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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第一章 出会う意味
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出会う意味 3 【智樹】

 水曜日の朝。


 目覚めたら俺はソファーにいた。冷え込みがきつく、かぶるものがなかったせいですっかり冷えている。


 くしゃみしながらストーブに火を入れて、キッチンでお湯を沸かした。時計を見ると、もう九時前になっていた。思い出したように学校に電話をかけて、翔子が怪我をして入院したことを担任に伝えて貰う。さらに、自分も熱があるからと嘘をついた。


 それからリビングの一角にある親父の机に設置されたデスクトップPCから、昨夜の出来事についてのメールを送った。時差はよく知らない。いつかは読むはずだし、村本刑事からも電話するということだった。


 話し相手が居ないというのは、こんな時とても辛い。仏壇の遺影に語り掛けるのも、俺はどうも苦手だった。それでも俺はお袋に謝罪しなければならない。託された大事な妹を危険に晒し、重篤な事態になってしまったのだ。この罪は一生消えないだろう。


 仏壇の前で正座をしてから、ただ重くなった心を抱えて途方に暮れる…。


「…母さん、ご……」


 安易な謝罪をして心が軽くなることに、俺は抵抗ていこうを覚えた。


 遺影の中で微笑むお袋の目を見つめてから、ゆっくりと立ち上がる。とりあえず温かいスープでも飲もう。それから、燃えるゴミを纏めて玄関前に持っていく。すると、俺は玄関を開けて凍り付いた。なぜって、うちの前に昨夜出会った少女が立っていたからだ―――。


「おはよう」


 彼女は、相変わらずクールだった。落ち着いた表情をして、喋り方も大人しい。まるで猫のように足音を立てることなく、歩み寄ってくる。


「気になって様子を見に来た。妹は入院したんだろう?」


 俺は頷いた。でも、刑事達のことを思い出して、慌てて彼女の手首を掴んで家の中に引っ張り込んでしまった。「なに?」と、訝し気に問うものの、振り払われることなく着いてきてくれる。


「刑事が言ってたんだ。…君が、あの男達をあそこまでやってくれたんだろう?」


 彼女は吊り目を細めて少しだけ微笑んだが、何も答えなかった。


 朝日の中で見る彼女は、黒髪で目も普通の黒色に見えた。昨夜とは雰囲気も違っていて、中性的な印象の細身の体に、今日は生地の薄い白シャツの上に前開きの黒いパーカーと、くたびれた細身のジーンズを履いている。ところどころ破けた穴から素肌がむき出しなのにいやらしさがないのは、彼女の雰囲気にしっくりと馴染んでいるせいだろう。地毛とは思えない質感の髪に触れてみたくなったが、まだそんなことが許してもらえる程の仲じゃない、と自分に言い聞かせやめておいた。


 室内の温度が彼女には暑すぎたのか、徐にパーカーを脱いで椅子の背もたれに引っ掛けた。俺はコップに水を入れたものをテーブルに置きながら、細すぎる彼女のラインに神経を尖らせる。異性にこれほど強く反応している自分が信じられない。


 今まで恋人がいなかったわけじゃない。表面的な付き合いしかできない俺に愛想をつかして、大抵は数か月で去っていく程度のものばかりで、ちゃんとした恋愛経験ははっきり言ってない。でも、俺の周りにいる肉食系の友人達には共通して貞操観念が欠けているせいもあって、俺もまた来るもの拒まず去るもの追わず…。セックスなんて挨拶程度のものだと高を括っていた。


 思えばそうした俺のだらしなさが今回の事件を呼び起こしたのかもしれない。翔子が弄ばれたという事実が俺の首を絞めてくるようで、最悪の気分だ。


 そんなことを考えながらも、俺の目はあみの胸を観察している。AかBか際どいサイズのふくらみを見て、彼女が女であることを確認してホッとしている自分がいた。


 「どこ見てんの?」と、勘の良い彼女は苦笑いを浮かべる。


「ありがとう。翔子の敵討ちまでしてくれたんだろ?」


「だから、何のこと?」


「惚けなくても良い。連中、物凄い怪我をしてるらしいから」


 ぴくっと彼女の頬が痙攣するのを、俺は見た。


「…へぇ。そう…。ところで、ずいぶんと広い家だね。ここ、本当に兄妹だけで住んでるの?」


「…どうして、二人だとわかったの?」


「玄関見たらわかるさ。靴も傘も二人分しかない」


 確かにその通りだ。だけど、そんなところを見て家族構成をすぐに把握するなんて、まるで探偵みたいな子だ。


「家事は智樹がやってるんでしょ? すごくきれいに生活してる。尊敬するよ」


 さりげなく、俺の名前を呼ばれてドキリとした。彼女は、あみは俺の名前を憶えてくれたんだ。そんなことぐらいで舞い上がりそうなほど嬉しくなる。


 俺は朝飯を二人分作ることにした。少し待っててと彼女に伝えて、大急ぎで冷蔵庫から朝食セットを取り出して調理を始める。


 朝食は三パターンある。和食だと焼き魚と冷凍しておいたお浸しと、冷ややっこか納豆、味噌汁に白ご飯。洋食だとチーズオムレツとレタスかサラダ菜の添えものの他に、切り込みを入れたウインナー二本。それにヨーグルトにはちみつをたらし、トーストにはバターを塗る。三つ目のは、和洋折衷で、目玉焼きにハムかウインナーを添えて、サラダかお浸しか漬物を出す。白飯かパンはその時の気分で決めたりして、ざっくりとしているがそういうパターンを持って居ると無駄に悩む時間が省略されるし、買い物の時もらくではあった。


 昨日は買い出しに行けなかったからパターン三になった。豆腐も納豆も魚もなければ、サラダになる材料も乏しい。冷凍しておいたほうれん草のストックもひとつしかない。そのほうれん草で味噌汁を作り、目玉焼きとトーストになってしまった。


 「うわぁ、すごい美味しそう」と、あみは大袈裟に喜んだ。


 ちぐはぐのメニューなのに、彼女は実に旨そうにバターを塗ったトーストに目玉焼きを乗せて、大きな口を開けてかぶりついた。男の前なのに豪快に食べる姿を見て、俺は感動していた。自分が作ったものをこれほど美味そうに食べてくれるなんて初めてのことだった。「焼いたパンはうまいな」と、小学生みたいなことをつぶやきながら、彼女は最後まで美味しそうに食べた。


 最近は、口うるさい俺から体を背けて無言で半分も食べない反抗期の妹しか相手にしていなかったから、その差にも驚いたけれど。何と言ってもあみはこちらが目をそらしたくなるほど真っ直ぐに目を見つめてくるのだから、照れくさい。


「ご馳走様でした。本当にとっても美味しかった。また食べさせて?」


 昨夜のつっけんどんな態度からまるで手のひらを返したように人懐っこい笑みで言われる。


 俺はこの時、はっきりと感じた。


 ―――恋に落ちた、と。



 あみは立ち上がり、リビングのソファーやテレビの前を横切って、一番奥にある和室に足を向けた。和室は来客があったときのために作られた部屋で、普段は仏壇に水と白飯を備えるためにしか出入りしない場所だった。彼女がなぜそんなところに行こうと思ったのか、興味が沸いた。


 あみの細いうなじ越しに見えたのは、母さんの遺影と位牌が並んでいる仏壇だった。しばらく無言で写真を見詰めていたあみは、数分後にやっと俺の方に振り向いて言った。


「私の後ろに立つと、死ぬよ?」



 彼女も俺と同じ、珈琲は無糖派だと知って、また心が浮かれていた。ソファーの端と端に腰掛けた俺達は、恐らく同じ気持ちのはずなのに、それを言葉にすることができない。


「警察はどうだった?」と、沈黙を破ったのはあみだった。


 俺は昨夜の虚しいやりとりを一通り話した。彼女は珈琲を啜りながら、静かに最後まで聞いていた。どこを見ているのかわからない、遠い目をして。


「確かに腹が立つけど、その女刑事の言うことはもっともだ。女の性被害は暗黙の内に葬られる。それが古今東西続いてきた法則だからな。レイプは殺人と変わらないって誰かが言ってたけど、本当にそうだと思うよ。だけど、命はあるわけだし、肉体は回復する。完全に忘れることも出来ないけど、明るい方を見て生きていく選択が残されているんだ。そう、気落ちするなよ」


 意外な励ましを受けて、俺は唖然とした。


「今、記憶がないのは好都合だ。とにかく体の回復を優先させて、心のケアは一長一短じゃいかないからな。智樹は男だから色々と大変になるけど、翔子にしたら信頼できる異性の兄がいるっていうのは救いになっていくと思うけど」


 正論だし、かなり前向きな考え方に俺はすんなりと同意していた。


「警察は事件が起きてからじゃないと動けないシステムだからな。同情するよ」


 突然、そんな物騒なことをまた言い出したから、俺は珈琲を溢しそうになった。


「でも訴えるのを諦めさせるなんて、そんなのは手抜きだろ?」


「手抜きじゃない。警察内部も大変らしいよ。特に女の刑事なんてそう多くはない。その女刑事のアドバイスは私も同意見だよ。翔子が男相手にヤラれた話を自らするなんて、とんでもない拷問だ。子供にそんなことさせられないってわかってるんだよ。その人は」


 あみの口調には説得力があった。まさか、経験者なのか?


 「…私のこと、心配してくれてる?」と、彼女は困った顔をした。


「あのさ、なんでいちいち…。俺の心、読んでる?」


 俺も負けじと困った顔をすると、あみはふっと笑って肩の力を抜いた。


「智樹って、案外面白いんだな。硬派なのかなって思ってたから、意外」


 あみはそう言うと、玄関に向かって歩き出した。


「え? もう、帰るの?」


「ちょっと用事を思い出したの。じゃ、また来る」


 そう言い残して、玄関のドアの向こう側に消えて行った。


 ポツンと一人残されて、俺は我慢ならないほどに寂しくなっていた。 



 翔子が入院する病院の近くで黒猫が道路を渡っているのを見かけた。俺には、それがあみに見えた。彼女は猫のような子。


 病院のエントランスに入ると、いかにも刑事ってわかる格好をした昨夜の二人が廊下の向こうから歩いて来る。俺に気付いた二人は、自然と俺の前に立ちはだかった。そして、村本刑事が俺の耳に唇を寄せて囁いてきた。


「やっぱり翔子ちゃん、記憶が飛んじゃったみたいよ。とにかく身体の傷をしっかり癒してから退院してねってことで。交通事故に巻き込まれたって話にしておいたから、ちゃんと話合わせるのよ。いいわね?」


 村本刑事は真っすぐ過ぎる長い髪を揺らせ、切れ長の大きな目で俺をじっと覗き込んだ。俺は「はい」としか、答えようがない。


「加害者のうち二人は、今朝釈放されたわ。あれだけの怪我を負ったんだもの、痛み分けは出来ているってことで、良いわよね?」


「痛み分け? 警察がそんなこと言って良いんですか?!」


 病人が往来する通路の片隅なのも忘れて、俺は声を張り上げかけてギリギリ抑え込む。村本刑事は冷たい表情で俺を見つめていた。


「しょうがないでしょ? じゃあ、智樹君は可愛い翔子ちゃんに人前で証言させるの? 三人の男のナニに何度も突っ込まれましたって?」


 吃驚して、俺は後ずさった。思った以上に村本刑事は際どい。美人なのに、なんて遠慮ないのだろう。男が一番嫌う性質を彼女は堂々と露呈している。それが、かなり怖い。


 村本刑事は鋭い目付きで俺を見据え続けながら、長い髪をかきあげた。


「良い? きみも翔子さんも未来ある若者なの。未来を見詰めて頑張ってね。復讐とか憎悪とか、そういう感情があるなら話ぐらいはこの部下が聞いてくれるから、さ。絶対に、もうこれ以上悪い事しちゃだめよ? 正当な理由があれば犯罪に手を染めて良いなんてことはないんだからね? もしも、きみがもう一度連中に手を出したら、その時は私がきみを捕まえる。わかった?」


 相良刑事は手書きの携帯番号を殴り書きした名刺を、俺に押し付けてきた。


「これ、ホットライン。いつでもかけてきてくれて良いから」


 名刺の名前の上の肩書は、生活安全課と書かれている。未成年の非行を取り締まるのは生活安全課、と俺は頭の中でメモを書いた。


「生活安全課って、ネーミングセンスを疑います」


「ふふ。良く、言われる…」


 若い刑事は爽やかな顔に不気味な笑顔を貼り付かせて、駆け足で去って行った。


 痛み分けという言葉に、猛烈な違和感を覚える。あいつらがしたことは、殺人と変わらない罪の重さがあるというのに、刑事達は何もわかっちゃいないんだ。


 暴行なら訴えやすいが、確かに十六歳の妹が三人の大人の男相手にどんなことをされたかなんて、俺だって聞くに堪えない内容だってことぐらい想像はつく。


 だけど、だからってなかったことになんてできるわけがないだろ!


 学校帰りに攫われるなんて、最悪だ…。こんなに治安が悪いだなんて知らなかった。十六歳の女の子が一人で歩いてて、拉致られて、河原で何時間も三人に…。


 反吐が出る!


 死んだ方がマシかもしれない…畜生!!



 俺は手の震えを止められず、エレベーターのボタンを押すのもやっとだった。顔だけ見てさっさと帰る。そう決めて廊下を歩いていく途中で、看護師さんと談笑して笑っている翔子の声が聞こえてきた。勝手に足が止まる。


 ―――俺のことを笑っている。


 俺がクソ真面目に家事を完璧にこなすいつでも嫁に出しても恥ずかしくない男だと、妹が若い看護師に自慢して、相手は「そんなお兄さんなら結婚したいわ」って…。平和な世間話だ。


 ―――笑っているんだ。何もかも、いやなことを忘れているんだ…。


 そう思ったら、思い出してほしいだなんて微塵も思わない。あいつが辛い想いをするのは、もう嫌だ。だけど、俺の手は震え続けて止まる気配がない…。


 息苦しくなって、俺は廊下を引き返した。


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