先輩からの助言
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琴野が帰り、職員室に戻った。いろいろと考えなければいけないことがあるとはいえ、当然、通常の仕事もある。
満川の件を聞いてから放置してしまっていた業務を終わらせなければ。まだ六時。集中すれば、九時には終わるはずだ。
自分のデスクに腰かけて、ふぅと息を吐いて積み重ねられた課題と向き合う。
生徒たちからすれば、これを仕上げるのにとんでもない労力を使ったという感覚なんだろう。
ただ、いざそれを採点する立場になれば、それも変わるはずだ。もちろん、そんなことは考えないだろうが。
教師という職につき、いいことばかりではない。むしろ日々、頭を抱えることの方が多い。その中でも一番嫌なのは、こういうデスクワークだ。
生徒たちの答えに「〇」や「×」をつけるのに、ミスは許されない。もしそんなことをしてしまえば、生徒が間違った答えを覚えてしまう可能性がある。特に受験を控えている三年生の採点は気を遣う。
だからこそ、集中しないといけない。教師からすれば、日々の業務の一つでしかないことだが、生徒にとってはそうではない。
「……お」
採点を進めていたら、満川の課題に行きついた。ざっくりとした性格をしているわりには綺麗な字だと思う。
そんな彼女の課題に採点をつけていく。ただ、どうしても手紙のことが気になって集中できない。
落ち着くために、息を吐きながら椅子の背もたれに寄りかかった。
「お疲れか」
目元を抑えながらほぐしていると、隣から聞きなれた男性の声がした。
「ええ、やはり採点は気を遣いますから」
体を起こして、隣と向き合うと生徒から『バーコード』とバカにされている頭に目が行ってしまった。
今年で五十五歳になるという、大先輩の守谷先生だ。
「肩の力抜いてやらなきゃ、身がもたねぇぞ」
「とはいえ、適当にするわけにもいかないでしょう」
「力を抜くことが、適当になっちまわねぇよにするんだよ。そうしねぇと、お前さんが疲れるだけだ。ま、まだ若いからいいが、そういうのを身につけとけ」
守谷先生はこんなことを言うが、雑に仕事をしているわけじゃない。たぶん、自身で言ってる通り、力の加減をしているんだろう。
そこの技量は今後、確かに身につけていかないといけない。
守谷先生は俺のデスクにあった満川の課題を覗き込むと、なんだよと声を出した。
「これこそ、力を抜くところだろ」
「満川のがですか?」
「あいつはもう推薦で進路決まってんだから」
確かに満川はもうすでに大学への進学が推薦で決まっている。部活でそれなりに結果を残していたし、日頃の生活態度も悪くない。当人が勉学での進学を望んでいないので、話はもう固まっている。
「こういうところで力抜けよ。ミスがあっても、問題ねぇだろ」
「そういう問題では」
「俺たちは教師だけど、それ以前に人間だぞ。ミスはしちまうんだ。だから、していいところと、しちゃダメなところを判断しねぇと」
それはわかるが、なんというか、判断の基準がそういうものでいいのだろうかと思う。
そんな考えが顔に出ていたのだろうか、守谷先生は「ケケケッ」と引きつった笑いをした。
「相変わらず石頭だな」
「……すいません」
「いや、謝ることじゃねぇよ。芯があるのは、教師向きだ」
この道三十年以上のベテラン教師にそう言ってもらえるのはありがたいことだ。
「そういや満川、ケガをしたらしいな」
「はい。階段で転んだそうです」
守谷先生にどこまで言っていいかわからないので、それだけ答えた。突き落とされたらしいなどと言えば、大事になるかもしれない。
「あいつがねー。運動神経は抜群なのになぁ」
「……そうですね」
「ま、弘法も筆の誤りってやつか。俺の場合は河童の川流れだけどな」
自虐的なネタで笑って、守谷先生は席を立った。
反応に困るギャグはやめてほしい。




