パンドラの箱 2 【啓介】
クロワッサンを大きな口で平らげ、珈琲をおかわりして、読みかけの本を開いているあみは、もうずっと前から一緒に暮らしてきた我が子のように感じてくる。あみが作ってくれた玉子とカボチャのマヨサラダを食べながら、俺はついため息を吐いた。
「どうしたの?」
こちらを見て、あみが聞く。
「ちょっと、考え事だ」
「難しい案件でも抱えてるとか?」
「……まぁな。いつも楽勝ってわけじゃねぇからな」
「手伝ってやろうか?」
あみは身を乗り出して、テーブルに身体を預けがら顔を近づけてきた。
目の前で見ると本当に美しい子だ。良く食べて肥えてきてから特に感じるが、あみは純日本人じゃなく、混血だと思う。白い肌、銀色のような不思議な色の瞳、色素の薄い黒髪は光の下だと銀色に見える。目の窪み具合やまつ毛の異常な長さは、黄色人種のものではないように思われ。鼻の先端がとんがってて、鼻腔は小さくないわりに小鼻は小さめ。ほうれい線が視えないし、唇は東洋人のように薄かった。絵に描いたような美少女顔とはこういうことかもしれない。いつだったか、佳純が観たいと行って無理やり付き合わされた人形展で、この系統の顔のフランス人形を見たことがあった。目が大きくて口が小さい。宇宙人のイメージ画に近い独特の顔。あれに近い。
だが、実際によくみれば目がデカいというのは気のせいだったようだ。あみの場合、瞳が通常よりも大きめではあるが、目そのものは大した違いはない。刑事や探偵は人探しを得意とする以上、人相や顔の特徴はしっかりと記憶する。目頭や瞳そのものの特徴を覚えれば、すれ違っても整形手術をしていたとしてもすぐに気付くことが出来るからだ。
「お前に手伝える仕事だったら、頼むかも」
「いいよ。私も大分暇持て余してるし、ずっと電話番って正直キツイんだよね」
あみはしゃべるようになると、自然な若者らしい言葉を使っていた。記憶がないというが、それ以前はもしかしたらちゃんと人間らしい暮らしをしていたのかもしれない。その証拠に学校でどんな勉強をするのか知っていたし、小学生レベルの漢字は理解していた。
「じゃあ、働いてもらうか」
俺のジョークにあみは肩をすくめた。
「おっさん、過保護だから。電話番と猫探し以外の仕事なんて、本当にくれる気あるの?」
「その”おっさん”やめてくれたら、ちゃんと依頼する」
あみはハハッと短く笑ってから、「じゃ、啓介って呼捨てても良い」と聞いてきた。二十一歳も年下の娘に呼捨てか。悪くない。
「おう、いいぞ。もう二度と俺のこと”おっさん”と呼ばないならなんだって良い。冗談抜きで」
「わかったよ。そんなに嫌だったなら、もっと早く言ってくれたら良かったのに」
あみはそう言いながら皿とマグカップを台所に運んで食器を洗い始めた。
新聞に目を通し地元で事件が起きたものを一応覚えておく。今までも何度か、一見関係の無さそうな事件が繋がっていたことがあったりもして、俺の脳みそが対応できるボリュームであらゆる物騒な事件や不可解なものまでを記憶し、メモを取り、日誌に貼っている。新聞においては、スクラップしていた。俺がオレンジの蛍光ペンで縁取りをした場所を、あみがハサミで切ってスクラップ帳に貼っておいてくれるおかげで、あみも事件に興味を持つようになっているのだろう。彼女に質問されて、答えられる範囲のことや推測できている事をかいつまんで説明してやると、あみの目はなぜかキラキラと輝いた。これは本当にそのうち良い助手になってくれるのかもしれない。
今朝のニュースは山菜取りに行った夫婦が行方不明というものと、深夜帰宅していた女性がひき逃げされたというもの、コンビニ強盗。あと、不審火による火事が二軒近くで起きたというものがあった。俺は山菜取りの夫婦の件を縁取りした。
事務所の応接セット脇の俺の机には、固定式のパソコンがある。一応、簡易式のホームページを開設してあるから、仕事の相談依頼メールが届くようになっている。一日に数回、これをチェックして来社日程を組み詳細を聞いて、見積書を提示するのが受付の流れだ。これも最近はあみが手伝ってくれるようになり、見落としは少なくなっている。余程の急ぎでじゃなければ、一日に二人まで受付けていた。浮気調査はあまりやらないが、たまに行方不明者追跡依頼の延長線上に浮気がある。口コミで勘違いしたヤツが問い合わせを入れてくることもごくたまにあった。それを差し支えない程度の断り文句で追い払う術も、いつの間にかあみは修得していた。俺の仕事をよく見ているのだろう。ファックスで相談依頼なんてのもよくあったが、あみが折り返し電話をいれてざっくり依頼内容を聞き取り、俺に後で連絡させるルーティンも出来ている。
「新聞に載らない事件てどれぐらいある?」
突然、背後からそんな質問が飛んできて、俺は作業を止めて振り返った。応接セットに座ったあみが俺を見上げて首を傾げる。この子のこの仕草は猫を連想する。
「事件にもよるな。警察は公式発表しない事件とか、そんなしょっちゅうじゃねぇし」
「なんで公式発表しないの?」
「捜査中の事件で、容疑者しか知りえないことを報道しちまったら色々面倒だからさ」
「面倒なヤツが沸いてくるから?」
「ま、そういうことだ」
「面白がったり、自分が容疑者だって嘘吐いて目立とうとしたりするバカは、何が目的なの?」
「暇つぶしだろ。それに、人間てのは自己顕示欲があるせいで、時々間違った方向に自己顕示したくなっちまうのもいるんだろ。常識を逸脱した言動をして、周りの人々を引っ掻き回して、そいつらよりも自分の方が頭が良いって自己満足するバカは一定数いるもんだ。そんなのにいちいち構ってられねぇし、貴重な情報を混乱させられなからな」
「混乱て、証拠や証人になりそうな目撃者を消すとか?」
「そうだ」
「ふうん」
あみはマグカップの中のミルクを飲みながら、視線を窓の外に移した。
今、手掛けている捜査中のものの中で最も不可解なのは、おまえだ。と、俺は心の中だけでつぶやいた。
*
「最近、どうして泊まっていかないのかわかっちゃった」
テラス席の傘の下で、ダークスーツに身を包んだ女刑事はため息を吐いた。長い髪を後ろに束ね、清潔感のあるメイクをした村本佳純は今年三十歳になる。抱き合うたびに「結婚しよ?」と言われているが、俺の中では今のところ結婚はなしだった。
「事務員雇ったんだ」
「だから、何度も説明してるがあいつは娘だ。言っただろ?」
「向かいのパン屋から見たけど、れっきとした女じゃない。そのうち私みたいになるわよ、きっと」
不貞腐れた顔をして、ブラック珈琲を飲む。凛々しい眉毛が苦悶の表情を演出する。不機嫌の象徴だ。
「歳が離れすぎてるし、俺から見ればガキなんだからもう良いだろ? しつこいといい加減うんざりだ」
「いやん!」と佳純は小さめに叫んだ。
周囲の人々に視線は来ない。俺はため息を吐く。
「怒らないで。私も、もう言わないから。ごめんなさい」
気の強い女が素直に謝ってくるのは気分が良い。俺の佳純の目を見て「俺こそごめん」と謝った。
「で、あの子に繋がる情報はつかめなかったけど。この写真の傷、本当なら生きてるのが奇跡だって言われたわ。彼女、本当に人間なの?」
「人間だよ。俺と同じもの食ってるし、勤勉だし、知性も備えてる。もう一年もしたら立派な助手になってる気がしてる」
「私、警察やめちゃおうかなぁ」
「なんで?」
「んもう! 女心全然わかってない!」
三十路女が頬を膨らませて拗ねるのを、苦笑いで見つめた。普段の彼女を知る同僚は知らない素の表情だ。
「……欲求不満か?」
「その言い方も、むかつく」
「わかった。あみときちんと引き合わせるよ。お前にもちゃんと娘のこと理解して貰いたいんだ」
「なんで相談もなく、養子縁組まで決めちゃったの? 結婚したら、子供五人ぐらい産んであげるのに」
さらりとそんなことを言う。俺の煮え切らない態度のせいで、佳純はどんどん自分から俺との距離を詰めようとしてくるようだった。
「別れた妻が失踪する前に俺に言ったんだ。”あなたの子供を堕胎しました。相談もなく勝手なことをしてごめんなさい”って」
「……えぇ?」
佳純の顔色がさぁっと青くなった。
「初めて聞いたわ。そんなことがあったなんて…」
「…その子がもし産まれてきてくれていたら、ちょうどあみと同じ年なんだよ」
「………」
佳純は唇を噛んで、俺の手を握り絞めてきた。女の割にでかい彼女の手は温かくて気持ちがいい。俺が佳純の体のパーツで最も魅力を感じるこの手の感触に、いつも励まして貰っているのだと、ふと気付いた。
「……でも、それでもやっぱり。私、あなたの子供を産みたい」
逆プロポーズだ。そんな話をするつもりなんて無かったのに、俺は何て答えるべきかわからない。でも、そこまでこんな俺に惚れ込んでくれているのだと思うと、可愛くて仕方がない。
「愛の告白をありがとう。その話をするのは今じゃない。わかるだろ?」
「じゃ、いつする?」
真昼間のカフェには、沢山の客が珈琲休憩にやってきていた。狭く並んだ室内席よりも、寒くても屋外のデッキテラスの方が何かと都合がいい。まず、佳純は刑事だ。呼び出しの電話がなれば直ぐに行かねばならない。二つ目は、俺たちの意味不明な会話を聞かれる心配が薄くなることにある。室内だと声を拾われやすいからな。冷え込みのきつい季節は外を、夏のうだるような暑い日は中の最奥の席を選ぶ。
飲み干して軽くなった紙カップを佳純に見せた。
「珈琲おかわりするけど、お前もする?」
「はぐらかさないで。私、来月で三十歳になるのよ! 女には子供を産むリミットがあるんだから! 真剣に考えてくれないって言うなら、お見合いしちゃうからね!」
俺はもう笑うしかなかった。佳純があんまり真剣に訴えてくるから、くすぐったくて幸せで、全部投げ出してどこかにしけこんで気のすむまで抱き合いたくてしょうがなくなる。でも、やっぱりそれは今じゃない。
「わかったよ。じゃ、こうしようぜ。君の誕生日までには返事をするから」
「…良い返事なんでしょうね?」
「ふっ、勘弁してくれよ。お楽しみは取っておいてくれよ、な? ちゃんとセッティングするし、驚かせてやるから」なんてこと言って、自分の首を絞めた。彼女はやっと納得したみたいで、俺の手を持ち上げて指にキスをした。どっちが男かわからないよ、まったく。
「ところで話は変わるけど、昨日の夕方また例の遺体が発見されたらしいわ」
「どこで?」
「夕張市の廃墟の中」
「二人か?」
「三人よ」
年に三度は不可解な遺体が発見されるようになってから、もう十六年にもなるのに、この一連の事件の捜査はずっと座礁の乗り上げていた。被害者は首と内臓をごっそりと取られ、血の一滴までも綺麗に抜かれていて、両手を空っぽになった胸骨の上で組まれていた。時には花を持たされたり、帽子を重ねられたりしている。死者への礼儀と敬意さえ感じられる。だが、猟奇殺人には違いなかった。そして必ず二つから三つの遺体が仲良く並んでいる状態で発見される。生前の二人には関係性があったりなかったりしていて、年齢も性別も職業もバラバラ。人里同士をつなぐ無人エリアの途中で行方不明になることが多く、宇宙人に誘拐されたと騒ぐ奴も当然いた。
俺はこの不可解な事件に因縁がある。警察官になってすぐに経験したのが、この異様な死体遺棄事件だったのだ。
「どうだった?」
「前回と同様の状態だったらしいわ」
「変わったことは?」
「まだ調べてるから、なんとも言えないわね。廃墟は立ち入り禁止だけど、マニアやオカルトファンが探検する場所になってて、大量のDNAが採取できちゃって逆に絞り込めないみたい。野良猫も多いから、遺体発見時は結構荒れていたみたいだし」
「犯人はそれが狙いかな?」
「かもね。前回も廃病院だったし、その前は林道脇の小屋の中や、潰れたドライブインの屋内だった。遺体を雨風が当たらない場所に必ず放置してる。でも遺体を運ぶには適さない場所だった。出入口は人ひとりやっと通れるかどうかだったりで…」
「切り口は?」
「同じよ。刃物よりも鋭くメスよりも目が粗いものでスパッと綺麗に首を切断している」
俺はいくつかの遺体をこの目で見たことがあるせいで、わりとはっきりと想像できた。
「どうしてニュースにならないのかって、遺族からのクレーム処理が大変なのよ。顔がないと個人を特定するのもかなり大変なのに、せっかく遺族のもとに帰せても納得いかないと食い下がられたんじゃ堪らないわ」
「…どんな事件でも被害者側に立てば、納得なんてできねぇ」
俺は煙草に火をつけて、遠くに煙を吐き出した。
「今回もめぼしい証拠が出なければ、未解決事件に直行よ。新聞にも報道にも載らないまま葬られてしまう」
もしも、今回の三人の被害者が一連の事件との関連性を立証されると、十六年間で百六十五人の被害者というあり得ない数字になってくる。警察も政府も地元市民の安全のため混乱を避ける理由でずっと伏せている事件だ。警察内部でも詳細を知る者はごく最小限にされ、触れてはいけないパンドラの箱に納められている。