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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第二章 パンドラの箱
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パンドラの箱 1 【啓介】

ここから、(旧あなとな)と大きく変わっていくところです。




 あれは一体、なんだ?


 それが、あみを見つけた最初の感想だ。ガリガリに痩せた少女は、たった一枚のシャツだけを身に付けて座り込んでいた。近付くと、首と目だけを動かして俺を見た。焦点の合わない瞳は濁り切っていて、まるで死人のようだった。


     *


 その日、空には落ちそうなほど重たげな雲が広がっていた。夏の終わりの、寂れた街外れの国道沿いを歩いていた。緩い傾斜がかった歩道をジョギングするペースで走りながら、寅助という猫の名前を叫ぶ。それが、本日俺に課せられた任務ミッションだから。


 本来ならば人探しをするところを、この時はわけあって猫探しをしていた。建設業社長の依頼主が、資材置き場で車から逃げ出した飼い猫を探して欲しいと泣きついてきたからだ。この猫は以前も自宅から逃亡していて、その時も俺が見つけてやった。猫は縄張り意識の強い動物ということで、あまり遠くへは移動しないものらしい。動物病院を開業する友人から猫の生態をレクチャーされた俺は、野良猫を見つけるたびに地図に書き込んで、寅助が潜伏している範囲を的確に絞り込んでいった。そして案の定、自宅の二軒隣の廃屋の中で発見したのだった。でも、今回ばかりは勝手が違い過ぎる。ここは野生の熊が出て来ても不思議じゃない広大な森で、人里離れた寂しい場所なのだ。飼い猫が迷子になるには、あまりにも過酷な環境だと言える。


 無闇やたらに森へと入れば、俺まで迷子になりかねない。原始の頃を彷彿とさせる巨大なハルニレの樹やポプラの大樹と、あらゆる針葉樹が混在する自然豊かな環境で、俺は半ばやけっぱちになっていたわけだが、子供に恵まれない夫婦の可愛い愛猫ちゃんを見捨てるわけにも行かず、気を取り直して捜査に集中する。資材置き場から二キロ程のところに、車両も入らないような細道を発見した。振り返った風景を携帯端末の画像記録に納めてから、慎重に踏み込むことにする。人間の映像記憶力は当てにならない。万が一迷った時に、並ぶ木々の画像と見比べることができれば、迂闊に道を踏み外したりはしない。


 森の中に入ると、たちまち暗くなった。光を遮る樹々の梢が見事に空を覆い隠していた。人の手が入っていないことは一目瞭然だ。でも、足場を良く見るとバイクが往来しているような一本のわだちであることに、俺は淡い期待を持った。なぜなら猫は寒さに弱い。バイクとはいえ人が行き来しているということは、この先に民家があるのかもしれない。札幌市街地で生まれ育った俺には、この森は正直かなり怖かった。でも、一度引き受けた仕事をないがしろにはできない。ポケットの地図に印を入れて俺は突き進んで行く。


 しばらく行くと少し開けた場所に出た。そして思った通り、そこには一軒家と、車庫らしきトタンに覆われた古い木造倉庫が並んでいた。ただし、雑草に飲み込まれている様子から今現在人が住んでいないのは明白だ。それにしても、轍には草一本も生えていないのだから、頻繁に誰かがここへ来ていることは間違いない、と思いたい。


 玄関の前の草だけは刈られたような跡が見受けられた。すぐ脇にある蛇口から水滴がしたたり落ちそうに膨らんで、ぶら下がっている。ぐるりと家の周りを一周してみたが、建物の痛み具合からしてもう何年も前に廃屋になっている雰囲気がある。どこかから猫が入り込める穴が開いていないかと身を低くして観察した、その時。とある匂いが鼻をついた。一瞬の異臭だったが、獣の匂いだ。


 俺は嗅覚に意識を集中して、入り口を探り当てた。裏口らしきドアが薄く開いているのだ。そっと引っ張ると、難無くドアが開いた。家の中はがらんとしていた。


 仕事柄、孤独死の現場にも入ったこともある。人間の体臭というのは、獣のものとそう変わりないことを俺は経験上心得ているつもりだ。つまり、この家には今も人がいる。直観的に、そう判断した。


 俺は一度依頼人に電話をかけて、留守番電話に伝言を残した。万が一のことがあっても良いようにと。同時に、そうならないことを願いながら。


 勝手口らしき入り口は台所だったが、もぬけの殻という印象だ。古い家具に家電はあれど、食器や調理器具の類はほぼない。あるのは薄汚れたマグカップひとつと、そこに銀色のスプーンがひとつ。底には茶色い染みが円を描いている。珈琲を飲んだ形跡のように思われる。


「すいませーん! 誰かいますか?」


 俺は声を張り上げた。返事はない。だが、ふと何か生き物の気配を感じた。気になる方へと進むと、チリンという鈴の音が聞こえる。駆け寄ると身を低くした毛むくじゃらの白い猫が、俺を睨んでいた。


「寅助!」


 俺が呼ぶと、奴はにゃあとひと鳴きした。そして、背中を向けてスルスルと階段を上って二階の奥へと消えて行った。しょうがない、行くしかあるまい。


 廃墟探索は正直嫌いだ。仕事じゃなかったら絶対に踏み込むもんか。それでも、刑事時代の俺は怖いもの知らずであらゆる場所に足を踏み入れていた。その先に何があるのかも知らないから、無謀なことが出来たのだ。単純に若かったとも言える。


 階段だけ埃が溜まっていない気がした。妙だな、と思う。綿埃が隅っこで丸くなっている。振り返っても正面玄関はなぜかソファーが置かれていた。バリケードみたいに。悪い予感らしきものが、胸の中にわだかまる。


 さっさと寅助を連れて帰ろう、と思った。その時、ヒソヒソと誰かの声が聞こえた。俺はギクリと身を強張らせながらも、耳を澄ませた。チリンという寅助の鈴がまた聞こえた。あいつが逃げ出さない相手なら、凶悪犯が潜伏しているわけでもないのかもしれない。そんなバカなことを考えながら階段を上がっていく。剣道四段の俺は丸腰では大して強くはない。鈍り切った身体が頼りなくて、心が委縮していた。問題の部屋から寅助が顔を出し、俺を待っていたかのように顔を引っ込めた。


 勇気を振り絞って部屋を伺うと、信じられないものを見た。ガリガリにやせ細った人間の子供だ。寅助は子供に寄り添って寝転がっていた。ゴロゴロと甘えるように喉を鳴らしているが、子供は人形のように動かない。


「……あ」


 俺の声に反応した子供は、ゆっくりと振り返った。灰色の瞳の中に黒い星がギラギラと輝いている。どうして、こんなところに一人で?


「……おまえ、一人なのか?」


 少女とおぼしき子供は、死人のように虚ろな表情を変えることもなく黙っていた。寅助が忙しなくにゃあにゃあと鳴いて、彼女に身体を擦り付けているのを、しばらく茫然と眺めている俺だった。


     *

 

 焼き立てのパンの匂いに誘われて腹の虫が鳴けば、のろのろとベッドの中で身じろぎをして、薄目を開けて朝日を確認。小鳥のさえずり、道路を走る車のエンジン音、そして本棚の向こう側で寝ているお転婆娘が起床する気配がし始めたら、いよいよ覚悟を決めて体を起こす。ベッドマッドの相性が悪いのか、最近は寝起きはいつも背中が少しだけ痛い。


 固い床に敷いたラグの上で屈伸運動をして、全身の筋肉のこわばりを取る所から俺の一日は始まる。その頃から、娘が淹れてくれたドリップ珈琲の香りが部屋中に漂い始め、人の気配があることに何とも言えない安らぎを覚えた。長い間、ずっと一人もんだったせいで、こんなありふれた日常が堪らなく幸せに感じられる。


 暖簾のれんをくぐりダイニングテーブルに座ると、あみが俺専用マグカップに淹れたての珈琲を注ぎ、コトンと音を立ててテーブルに置く。同時に「おはよう、おっさん」と憎たらしい口を利くのにも、もう慣れてしまった。苦笑いしか出ないが、照れ隠しなのだろうと思って温かく見守ることに決めている。出来るなら、おっさんではなく「お父さん」か「パパ」と呼んで欲しいものだが…。


「あみ、新聞はもう取ってきたか?」


「いや。今朝はまだ下に降りてない」


「じゃ、俺がパン買ってくるわ」


「うん。クロワッサン三個よろしく」


 あみはクロワッサンしか食べない。言われなくても、わかっている。だけど、よろしくと言って首を傾げる仕草がとても可愛い。毎回、見られるわけじゃないが今朝は見られたのでよしとする。



 俺と娘のあみは親子であって親子ではない。彼女は養子縁組をして俺の養女となった他人だ。拾ってきたばかりの頃はボーっとしているか、チョコンと座ってるだけで、こっちが口まで食べ物を運んでやらないと一人でまともに食うこともできないぐらい、弱っていた。でも、まともな食事と寝床を与えると、わずか三か月で見違えるほど健康的に変わっていった。人間の衣食住は本当に大事なんだな、と彼女に教えられた気分だ。


 俺が自ら髪を切り、美容室で買ったトリートメントは魔法さながらに良く効いて、艶々とした黒髪はもう肩まで伸びている。うちに来た頃、黒か灰色かわからないような不思議な色をした髪は、櫛なんか通したこともないぐらいごわごわと絡まり、使い古した小金たわしみたいに爆発していたが、一旦諦めてかなり短く切ったら、たった一年でここまで綺麗に伸びてくれたもんだ。


 あみがとても賢い子だと気付いたのは、半年経とうとしていた時だ。例によって猫探しを依頼してきた恩人の橋下虎太郎という爺さんが宣伝してくれたお陰で、人探し専門の探偵事務所だってのに、猫探しの依頼ばかりが増えた。すると、あみが半日で三匹もの猫を発見し連れて帰って来たのだ。頼んでもないのに、俺の仕事を手伝おうと思ってくれたことがまず一番に嬉しくて、俺の心は久しぶりに空高く舞い上がった。


 それから、二番目にはただただ驚愕した。猫たちは異常なほどあみに懐いていたのだ。そして更に驚かされたのは、あみが発見してきた猫のどれもが家出癖を改め、必ず家に帰ってくるようになったということだった。まるで、猫使いのような特殊な才能に笑いが止まらなかった。あみ自身がまるで猫みたいなんだから、納得という言葉しか最早思いつかない。


 かくして俺の商売は、あみの猫探しという特技のおかげで評判になり、毎月々の安定収入が増えている。俺はその金を、あみ名義の貯金に回している。それに、ちゃんとした教育も受けさせたいと考え、本人の意思を尊重して現在は家庭学習というスタイルで教師に通ってきて貰っている。


 あみは人が多い場所に行くのを極度に嫌うから、事務所の隅っこに置いてある俺の机で勉強をする。これがなかなかの勤勉家で、教師が関心していた。当初、文字の読み書きさえ出来なかったのだが、今では電話番をしてメモを取ることもできる。たった一年で、遅れていた時間を取り戻すように、貪欲にあらゆることを吸収していく。



 階段を降り、ビルの外に出ると日差しが降り注いできた。パン屋の迎えに住んでいると、朝から焼き立てパンにありつける。交通量を見計らって信号のない道を渡り、俺はいつものパンをトレイに並べた。店の窓越しに自分の自宅兼事務所を見上げると、あみが窓ガラスを拭いている姿が見えた。遠くから見る限り、彼女はそこらへんにいる普通の十代の少女だ。なかなか良い風景だな、と思う。


 記憶が曖昧で、餓死寸前で、どうやって生きてきたのか謎だらけの彼女を調べても調べても該当者が見つからなかった。元刑事という伝手つてを利用して、行方不明リストに特徴が一致する少女や、彼女が唯一覚えている母親らしき人物像の顔起こしまでしてもらっても、まったく引っ掛かりもしなかった。そこで俺はアプローチを変えることにした。


 俺には今、付き合っている女がいる。彼女は現役の刑事で、俺の元相棒だった。仕事が忙しくてなかなか会えないが、それでも俺達は長い事うまく付き合ってきた。身体が空いた時だけ、うちに寝泊まりに来る気まぐれな彼女に捜査をお願いをしようと企んでいたが、なぜかタイミング悪く彼女の仕事が多忙になったせいで、まともに話もできやしない。でも他に頼める人もいないのだから、待つしかない。


 待っている間、手をこまねいてばかりもいられない。廃墟から少女を拾ってきてまずやったことは、風呂に入れることだった。


 バスタブに湯を張り、でかいシャツ一枚だけの衣類を脱がすと、パンツも履いてなかったのには驚いた。そして、湯はすぐに汚れて濁った。構わず俺は、少女をヘチマとボディソープで全身しっかり洗った。その時、体の上下をぶったぎって繋がったような恐ろしいほど大きな傷を見つけ、凍りついた。それはまさに、生死に関わったであろう大怪我の名残だった。これほどの怪我をしたのなら、カルテや新聞記事に彼女につながるものが記載されているはずだ。


 俺はメディカルチェックの際に撮影した彼女の傷写真を持って、様々な病院に問い合わせをかけて回った。探偵業も刑事もやることは大して変わらない。地道な聞き込みに勝る情報収集はない。こちらの質問さえミスらなければ、いずれ答えに辿り着く。


 健康診断を下してくれた懇意にしている医者は「こんな傷なかなかお目に掛かれませんね。明らかに上半身と下半身が、この骨盤の辺りで千切れた痕みたいですね」と不気味なことを抜かしやがった。当たり前だが、あみはゾンビではない。


 震える彼女をしばらく抱き締めて寝付くまでの間添い寝してやったが、彼女は紛れもなく人間だった。そんな特殊な傷の手当をした病院でもないものかと、片っ端から外科医のいる大小の病院に聞き込みしたがふざけていると誤解されてしまう始末だ。結局、自力での捜査が座礁して、俺は改めて村本佳純に相談することにした。


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