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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第二章 パンドラの箱
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パンドラの箱 3 【啓介】

 本州から独立した行政機関である北海道警察は、北海道公安委員会の下部に位置しており、広大な土地を警邏するため方面本部に区分け管理され、公安委員会も地方本部を設けられた。極悪専用の刑務所があったことで重大犯罪を犯した危険人物を収容していた過去の歴史の影響かは不明だが、本州では例を見ない異様極まなりない事件が開拓の歴史の中で何度か勃発し、秘密裡に鎮静化されてきた。日本であって日本ではない、それが北海道という特殊な環境なのだ。


「そういえばさ。ふと思い出したんだけど、道央自動車道の札幌旭川区間で、何年か前少女の遺体が発見されたことがあったでしょう?」


「それは七年前だな。勿論覚えてるさ。あれの半年前に亜沙美が行方不明になったんだから…」


 別れた妻が近所のショッピングモールに買い出しに出掛けたまま行方不明になった。大量死体遺棄事件の関連は定かではないが、日常の中でいるはずの人物が突然消えるという不可解な事件が頻発した時期に、まさか自分にとっての関係者が被害に遭うなんて思ってもみなかった。彼女は、俺と別れた一年後には再婚し、小学生に上がったばかりの息子がいて、学校教師をする優しそうな旦那と幸せに暮らしている筈だった。


「まぁまぁ…。亜沙美さんの件は置いといて。私が言いたいのはさ、消えた少女の遺体の謎の方よ。法医学部の遺体安置冷蔵庫から一人消えたやつ、覚えてるわよね?」


「そういや、そんな奇妙な事件があったな…」


 あの時は遺体が歩き出したとか、少女遺体マニアの学生が持ち逃げしたとか、散々思いつく限りの可能性を調べつくしても結局未解決になったものだ。当時はまだ防犯カメラなんてそこら中にあるわけじゃないから、目撃者捜しも大変だった。


「あの時の検視報告書、見たのよ。そしたらさ、消えた少女の遺体にあなたの娘と同じ特徴があったってわけ」 


「なんだと?」


 俺は眉毛を釣り上げて驚いた。


「これ、コピーよ。本来持ち出し禁止のやつだから、責任もって破棄してよね」


 佳純はそう言うと、折りたたんだA4の白い紙を俺の前で広げた。折り目の線がついてしまっているが、引き伸ばした遺体写真と司法解剖記録だ。


「髪、眼球の色、爪、歯形、色々あるわ。一度、専門医に連れて行って照会した方が良いんじゃない?」

 俺は頭を鈍器で殴られるほどの衝撃を感じた。


「あぁぁん? なんで、そうなるんだ? 死体が生き返ったとでも言いたいのか?」


「そうね。死体が生き返ったとしか言いようがないけどさ。私は何事も常識を疑ってまっさらな目で見るって決めてるの。それで、この件とあなたの件が繋がったのよ。驚いたわよ? もちろん、私だって物凄く驚いた。でも、確かめてみる必要はあるんじゃない?  消えた死体は発見当時、上半身と下半身が完全に切断されていたわ。引き裂かれたような断裂部の写真も残ってて、内臓は一部消失していた。野生動物が食べちゃったのかもしれないけど、それにしてもグロテスクなのに綺麗な印象の遺体だったのよね。体の表面的には、まるでまだ生きているみたいに…。

 あみちゃんだっけ? 記憶喪失で、推定年齢十七歳で、これだけの特徴が一致してるのよ。DNAで同一人物かどうかチェックしてみることもできるわ。まだサンプルは保存されているんだから」


「馬鹿々々しい」と、俺は書類を折りたたんで胸ポケットの閉まった。


「そう言うと思った」


「じゃあ、なんでわかっててこんな事を?  俺を試したのか?」


 むきになった俺を見てくすりと微笑んだ佳純は、頬杖を付いて俺を横目で見詰めてきた。まだ昼前なのに誘うような女の眼だ。

「そんな意地悪な言い方しないでくれる? 別に他意はないわよ」

 佳純はまたしても俺の掌の上に手を乗せてきて、ギュッと握りしめた。

「でも、可能性は零ではないでしょ? その寝顔と今夜本人の寝顔を比較してみれば良いのよ。似てなかったら破棄して。ちゃんとシュレッターでよ?」

 その時、丁度。佳純の携帯が鳴り出して、彼女は仕事に駆り出されて行った。刑事は忙しい。


     *


 午後は今抱えてる調査のため、札幌市街より北にあるベッドタウンに車で出掛けた。風が強く吹き付ける土地柄で、風力発電用の白い風車が並んでいるのが見える。


 調査対象者の勤め先に着いてから少しすると、会社の営業用のバンを運転する対象者を確認した。怪しまれないように、後ろを着いていく。


 バンは勤務中だというのに、パチンコ屋の立体駐車場に侵入して行った。二階のがらあきスペースの隅っこに車を止めるのを確認して俺は素通りし、対角線側の隅っこに車を駐めた。すると、どこから沸いたのか、営業車の助手席にさっきまで居なかった女がもう座っている。


「嘘だろ、なんだあの女」


 二人は、さも楽しそうに話をしている。


 俺は望遠レンズを装着し、カメラに黒い布を被せてフロントから現場写真を撮影することにした。


 動画も念のため録画してみたが、音が拾えない。こういう時が一番中途半端で、歯がゆいものだ。これだけ距離があると、接近して音を拾うことも不可能だし、口元を撮影するのが関の山。あとで何かの役に立つこともあるだろうと、念には念を入れて記録しておく。


 少しすると、俺が僅かに目を離した途端、女は姿を消していた。運転席の男はリクライニングを下げ、顎を揺らしている。時折、頭を持ち上げながら下腹部を気にして、時々笑っている。見えない場所にいるであろう女から何をされているか、一目瞭然だった。


 依頼主の奥さんのやつれっぷりを思い出して、俺はため息を付きながら証拠写真を撮った。


 ホテルにも行かないで、こんなところで何してる?


 ずっと仕事で忙しいと言いながら、平日午後の密会には時間を割くわけだ。


 まだ幼い子供を抱え、保育園に送り迎えしながら仕事をしている依頼主の憔悴振りは痛々しかった。この証拠はかなりの破壊力を持つことになるだろう。


 運転席で見悶える男の顔をズームして、連続写真のシャッターを切る。この写真を見る妻の気持ちになってみると、女の姿がないだけマシかもしれない。


 しばらくして、助手席に姿を見せた女の髪は不自然な程に乱れていた。商売女なのか、口紅がやたらと赤く、服装が年齢の割に若作りし過ぎている気がする。鍛えられた体のようだが、顔はやつれた奥さんと同じ年代のように見える。


 女は車から降りると、服装を正してパチンコ屋の中に戻って行った。ギャンブル依存症の女を買ったといったところだろうか。


 それから、男はしばらく夢心地と言った顔をしてうたたねしていた。突然飛び起きて、腕時計をいじると車を発進させ、荒っぽいハンドル捌きで立体駐車場から出ていく。この場所は、平日昼間の死角と言ったところか。


 その後、夫は真面目に営業巡りをして、午後六時半に自分の車に乗って会社を出た。後を着けていくと、居酒屋の駐車場に車をいれ、またしばらく降りる気配も見せずにじっと動かなかった。およそ二十分後、昼間見た女がコンビニの袋を手に持って歩いて来た。女は当然のように車に乗り込んで、すぐに移動開始。


 連中は札幌市の端にある寂れたラブホテルに入って行く。ダッシュボードにセットしておいた固定カメラで動画撮影は継続している。あとは、二人で出てくるところを押さえれば良い。


 ここで一旦あみにメールを送り、不在中の状況を確認する。


 特に問題はないという返事を貰い、帰宅時刻が読めないから先に寝てろと指示を出す。顔文字を使った返信には「おつかれさま。おやすみなさい」とあった。無機質な文字に、安らかな温もりのようなものを感じる。


 張り込みで肝心なのは、出待ちに即対応が出来るかどうかだ。シャッターチャンスを逃したくなければ、集中力をほどほど維持し続けること。それに、証拠写真というのは何よりも写真写りがものを言う。ベストポジションを考慮して、対向車線側の側道に路駐した。咄嗟にピントが合わせられるほど器用でもない為、運転席側の窓から焦点を当てて調整していると、予期せぬことが起きた。女が一人で出てきたのだ。


 入室から僅か半時間程度で情事が済んだとは考え難い。女は顔面蒼白で、フラフラしながら逃げるような足取りで去っていく。カメラを構えるのも忘れて様子を伺っていたが、慌てて後姿を撮影した。残された男の出待ちをするべきか、それとも女を追うべきか。ラブホテルの駐車場入り口に垂れ下がる汚い暖簾の向こう側を想像すると、何か嫌な予感を覚えた。もしも、この予感が的中するとしたら、あの女の素性を知っておく必要がある。そう考え、俺は車を発進させた。


 しばらく歩いていた女は、対向車線をやって来るタクシーに手を振って捕まえ、乗り込んだ。俺はカーナビを操作する振りをして路駐し、見失わない程度に距離を開けてタクシーを追う。すると、意外にも女は依頼人とターゲットが暮らすベッドタウンの一角でタクシーを降りた。女の自宅は、依頼人宅から目と鼻の先にある、大きな一軒家だった。



     *


「啓介、珈琲冷めないうちに飲んだら」


 俺が新聞を読み入っているのを邪魔するあみの声がした。あのホテルで、遺体が発見されたという記事が載っていて、同伴者を現在捜索中とあった。


「なんて顔してんの?」と、あみが俺を見ていた。


「どんな顔してた?」と、顎を撫でながら答えると、あみは俺のマネをして大仏のような半開きの目つきになる。こんな表情もできるようになったのだ。喜ばしい変化だ。


「ちょっと、気になるニュースがあったもんでな」


「あ、っそう。昨日、寝る前に電話が来たんだけど、なんか急いでるって言ってたよ」


「はいよ。あとで電話しておく」


 あみが買ってきてくれた焼き立てのパンを食べて、少し冷めた珈琲を飲む。この事件のせいですっかり忘れていたが、スーツの懐から出したA4の紙のことが過った。


 目の前で単語の書き取りをするあみの伏目がちな表情を見て、嫌な予感がした。


「なに? さっきから、変な視線投げて…」


「いや、なんか見る度に印象変わってるなって思って」


「…印象が、変わる?」


 あみは首を傾げた。子犬でも子猫でも、餌を前にしてすぐくれないご主人様に首を傾げておねだりをするような印象があったが、あみのこの癖はまさにそれを連想させる。俺は男だが、母性本能がくすぐられると言う感じに近い。一緒にいるだけで心が満たされる気がする。それは恋人の佳純ととは明らかに違う全く別の感情のように思っている。やはり、娘として俺はあみのことが大事な存在になってしまっているんだ。それを、わざわざ壊すような真似を、わざわざ自分からしたいとは思わない。


 なんで、消えたとは言え検死解剖まで終えた遺体の顔を照合しなくちゃいけないんだ?


 そんな地雷、踏まなくたって良いじゃないか?


 例え百歩譲ってあみが消えた少女の遺体だというなら、俺は何をどうしなくてはいけなくなるのかさえ、わからないのに。


 だって、あみは生きている。今、ここでこうして俺と目と目を合わせて、喋って笑って見つめ合っている。それが大事だ。それ以外は、今は、要らない。


「なんか、急に年頃の女の子らしくなったっていうか」


「…どういう意味?」


「出会った時、お前きったねぇ野良猫みたいだったけど、今は見違えてすっかり年頃の可愛い女の子じゃないか」


 俺の言葉に、あみは突然真っ赤になった。


 そんな顔を始めて見る。どうやら、俺の言葉に過剰反応したようだ。


「け、啓介こそ! そんなすかした顔して殺し文句言うなんて、変態!!」


 面白い反応が返ってきた。俺は堪らなくなってニヤニヤと笑っていた。


「可愛い娘に可愛いって言って変態かよ! 極端だなぁ、ははははは」


「その笑い方! 汚いから、下品だから、耳障りだから!」


 なぜかそれだけのことで、俺は腹がよじれるぐらい大笑いした。


「誤解しないでくれ。俺は本当の娘だと思ってるんだよ。だから、変態って心配しなくても…」


「そんなこと、心配なんかしてない!」と、あみは俺の言葉を遮った。


 そして、突然テーブルのふちをすごい速さで移動してくると、俺の膝の上に尻を乗せてきて首に腕を回し、力強く抱き寄せられた。ぴったりとくっついた抱擁に、あみのなにもなかったはずの胸が俺の胸骨に当たっているのがわかる。


「啓介って本当に鈍いよな」


 俺の髪を撫でながら、あみが耳元で囁いた。


「…わかったよ。あんたは親で、私は子供。それ意外にはなれない」


 体温同志が重なると、急速に熱を持ち始める。女らしくなったあみの肉体を実感すると、良からぬ感情が生まれそうで俺は慌てた。でも、突き放すことなんて出来ない。二度と、家族を失いたくない。


「あみ?」


 あみが何を考えているのか、わかる。でも、俺は鈍い振りをしなければならない。俺達は親子だ。男と女にはなれない。そう、自分に言い聞かせた。


 首に一瞬だけ柔らかい感触が押し付けられた。それがあみの唇だと思った途端、ゾクゾクと悪寒が背筋を上って来て腰が砕けそうになる。拾い上げた時には、こんな風になるとは微塵も想像しなかった。小さくて弱々しい、可哀想な子供。それが、こんな風に俺を追い詰めるようになるなんて…。


「ここにキスマーク、ついてる」


 突然。冷たい声で言われて、俺は唖然としながらあみの顔を見た。少しだけ寂しそうな目が責めるように俺を見つめ返す。なんだ、これは。


「キスマークって。そんなこと、どこで…」


「啓介は、私が記憶喪失の可哀想な女の子だと思ってるんだね。でも、いつまでも忘れてられるわけ、ないんだよ。壊れたパズルのピースみたいに、ひとつずつ取り戻し始めてるんだ。まだ、数は少ないけど…」


 俺の目を見つめながら、あみは妖艶な顔をしていた。


「そんな困った顔、しないでよ。啓介には恋人がいるの、最初からわかってた」


 そんな大人の女みたいなことを言うあみに、俺は少しだけ。いや。かなり、おっかなくなった。膝の上に座っている脚は、ズボンを履いていなかった。肉付きが良くなった彼女から、女特有のもっちりと軟かな感触がした。


「違う事で恩返しするよ」


 そう言ったと思ったら、あみは俺の膝から降りて自分のベッドに向かって歩いて行った。大き目のトレーナーの下は尻が覗き、すらりと細く伸びた脚は半年前よりもずっと魅力的な女の脚になっていた。ゴクリと唾を飲み下す程、俺はなぜか動揺していた。

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