厄介な謎を抱えて
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焼き立てのパンの匂いに誘われて腹の虫が鳴けば、のろのろとベッドの中で身じろぎをして、薄目を開けて朝日を確認。小鳥のさえずり、道路を走る車のエンジン音、そして本棚の向こう側で寝ている新たなる居候が起床する気配がし始めたら、いよいよ覚悟を決めて体を起こす。ベッドマッドの相性が悪いのか、最近は寝起きはいつも背中が少しだけ痛い。
固い床に敷いたラグの上で屈伸運動をして、全身の筋肉のこわばりを取る所から俺の一日は始まる。居候が淹れてくれたドリップ珈琲の香りが部屋中に漂い始め、人の気配があることに何とも言えない安らぎを覚えた。長い間、ずっと一人もんだったせいで、こんなありふれた日常が幸せに感じられる。
暖簾をくぐり抜けてダイニングテーブルに座ると、智樹が俺専用マグカップに淹れたての珈琲を注ぎ、コトンと音を立ててテーブルに置く。
「おはようございます。啓介さん」
「おはよう…」
男二人が互いの寂しさを紛らわせる為に結んだ契約。
智樹が大学進学をやめて探偵になると言い出したのは、あみが消えたあのすぐ後のことだった。高校を卒業すると、そのまま俺のところに就職したのだ。そして妹の翔子ちゃんは退院後、リハビリ施設がある別の街へと移った。死んだおふくろさんの妹にあたる叔母が、女子高に転校を手配して身元を引き受けてくれたのだそうだ。男の自分では、妹の世話に限界を感じたという。さらに父親は現在、連絡が取れないと聞いている。
智樹の身の上も、俺に負けていないぐらい色んな酷い出来事が重なっていて胸が痛む。
「俺は俺の謎を、自分の手で解きたいんです」
一体何の謎なのか、聴いても智樹は暗号めいた言葉をつぶやくだけで、意味不明。そういうところを俺は気に入っていた。あみもかなり謎めいた娘だったから、彼女の空白を埋めてくれるにはうってつけの存在となってくれている。
あみが消えたとき、智樹は泣きじゃくる子供だった。引き留める理由が思いつかなかったのだ、と後で教えてくれるまでメソメソしていた。俺はと言えば、智樹の涙に便乗してやはり泣いた。
俺達はひとりずつ厄介な謎を抱えている。
俺は、消えた元妻・亜沙美の行方。
あみはその出生と、白いコートの女。そいつはなぜか黒い花びらを蒔いて、立ち去った。調べるとそれはカサブランカの黒い品種の花弁で、智樹が調べた花言葉は「復讐」とあった。そんな怨霊みたいな女に命を狙われているだなんて、消える理由には十分だろう。俺があみなら、きっと同じ判断を下すと思うから、クヨクヨするのだけは違うと考え、頭を無理やり切り替えた。
あの子は元々独りで生き残ってきた。見た目以上に大人だし、大丈夫さ。そう、何度も自分に言い聞かせ、探すのをグッと我慢している。それが、あみの意思を尊重することに他ならないと思うからだ。
智樹はあの日以来、翼を隠して生きている。俺の前でさえ一度もそんな素振りを見せない。
鷹科のオジロワシに変身した智樹の鮮やかな戦術は、まるで百戦錬磨の武士のようで凄みも太刀筋も半端なかった。自分の手が血塗られたショックで、一次的に命を投げ出そうとした精神的な脆さを考慮すると、忌まわしい記憶を封印したと言えるのかもしれない。望まずして隠れた才能が開花し、戦闘慣れした狼相手に手も足も出させることなく葬った功績は、むしろ誉だと俺は思う。但し、無駄な殺生だけはやはりすべきではない。殺さなければ殺されていたというのなら、例外だが…。その判断はつけ難い。
そして、あの不可解な施設やそこで死んだ連中はどうなったのか。
まるで全て夢だったんじゃないかと思っちまうぐらい、世の中的にも何も起きていないことになっている。施設はすぐに取り壊され、今では跡形もなく消えてしまったし、俺の目の前で死んだはずの相良仁人は、今現在も生きてどこかに存在しているらしい。ただ、警察をやめて転職したとか…。
消防も教員も警察官も、ひとりとして殉職していないことにはなっている。実際は、何がどうなっているのか、よくわからない。
獣人は人間とは違って、蘇生能力が備わっているのだろうか。
俺の腕に残ったあみによる噛み傷は、破傷風になることもなく綺麗に治癒した。野生動物とはまた違う、何か神秘的な存在がいることを身をもって知った俺は、他の誰にもその事実を漏らすつもりはない。
「おはよう。啓介さん」
佳純が向かいのパンを大量に買い込んでやって来た。朝食の約束なんてしていないのに、あみが消えた途端、毎朝のように顔を出す。通り魔事件の際に最寄りのコンビニのトイレで体調を崩した後、不思議なことに彼女の記憶がごっそりと抜け落ちた。佳純はあみを知らず、その前後に起きた出来事の多くを喪失してしまった。それから長期休暇に入り、足繁く俺のところにやって来る。
「なんか、動物臭いのよねぇ。臭うでしょ?」と、智樹に聞いているが彼は勿論首を横に振る。空っぽの鳥かごが三つ並んでいるせいじゃないか、と智樹は答えた。
こいつが手伝ってくれるようになってから、うちは猫以外にもインコや文鳥などのペット鳥を探すのに長けた探偵事務所として名を売るようになっていた。智樹は猫探しも犬探しも上手いが、鳥までもを見つけてきてしまう凄いヤツだ。しかも、害獣を追っ払うことも出来てしまう。最近は夜中の遠吠えも大人しくなりつつあるし、カラスのゴミ荒らしにも役に立っていて、大いに結構。
「私、警察辞めることにしたわ。だから、今すぐ婚姻届け書いて。ね?」と、ピンク色の婚姻届けを目の前に出してきた。思わず、口に含んだ珈琲を噴き出しそうになり、慌てて婚姻届けを守る佳純。女のタイムリミットがあるんだからと、圧しきられるようにサインしてしまった。
これからは夫婦二馬力で探偵事務所をやっていけば良いのだから、考えようによっては気楽かもしれない。俺もいつまでも過去を引き摺って、今目の前にいる恋人をこれ以上待たせるのは悪い気がした。
「そう言えば、さっきから外にお客さんらしき女の人がいるわよ。まさか、私以外に付き合っている女がいるんじゃないわよね?」
「どんな女の人ですか?」
智樹が顔を険しくして、佳純に詰め寄る。
「白いコートの女よ。手に黒い百合の花束を持って、おっきいマスクつけて立ってるの。このビルの入り口をジッと見つめて。なんなの? ストーカー?」
俺と智樹は急いで下へと向かったが、そこには誰もいなかった。ただ、黒い花びらが一枚だけ落ちている。その花びらは俺の手よりも大きくて、濃いカサブランカの香りがした。
「…啓介さん。これって」
「また、あいつが…」
「あみはもうここにはいないのに…」
俺達はしばらく周囲を警戒したけど、その女の姿を見ることはその日以来、なくなった。
*
そして一年が過ぎた頃。
本屋帰りに自転車を止めてチェーンロックを取り付けていると、黒猫が道路を渡ってくるのが見えた。橘探偵事務所と向かいのパン屋の間の信号のない片道三車線もある道路を、怯える様子もなく、車通りを読んだような完璧なタイミングで小走りで駆けて来た。俺の目の前に来ると、にゃっと短く鳴いて黒い皮ブーツに身体を擦り付けた。飼い猫のように綺麗な毛並みをしている。
「…どうした? 腹が減ってる? お前」
ゴロゴロと喉を鳴らされると、悪い気はしない。何より黒猫なんて俺にとっては特別な意味がある。
「あみ?」
ダメ元で聞いてみたが、特に変わった様子は見受けられず。残念に思いながらも、俺は白いコートの女のことを黒猫に話していた。
「うちに来るか? って言っても、職場だけど」
俺は猫を抱き上げた。柔らかい身体、柔らかい毛並み、そして闇に浮かぶ銀色の流星群のような不思議色の眼。愛しくて恋しい彼女の顔を、ありありと思い出す。
「…まさか、な」
と、俺は笑いながら猫を抱いてエレベーターに乗り込んだ。事務所に入ると夫婦でお揃いのブランドスーツを着た啓介さんと佳純さんが、俺の方を見て目を輝かせた。
「どうしたの? 黒猫ちゃん、かわいい~」
「何か食べるもの、ありますか?」
「ちょうどクロワッサンが残ってる」
「それ、食べさせても大丈夫ですかね?」
「大丈夫よ。猫ちゃんは雑食なんだから」
黒猫は美味そうに皿の上のクロワッサンに喰らいついた。啓介さんが懐かしい目でそれを眺めてから、「じゃあ、行ってくる。留守番よろしく頼むな」と言い残して、佳純さんと出掛けて行った。
今日から三泊四日新婚旅行に行ったのだ。俺はひとりで事務所に待機する。
電話が鳴る日もあれば、全く鳴らない日が続くことも珍しくはない。
本来は人探し専門の探偵事務所だ。行方不明になった家族を真剣に探す者は、大抵まず最初に警察に行き、そこで届け出を出して一か月様子を見てから散々迷ってこっちへ相談に来るのだ。探し出して見つけたところで、依頼主より先ずターゲットの状況把握を丁寧に行うことに決めている啓介さんは、人として素晴らしいと思う。皆、理由があって消えていることを、この一年で扱ったいくつかの案件で俺は充分に勉強していた。
父さんも多分、そのうちひょっこり帰ってくるかもしれない。最後にパスポートがチェックされたのは、カナダだということは把握出来ている。
あみは今頃どこにいるのだろうか?
お腹を空かせていないだろうか?
彼女を、思い出さない日はない。
そして俺たちのような存在がこの世にいる意味を、俺なりに考え続けている。今のところ全く謎のままだけど。
いつの間にかクロワッサンを食べ尽くした黒猫は、なぜか俺のベッドの上にあがって毛繕いを始めた。柔らかく身体を曲げて、手も胸もお腹も足も舐めて綺麗に汚れを落としている。
あんまり静かな時間だから、俺はつい黒猫の隣でうたた寝をしていた。猫の気配をゆるく感じて、スチーム加湿器の音だけが広い事務所を満たしている。
目を閉じるとすぐそばで、名前を呼ばれた気がした。それはまるで、君が隣で眠っているような、そんな素敵な夢―――。
「あなたの隣で眠らせて…」と、小さな声が確かに俺の耳の奥を擽ったのは、気のせいなんかじゃないと思いたい。
目を開けると黒猫が伸びをしていた。小さなあくびの声に、俺は人知れず笑った。
end
最後までお読みいただき、ありがとうございました。一言でも感想を頂けると、とても力になります。この作品は続編がありますが執筆はこれからです。2019年内には必ず書き上げますので、良ければ是非また読みに来てください。どうぞ宜しくお願いします。 2019-2-21 森彗子




