は丸々余裕として持っていけるんだけど、どうやらおば様はそれでは納得してくれなかったみたいで。
ちらり、とさっきまで隣にいた黒色がおば様の後ろにいる事を確認して、小さく頷いた。旅立ちの準備はもう、終わっている。肩にかけた鞄はもういっぱいで、渡された小包を入れるスペースはない。
「ええ、だから家を大切にしてあげて。それじゃあよろしくね!」
さっきまでと同じようにわたしが一歩踏み出した分おば様が下がろうとして、何かにぶつかりその場に留まった。何もなかったはずのおば様の後ろで、進路を妨げたのはさっき合図を出したヴォルフ。
何が起こったかを理解する前に小包を差し出し、おば様が咄嗟に受け取ったのを確認してからヴォルフと二人、勢いよく飛び出した。
「お待ちよセレネ! ああ、もうヴォルフまで! ありがとうね! 気を付けるんだよ!!」
ネズミ族は俊敏だけど、おば様は恰幅の良さがあるからか私と同じかそれよりも少し遅くしか走れない。ちょっと前に階段を踏み外して足を痛めたと言っていたし、スタートダッシュを決めたわたし達には追いつけないだろう。
だからこそのこの方法なんだけど。まさか、おば様に見つかったらこうしようって冗談で話していたことを本当に実行するとは思ってもいなかった。
町のみんなには旅立つと話していたから、もう別れの挨拶は済んでいるしこのまま飛び出しても何にも問題はない。
時々すれ違うヒト達には簡単に行ってきます、とだけ告げてわたし達は町を後にした。
「さて、まずはリュムをひと巡りしたいわね。それから……」
ある程度、どこに行くのかは計画を立てたけれど、地図を見ていると気になる所がどんどん出てきてしまうから不思議だ。小さい時からあれほどたくさん見てきたというのに。
この大陸がリュムという名前だという事、わたしの足ではぐるっと回りきるのに相当時間がかかるだろう事、獣人とヒト族が仲良く暮らしているという事。
祖父母から寝物語のように聞いたその話に、幼い私はあっという間に虜になった。いつしか、自分の目で確かめてみたいと祖父母に告げたその想いは、今もこの胸に。
「時間はたくさんある。行きたいように歩けばいい」
「そうね。付き合ってくれてありがとう、ヴォルフ」
言葉は少ないし感情は分かりづらいけれど、わたしなんて簡単に置いていけるくらいの速さで走れるはずなのに、こうして隣を歩いてくれる同行者もいる。
自分の金色の髪を揺らすような吹き抜ける風に身を任せ、わたしは自分の夢を叶えるための一歩を確かに踏み出した。