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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第二章 パンドラの箱
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パンドラの箱 4 【啓介】

 そんなことがあった翌日。依頼人の家に行ってみると、驚いたことにまだ何も動いていなかった。調査対象を最後に見た場所を言うべきか考えたが、中途半端なことを言うべきじゃない。俺は玄関の中で立ち話だけをして、すぐに退散することに決めた。憶測だけで突っ走るわけにはいかない。夫の浮気相手が斜め向かいの女だということも、まだ伏せておいた方が良い。


 コンビニの駐車場に車を停めて、佳純の番号にかけた。殺人事件は担当外でも、佳純は優秀だから時々課を跨いで捜査に加わる。じゃないとしても、管轄内で起きたデカい山なら情報を聞き出すことは出来る。俺が持つネタを渡すことで、浮気相手の女が容疑者特定に繋がるだろうし…。


『もしもし?』


 いつも以上に低い声だ。おやっさんに似て、生まれつきのハスキーボイスに迫車がかかる。


「悪いな、仕事中だろ? でも、急ぎで聞きたいことがあるんだが」


『…何?』


 角がある口調に、恐らく傍に部下でも居るのだろうと思い、俺も事務的に徹する。


「昨日の、ラブホテルで見つかった遺体の件だ」


『……なんで?』


「朝刊に出てたからさ」


 電話の向こうでは、ガヤガヤと雑踏の気配がしている。佳純は今、どこにいるのだろうか?


『何か知ってるの?』


 かなりシリアスな表情を連想させる声に、俺はゾクリと肩の後ろを震わせた。


「話すなら、会ってからだ。じゃなきゃ、まずいよな?」


『…そうね。今夜、家に来て。あなたの部屋じゃ二人きりになれないから』


「ああ、解った」



 電話を切りながら、何か嫌な予感を覚えた。気付けば、亜沙美が行方不明になった日のことを思い出していた。


 短い夏の、夕立が激しく降りしきるその中で、幼い子供を残して消えた母親の残像を見た…。白いシャツに朱色のスカート。長い黒髪を束ね、背が低いことを気にしていた彼女は底上げのハイヒールを好んで履いていた。


 あどけない少女のような笑顔はどこにもない。俺は彼女にとって、目障りなだけの木偶の坊だった。二度と、触れる事も許されないという強い想いが、俺の足を止めた。彼女の悲し気な顔さえも、見てはいけない。俺が幸せにしてやれなかった彼女に、関わるべきじゃない。だから、偶然再会したそのすぐあとで起きた出来事に、俺はすっかり狼狽えた。


 人々が大勢いるショッピングモールの入り口に、子供を残して車を取りに行ったという亜沙美は、そのまま…。待望し、産み育てた我が子を一人残して消えてしまった。


 俺が知る限り、亜沙美はそんなことができるような女じゃない。警察官向きの真っすぐな正義感があった。そんな奴が中途半端なまま消えるだなんて、どう考えたっておかしい。それなのに…。


 大人が一人消えたぐらいじゃ、警察は本気になって探さない。毎年、行方不明になって届けが出される数だけでも膨大だ。俺が、別れた女房を探し続けることも良しとしない同僚が、他の捜査そっちのけで気狂いになったと勘違いした上司が、少しずつ軋んで罅割れた人間関係が、一気に押し寄せて脆く壊れたあの夏の終わり。その時感じた嫌な予感が、べっとりと俺を包み込んでいる。それが次第に罪悪感に取って代わって、七年前の俺は、潰れた。



 今は、潰れている場合じゃない。そう自分に言い聞かせて、俺はもう一度依頼人の家の方まで車を走らせることにした。振り出した小雨がフロントガラスを濡らし、効きの悪いワイパーが虚しくガラスを引っ掻いて沢山の曲線を引っ張る。まるで指の隙間から覗く世界を見つめるように、身を乗り出して運転に集中しようと努力したが…。打ち消しても、頭を振っても、何かのきっかけに過去が俺に追いついてきて、意地悪く囁くことがある。それが、今だ。



 ある日。父親が仕事中に、通り魔に刺殺されたのが俺の人生の転機だった。理不尽に降りかかる不幸は、必ずしも悪い事だけでは済まないのだと思う。誰かが言っていたが、人が仕事を選ぶんじゃなく、仕事に人が選ばれるのだと言う。だとしたら、俺は刑事という仕事に選ばれたのかもしれない、と思った。それぐらい、この仕事は俺の性分にピタリと嵌っていたのだ。それが、亜沙美を失ったことで全部ひっくり返った。妊娠していた子を流してしまったことを詫びながら、彼女は離婚届を俺に差し出した。


 元より執念深い性格が功を制して、俺は刑事時代はそこそこの検挙率を叩き上げることに貢献していたと自負している。だから探偵になった今でも、自分が納得できるまで気になることは徹底的に観察する。人間が罪を犯す時、必ず動機がある。他人には理解不能なものであれ、人の命を殺めるエネルギーは凡そ感情から沸き起こる欲求を満たす手段だと、俺は考える。塵のような些細な感情も積もり積もれば大きな山となり、突き動かされることは起こり得ることだ。


 内臓を傷付けられた親父は二年後に死に、心の支えを失った母も衰弱するようにして亡くなった。夫婦は運命共同体だ。どちらかが不幸に遭えば、必ず巻き込まれてしまう。そして、その子供も。


 それは警察学校を卒業してすぐのことだ。お袋が親父の後を追うようにして死んだ時、俺を支えてくれていたのが当時付き合っていた亜沙美だった。無痛状態となり泣くこともできなかった俺の代わりに、彼女は涙を流して母の葬儀に参列してくれた。面倒な手続きの時も嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれたし、生活が荒れていた俺の家に押し掛けくる形で世話してくれるようになって、毎晩どうしようもなく寂しい時は俺が求めるがまま抱き合って眠らせてくれた。彼女は実の母親よりもずっと、献身的な愛を俺に与えた。昏い気持ちで生きていた俺が、少しでも希望を持てるようにと沢山の思い出を精力的に作ろうと、明るい場所へと誘い出してくれた。あの時、彼女がいなかったら俺は、もっと闇を抱えて腐った人間になっていただろうと思う。通り魔を憎み、犯罪者を執拗に追いかけ、法の裁きもそっちのけで連中を追いつめ、絶望させることに生き甲斐を見い出したかもしれない。


 両親の遺産はそこそこあったが、自分が金持ちだとはあまり感じたことはない。俺が持ち帰る稼ぎだけで、亜沙美は上手にやりくりしてくれた。いつ帰れるかわからない俺を待ち、家の中はいつだって整理整頓され掃除が行き届いて快適だった。俺にとって妻となった亜沙美は、帰る場所そのものだった。愛していた。亜沙美も俺の事を深く強く愛してくれていた。だから、きっと。彼女の心は折れてしまったのだろうと思う。無理をさせていたのは、他ならない俺だった。



 親父を殺した犯人は未だに捕まっていない。毎日、脚を棒にして捜査に没頭していた俺が、時々気まぐれみたいに彼女に甘え、授かった赤ん坊がもしも今頃生まれていたら…。神様がいるなら、なぜこんなにも厳しい試練を俺に与えるのだろう。俺の前世は罪を犯したとしか、思えない。


 ワイパーが追いつかないほどの大雨に濡れたガラス越しの空から、光線が差し込んだ。目が眩むほどに眩しくて、俺は徐行運転しながらハザードランプを点滅させた。片道二車線の道路のあちこちに水たまりが出来て、そこを通る車が大量の水を跳ね上げながら交差していく。信号待ちじゃないのに道路わきに幅寄せして止まった俺の車に向かって、誰かのクラクションが鳴り止まない。うんざりするほど降りしきる雨の中で、まだ俺を責める奴が付きまとうのかと思うと殺意が湧く。重たい記憶に押しつぶされかけている俺は、正常とは言えないところまで追い詰められている。ドアが叩かれる。やめろ。誰かが叫んでいる。もう、やめてくれ。ボンネットの向こう側で何人かの人がこっちを向いて叫んで、そして右側の歩道に駆け込むように立ち去った。何かが起きている。そうと知りながらも、俺はまだ過去に掴まっていて身動きが取れない。しばらくすると、何かが差し迫ってくる気配を感じて、気付いたときには手遅れだった。


 ド―――――………ッン


 落石が、俺の車にぶつかった。


 目の前で、トンネルが崩落した。俺を追い越して行った車がみんな土砂に埋まってしまった。雨が降りしきる中、通りすがりの沢山の人が呆然と現場を眺めた。濁った泥水がまだ、崖の上から流れ込んでくる。俺は車を乗り捨てて、来た道を引き返した。


 あの日も雨だった。亜沙美が居なくなった日だ。


 大勢の人々が行き交うその中で、亜沙美の存在だけが俺の視線を捉えた。金縛りに合ったように、動けない。彼女も俺の視線に気付いて……。その顔を見ることができなかった。咄嗟に伏目して首を捻じり、亜沙美を視界から切断した―――。


 もしかすると、それが彼女の古傷をえぐったのかもしれなかった。


 雨が服と肌の間に流れ込んでくる。満たされない心の穴に向かって、どんどん押し寄せてくる。あみを拾ったときも、あの子が自らをあみと名乗ったときも、あさみが寄越してきた天使のように感じた。脳が痺れ、甘いざわめきが俺の空洞に満たされていく。


「あのね、ずっと隠してた事がある。私、あなたを驚かせようと思って、言わなかったんだけど。実はね、赤ちゃんが……」


 亜沙美の黒い瞳から溢れ出す涙が。真っ赤に充血した白目のせいで、ピンク色に染まったかのような大粒の涙が、悪い知らせだと俺に警告していた。亜沙美は時々、げっ歯類のような前歯で下唇に歯を立てながら、震える歯をガチガチと鳴らし、絞り出すように言葉を紡いだ。白い手が彼女の柔らかいお腹の上を撫で降ろす。そこに赤ん坊がいるのか、と俺は咄嗟に思ったが。それにしては亜沙美の様子はまるで…。


「赤ちゃんがいたの。女の子よ。でも、……私が、堕ろしたの!」


 そして一泣きした彼女はなぜか、離婚届を俺の前に突き出した。すべての欄が彼女の丸い字で埋められている。いっぺんに色んなことが起きて、俺の脳は機能停止に陥っていた。何も言葉が出て来ない。茫然と彼女を伺うと、青白い顔をして酷く辛そうに顔を歪ませ、背中を丸めていた。二十二歳とは思えないぐらい、やつれてしまった恋女房は震える声で言った。


「ごめんなさい。私と、別れて下さい。お願いします!」


 どんな気持ちで、どんな思いを抱えて、俺との別れを選んだのか。意気地なしの俺は最後まで何も聞けないまま…。


 俺を残して、彼女は家を出て行ったのに追いかけることも出来なかった。見送ることが、俺に残された唯一つの亜沙美への優しさだと、そう感じたから。解放してあげなければ。俺との人生じゃ、彼女は幸せになれない。



 そんな別れ方をした最愛の女は、俺が目を反らしたせいで、俺なしで幸せになった彼女を直視できなかったせいで、彼女の心を壊したのかもしれない。出会ってはいけなかった。再会するような場所に行ってはいけなかった。


 俺は何としても見つけてやりたかった。そして直接、謝罪したかった。すぐに見つかるだろうと思ったが、なぜか痕跡すら見つけられなかった。


 一人の人間が忽然と消える。そんなバカなことが起きたとしか思えなかったが、何かを見落としているのかもしれない。そう思い直しては、捜査を一から立て直した。そんな努力も虚しく、無情にも時間は流れ。捜査も打ち切られ、個人として探すことを止められず、それからずっと、もう七年にもなるのに、あの日から何も進展していない。時間に置いて行かれながら、俺は自分が探偵でいる意味がわからなくなりかけていた時に、あの廃墟の一軒家であみと出会ったのだ。


 口も利けないぐらいに痩せた少女が、亜沙美と重なった。骨ばった顔に大きすぎる瞳を見て、亜沙美の面影を感じた。少女は亜沙美が生んだ娘じゃないか。そんなバカなと思いながらも、なぜか俺は血の繋がりのようなものをあみから感じる気がして、抱き上げて自宅に連れて帰ってしまった。どうしても俺の手で、育てたい。傍に置いて、成長を喜びたい。たったひとりの家族。血を分けた俺の娘…。


 あみに触れると、亜沙美と過ごした熱い夜を思い出す。底なしの優しさと蕩ける顔が、まだ瞼の裏に焼き付いて消えない。亜沙美の息遣いも、声も、体温もまだ、俺の皮膚の下には彼女が居る…。亜沙美を感じている。


 突然。ポケットの中の携帯のバイブが、夢心地の俺の頬を引っぱたいた。

 おかしな妄想に浸っていた。

 息が苦しい。

 雨に濡れながら、深呼吸をする。音や人々の喧騒が迫ってくるように、俺を日常へと引き戻した。グラグラっと身体が揺れて、罅割れたアスファルトに膝をついてしゃがみ込む。悲惨な事故現場からわずかに離れた場所で、急に目が覚めた。


 パトカーや消防車、救急車が、次々にすれ違いトンネルの入り口付近に溜まっていく。色んな色のランプを点滅させた特殊車両が並んで、異様なほど人が集まってきていた。


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