彼女は何かを知っている
赤ペンのインクがきれると同時に、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
職員室のそこかしこで、教員たちが座りっぱなしだった体を伸ばしたり、待っていましたと言わんばかりに食堂へ向かって行く。こういうところは教師も生徒も変わりがない。
そう思いつつ、俺も同じように席を立った。赤ペンの替え芯を買わないといけない。
職員室から一歩出ると、たくさんの生徒の声が聞こえる。楽しそうなやりとりを聞いていると、少し疲れが癒された。
二階にある購買部へ向かう間、何人もの生徒とすれ違い、真面目に挨拶してくる子たちには挨拶を返していた。
昼休みは食堂は混雑するが、対して購買部は人がまばらだ。うちの購買部は文具などしか取り扱っていないから、在学中に一度も利用しないという生徒も珍しくない。
購買部のカウンターには、黄色いバンダナに、『購買部』と大きく刺繍されたエプロンをつけた女子生徒がいた。
俺の方を見ると、気さくに手を振ってくる。
「やっほー、住吉センセー」
にこっと笑うと、少し大阪名物のびりけんに似ている。ただ、以前にそれを言ったら、すごく強く『それが女子に言うことか!』と怒られたので、もう口にしないようにしていた。
それでも、そういう誰をもほっとさせる笑顔が円藤の魅力だと思う。
「また手伝いか。弁当はどうしたんだ?」
彼女はよく購買部の手伝いを自主的にしている。手伝いというより、彼女が接客してくれる確率の方が高い。
「三時限目に食べた」
教師相手に早弁したことと、授業中にしたことを堂々と白状してきた。しかも、胸を張って。
「……程々にしろ」
「はいはい。でも、ちゃんと授業も聞いてたから。怒らないで、ね?」
両手を合わせて甘えるように体を寄せてくるので、額を弱く叩いた。
「いたっ」
「女子がそういうことをするな。勘違いする男が出てくる」
「堅物め……それが狙いだっていうのに」
額を抑えながら円藤がそうぶつぶつと言う。
「それでご用は? また赤ペン?」
「ああ、替え芯を頼む」
「オッケー。三本セットで二〇〇円だよ」
円藤が後ろの棚から赤ペンの芯を取り出している間に、商品が展示されているガラスのショーケースを見ていると、思わぬものが目に入った。
購買部で取り扱っている商品は基本的にこのショーケースで展示されているのだが、その中で便箋の前に『売り切れ!』という三角のポップが立っていた。
この学校に勤め始めて今年で六年目になるが、こんなものは初めて見た。
「センセー、お金出して」
円藤が手のひらを見せながら催促してくるので、ポケットから小銭を取り出して渡した。
「珍しいでしょ、売り切れなんて」
彼女はレジを操作しながら、なぜか嬉しそうにしている。
「ああ、初めて見たな、何かあったのか?」
「実はね……」
レシートを差し出してきながら、円藤が何か話始めようとしていたところだった。
急に、俺と円藤の間に人影が割り込んできた。
「円藤先輩! 近い、近い!」
彼女はレシートを手にしたままの円藤を指さして、そう非難するが、円藤はそれをクスクスと笑って面白がっていた。
「いいじゃん別にー。乙女のってわけじゃないでしょ?」
「そ、そうですけど! でも抜け駆けは禁止ですから!」
「いや別に狙ってないけど」
必死に何かよくわからないことを主張する彼女を、円藤は完全にいなしていた。
割り込んできた彼女は円藤からレシートを奪い取ると、くるりと体を反転させて、俺と向き合った。
セミロングの黒い髪に、赤い眼鏡、ほっそりした顔つきは育ち盛りの高校生なのを考慮すると少し心配になると同時に、そういうスタイルを保つための努力を感じてしまう。
そんな彼女、琴野乙女がとても子供っぽい笑顔を向けてくる。
「はい、先生」
そう言ってレシートを渡してくれるので、少し戸惑いながらもそれを受け取った。
琴野はぐいっと身を寄せてきて、上目遣いで「先生」とまた呼んでくる。
「売り切れのこと、気になってますか?」
「あ、ああ」
その返事を聞くと、彼女はさらに笑顔になった。そして俺の手を取って、引っ張ってくる。
「私が教えてあげます!」
本当に嬉しそうな顔を見ていると、止めることができなかった。そんなやり取りを見ていた円藤が、クスクスと笑いながら手を振って見送ってくれた。
「じゃあねー」
替え芯を受け取り忘れたのに気づいたのは、少し後だった。
本日から朝の八時と夕方の六時に更新していきます。
約2週間ほどで完結する予定です。
よろしくお願いいたします。