出会う意味 4 【智樹】
屋上に上がって晴れた空を仰ぎ見る。地上ではどんな悲劇な繰り返されても、青い空は果てしなく澄んでいて、綺麗だ。
―――悔しいけど、忘れてくれた方が良い。滅茶苦茶、悔しいけど!
―――くそっ!!
声を出さないように、俺は大きな口を開け、叫んだ。
むしゃくしゃし過ぎて、頭が破裂しそうだ。
息の仕方もわからなくなって、気が遠くなりかけたとき。
「おっとぉ」と、俺の背中から腕を回してくるヤツがいた。
呑気な、だけど可愛らしい声で、「ひっくり返ったら頭打って死んじゃうよ」と言われた。俺よりずっと背が低いのに、彼女は俺を背後から支えている。
「辛そうなあんたを、やっぱり放っておけなくて…」
あみは俺の腰に腕を回し、あろうことが軽々と持ち上げた。そして、ベンチまで連れていかれて、そこに座らされた。小さい頃母親に抱っこされて以来の出来事に、俺の頭の中では花火が打ち上がっているぐらいの強い衝撃を受けていた。
呆然としている俺の顎を掴んだあみは、顔を近づけてくると、フッと俺の前髪を息で持ち上げた。ミントの香りがする。
「苦しそうだな。マウストゥマウス、してやろうか?」
俺は自分から彼女の首に手を回して引き寄せた。そして、キスをした。
唇同志が重なった途端に、懐かしい気持ちになる。
あみは俺の両頬を手でしっかりと包み込んで、丁寧に舌を入れてきた。思いがけない彼女の熱い口づけに、溺れていく。目を閉じて、昨夜の不思議な出会いが脳裏を過る。
ショッキングなことが重なり過ぎて、俺はどんな気持ちであみとキスしているのかわからなかった。
まるで、遠い昔の恋人が戻ってきてくれたような気分で、甘いキスを交わしている…。
それから俺は、あみを当たり前のように抱き絞めていた。腕の中に閉じ込めて、きつく彼女の体を締め上げる。このまま永遠に抱きしめて離したくないぐらい愛しくなって、無我夢中だった。「…苦しい」と苦言が聞こえても、この手を緩めたくはなかった。だけど、「智樹…、やめて、本当に痛い」と、初めて聞く可愛らしい懇願に、俺は我に返った。
「あみ」
弾かれたように、彼女を解放すると。
あみは俺の目を覗き込んでから、嬉しそうに笑った。その笑顔が可愛くて胸が締め付けられる。「まだ苦しそうだな」と、あみは憐れむ。
苦しい。
俺は守るって約束してたのに出来なかった。
約束したのに。
守れない約束なんか、するもんじゃない。
誰にも助けて貰えなかった翔子の気持ちを想像するだけで、バラバラになるまで打ちのめされたっておかしくない程の、最低最悪な気分だ。
―――――最低だ、最低だ、最低だ―――――
「そんなに自分を虐めても、取り返しはつかない。だからって、その苦しさから目を反らしたところで、何度も突き付けられるんだ。あんたの妹はまだ生きているんだ。生きる力を与えてやれるのは、家族の役目だろ?」
あみは総てを悟ったような落ち着いた声で俺に言い聞かせてきた。なんで、そんなに若い癖に……。
「泣いてしまえば楽になるかもよ」
座り込んだ俺に目線を合わせるように、再び顔を近づけてきて瞼にキスをされる。
爬虫類のような冷たい言葉や態度とは裏腹に、あみの唇は熱くて、まるで俺の詰まった感情を解きほぐすように触れてくる。
「ほら、今だけなら泣いても良い。自分の弱さを嘆きなよ。私以外は誰もいないんだから…」
俺は彼女にしがみついた。喉の奥で引っかかっていたものが外れたように、雄たけびになったそれは、一気に溢れ出した。
人前で嗚咽を上げながら泣くなんて、もしかすると人生で初めてかもしれない。小さい頃、「男なら泣くな!」と、母さんに言われてから、ずっと一度も泣いたことがない。男は人前で泣くものじゃないと思って生きてきた。母さんが死んだ日も、妹が幼過ぎて手を焼いた時も、父さんが仕事を辞めるか辞めないかで揉めた時も、どんなに不安でも、俺はずっと耐えてきたのに。俺の忍耐力なんて、この程度のものだったんだ。
色んな感情が混ざり過ぎて、自分がどうしてこんなにも泣いているのか、わけがわからない。
わからない。わからない。わからない……
惨めだけど、気持ちが良い。
―――全部。我慢してきたものぜんぶ、ぶちまけたからだろうか?
全力で叫びながら泣いたからか、非常に疲れて脱力した。
汗ばんだ俺の首を冷たい彼女の指が這う。
鎖骨から肩、腕へとその指先が伸びていく。
まだ名前ぐらいしか知らない謎の少女が、俺の痛みどころを的確に探り当てていくから、ゾクゾクする。
大昔の古傷をそっと撫でられながら、母さんのことを思い出した。俺が十一歳の時に突然死んだ。その直前まで、母さんは笑顔で俺を包み込んでくれていた。
心停止。不可解な死。
どうして、自分の人生にはこうした理不尽な出来事ばかりが降りかかるのだろう?
小一時間を超えながらもあみは俺の髪を撫でたり、背中をさすったり、時には涙を拭いてなにか声をかけてくれたり、まるで母親のように優しかった。
「ほら、智樹。そろそろ立ち直ってきて、しっかり頭切り替えなよ。翔子のところにまだ行ってあげてないんでしょ? 記憶がなくたって自分の身体に刻まれた苦痛や屈辱は簡単には忘れさせてくれないんだからさ。支えてあげてよ、お兄さん」
あみの言葉には説得力があった。俺は身体を起こして涙を拭いた。わざと目を反らして待っていてくれているあみの優しさに甘えて、俺はいつもの自分に戻っていく。
「…ありがとう。大分、塞いでた気分を吐き出せてすっきりできたと思う」
「そうみたいだな。顔色が良くなってる」
よく見ると、あみはヨレヨレで襟が擦り切れたTシャツを着ていた。薄いパーカーだけじゃ、寒そうに見える。それにさっき抱き着いて感じたが、見た目以上に痩せすぎている気がした。
「昨日も今日も助けて貰ってばかりだから、しばらくうちで飯食う? そんなことぐらいしかお礼ができないから…」
「考えとく」と、そっけない言い方をしたあみは微かに微笑んでいた。
「じゃ、またね」
あみはまた、さっさと行ってしまった。
突然、やってきてすぐに消える不思議な少女に、俺は確実に惹かれている。また来てくれることを願って、彼女の消えた屋上のドアをしばらく呆然と眺めた。
病室をそっと覗くと、翔子は点滴をつけられて頭や首、手首には包帯が巻かれていた。ショックが強すぎて一時的に記憶がなくなることはよくあるらしい。今は眠っている様子だった。
どんな状況で拉致られて、どんだけ長い時間酷いことをされたのかと思ったら、辛すぎる。想像しただけでもうこんなに辛いのに。妹は一生、この忌まわしい出来事を背負って生きていかなきゃならないんだ。そう思ったら、二度と思い出さない方が良いのにと本気で願ってしまう。
男の俺が近付いても良いのだろうか?
兄貴とはいえ、俺は加害者連中と大して年は変わらない。
「永島さん?」と、背後から声をかけられて振り向くと、年配の看護師さんが立っていた。
「先生の説明、聞いて欲しいんですが。親御さんは?」
「父は海外赴任中で…。母は七年前に亡くなっています。あいつの家族は俺だけです」
案内された個室に入ると、大分待たされてからやっと現れた医者は女性だった。三十代後半から四十代に入るぐらいの美人だ。綺麗に切りそろえられた髪が艶やかに光って、耳にかける仕草が色っぽい。白衣を羽織っただけの服装で、白衣の下は膝上程度のタイトスカートに胸元が広めの淡い色のブラウスを着ていた。つまり、全然医者っぽくない。
「永島さん、初めまして。翔子さんの担当医になりました、わたくし、斉藤と申します」
ニュースキャスターみたいな喋り方。化粧ばっちりで、うっすらと香料の香りが鼻を突いた。
「もう、お会いになりました?」
「……いえ」
「そうですか。先に説明しておきますが、翔子さんは記憶がないようです。自分がどうして病院で手当てを受けているのか、何のための薬を飲んでいるのか、わかっていませんでした。メンタルの負担が計り知れないので、事実を伏せていった方がご本人にとって一番良いと判断します。精神科の先生が後程様子を見に来て下さいますが、外傷について説明しておきますね」
「その前に、先ほど下で刑事さんに会いました。もう翔子には会っているんですよね?」
「ええ、そうみたいですね。看護師から聞きました…。刑事さんは事故に巻き込まれたとおっしゃったそうで、翔子さんはそれを信じたようですね。でも、それだと後々嘘だったと気付いてしまうでしょうね…」
女医は同情気味に眉間にしわを寄せて、静かに言った。
それから聞かされた説明は、やはり十六歳の妹にそのまま伝えるのにはかなり抵抗のある内容だった。でも、いつかは話さなければいけない。そう思ったら、胸が張り裂けそうに苦しい。
「顔色、かなり悪くなってますよ。あなたの心労も心配ね…。カウンセリング受けますか?」
「いや、俺は良いです。妹のケアをお願いします」
「公では案内できないんですが、翔子さんと同じ被害に遭われているご本人やご家族が被害の相談をするコミュニティがあるんですよ。後で看護師からパンフレットをお渡ししますね。同じ辛さを理解してくれる人に話を聞いてもらうだけでも気持ちは癒せます…。
命が助かっただけでも良しとしろ、って言うほど単純なことじゃないことぐらいは、わかるつもりなので…。もし、何か私に出来ることがあれば力になりたいと思いますので、言って下さいね」
「ありがとうございます」
まだ未熟な身体に相当以上の負担がかかったから、将来普通に妊娠出産ができるかどうかわからない、と言われてしまった。あいつがそんな苦労を背負わなきゃならないなんて…。
「…クッソ…」
性犯罪なんて、起こすバカなんて、この世から一掃してしまいたい。
許せない。許せない。許せない!!
俺は一人きりになった個室の机に額を擦り付けて、一生懸命に頭を冷やした。
病院を出てると、ロータリーの隅っこに設置されているバス停のベンチにあみが座っていた。周りは総てモノクロームに包まれているのに、彼女の周りだけが色鮮やかに見える。こっちを見ていないのに、彼女は俺の存在に気付いているのは確かだ。
俺を待ってくれていたのだろうか?
近付くと、立ち上がって俺の方を向いた。「待ってたよ」と言って、あみは笑った。
バスに揺られて着いた場所。そこは、昨夜のあの土手の近く。俺達はどちらからともなく歩き始めた。
俺のすぐ前を歩くあみの細い足首を見詰める。靴下を履かずに、スニーカーを履いているようだ。七分丈のジーンズは夏物だろうか。ペラペラと薄い生地にも思える。それでいて、汗臭さを感じさせないのだから、どんな暮らしをしているのだろう?
「古着を買っているんだ。安いしくたびれた感じが肌に心地いいから」
まるで俺の心を読んだみたいに、答えてくれる。昨夜の現場に到着すると、あみは対岸に指をさして行った。
「私、あっち側に居たんだ。丁度風下になってて、変な声が聞こえてきてさ。だから、川を渡るためにあの橋を通ろうとしたんだけど、あの子が今にも死んじゃいそうな予感がして。ショートカットになるかなって思って川に飛び込もうと考えて、躊躇ってたらあんたが後ろからすごい剣幕で来たから、飛び降りれたんだよね」
「………」
「ここの川、結構深いのは知ってたんだ。前に一度落ちているから」
「………」
「でも、ちょっとでもズレて浅いところに落ちたら、骨折ってもおかしくなかったと思うよ。まさか、あんたまで飛び降りるなんて直前まで思わなかったけど。飛び出したのが見えて、咄嗟にあんたを掴まえたんだ。溺れるところを助けられて良かったよ」
「………」
「って、いつまで私にだけ喋らせておくつもり?」
あみは俺の顔を覗き込むようにして、見上げてきた。
俺は反射的に下手な笑顔を浮かべた。見苦しいはずの顔を見て、あみは満足げに目を細めた。
「空、高いよな。どんなことがあったって、空っていつもと変わらないんだよ。そう思わない?」
「……そうだね」
「見上げていると、自然と心も上を向いてくるんだよ……」
語尾が霞んで消えてしまいそうな言い方だ。それはまるで、あみにも同じように辛くてどうしようもない過去があるみたいな気がしてくる。
「……俺達兄妹のことばっかりで、まだあみのこと聞いてないよな」
そう言うと、あみは俺を見て目を丸くしていた。
「聞かせてよ」
「まだ、無理だ」
「まだって?」
「私もさ、翔子と同じなんだ。全部、忘れてるから…」
「……え?」
あみは寂しそうな頼りない笑みを浮かべて、肩をすぼめた。
「長い時間忘れてると、思い出せるのかどうかも怪しくなってくる。一生忘れて生きていけるならそれも良いけど、私の場合そうもいかないみたいだ」
「……どういう意味?」
「知りたい?」
なぜ、俺が質問されているのかわからない。
だけど、知りたいと思ったんだ。
俺は知りたいよ。君の謎、すべてを俺が解きたい。
「智樹は、ほんっとに心の声が全部駄々洩れだな」と言って、あみが笑った。
「そんなに私を知りたいなら、付き合ってくれる?」
「え……?」
「私と付き合ってみる?」
どうして、そんな話になるのか意味がわからないというのに。気持ちは不思議と「付き合いたい」と答えていた。