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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第九章 あなたの隣で眠らせて
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あなたの隣で眠らせて 6

 濃厚な血の臭いに満ちた廊下を進むと、そこには二人組が倒れそうな身体を支え合うようにして、突っ立っていた。


 黒い翼を生やした男の背中を見つけた途端に、心臓が大きく跳ねる。たちまち、真っ黒い欲望が私の中で爆発した。標的に狙いを定め、床を蹴る。


「おいおいおいおいおい……なんか、来た!!」


 聞き覚えのある声が、叫んだ。でも、今はただこの絶好のチャンスを無にはしたくない。仇を討たなければ、死んでいった者達への罪滅つみほろぼしにならない。


 長い廊下の至る所に屍がゴロゴロと転がっている。


 血塗られた廊下を四つの脚で真っ直ぐに、最短距離で接近していく。


 奪われた命の重みを、思い知るがいい。


 自然界において殺生は生きるため。


 食べる目的以外に殺せば罪となり罰が与えられる。


 殺し過ぎた罪をこの手で裁かずにはいられない。


 わけもわからず逃げ惑った幼き頃の恐怖も、大事な人を奪われた絶望も、この殺戮者を滅ぼす力に変えてやる!


 手を伸ばせば届く位置まで近づいた時、黒い翼を広げた男は私を押し返した。想像以上に弾力のこしが強く、身体が一瞬だけ持ち上げられたと思ったら後ろへ弾かれる。すぐさま翼の隙間を掻い潜ろうと身を低くすると、振り向いた男の顔が一瞬だけ見えた。でも、なぜか真っ黒く塗りつぶされていて人相がわからない。


 正体不明のままでも構わない。あの残忍で凶悪な殺人を見た後では、生かしておいてはいけないという危機感がせり上がるだけ。


 この世界に、殺されるために生まれてきた者なんていてはいけないんだ!

 もう誰も死なせない!

 そのためにも、私が殺す!!


 黒の中に二つの赤い光が浮かび上がり、ジッと私を見つめ返す。


 もう一人が何かを叫んでいるけど、言葉が理解できない。脳が拒絶している。


 強過ぎる怒りに支配された私は、目の前にいる憎い獣だけを見ていた。そいつが何のためにミアを殺したのか、私達を狙ったのか、聞き出したところでミアはもう帰って来ない。


 どれほどの血を流せば、気が済むのか。


 ―――憎い! 憎い、憎い、憎い!!


 瞼の裏では再び、白いドレスの少女がゆっくりと真っ赤に染まっていく。顔半分を失ったミアが、大粒の涙を零しながら両手を伸ばし、背後に倒れた。そして、血の海に飲み込まれていく。


 二度と掴めない手が最後まで、私を待っていたけれど。


 とぷんと飲み干され、消えた。


「ミアァァァァァァ」


 ありったけの力を振り絞って駆け込み、その肩に噛みついた。男は呻き声を上げた直後に、手品のように鳥の姿に変身。逃がすものかと渾身の力で叩き落し、抵抗する脚を腹で抑え込む。喉笛に噛みついてやろうと牙を剥いて、一吠えした。


 鳥は抵抗しなかった。あっさりと私に喉を突き出すように身体を仰け反らせ、弛緩する。それが敗者の合図だと知りながら、憎しみが溢れて震え、力いっぱい噛みついた。


「うおぉぉぉぉ!」


 悲鳴と共に握りこぶしが飛んでくる。鼻頭を叩かれ、顎を緩めた途端再び顔を叩かれた。恐るおそる目を開けると、啓介が必死で私から誰かを庇っている。その腕から大量に血を流しながら、私に向けて指を刺した啓介がゆっくりと瞬きをした。


 興奮した猫を落ち着かせる方法に、「ゆっくりと瞬きをする」というものがある。それは親密な相手だとキスを意味する仕草なのだ、と猫探しをするにあたり啓介に指導されたことがあった。


 涙が溢れてくる。


 さらに、私は驚いた。


 啓介が抱いている黒い鳥の化け物は、いつの間にか智樹に変わっていたから―――。


 ザーザーと大雨が降っているような音に、包まれていく。


 ―――たった今、私は誰をかみ殺そうとした?


 誰の血かわからないけど、智樹の身体中には真っ赤な鮮血がこびりついている。啓介なんて、良い男が台無しなぐらいボロボロになっている。


 私は両膝をついて、そのまま床に頭を伏せた。


 獣から人に戻る時にも骨の痛みは同じ。苦痛の耐えながら本来の自分の姿にスイッチする。


「…あみ?! おまえなのか? 生きていたんだな?!」


 啓介が無理やり長い腕を伸ばして私を抱き寄せた。


「ごめんなさい…。ごめんなさい……」


 謝って済まないことぐらいわかってる。でも、謝らずにはいられない。


 危うく、殺すところだった。


 啓介がいなかったら、智樹を殺しちゃうところだった。


 自分の仕出かしたこととはいえ、背筋が凍るほど体が震え息ができないほど、混乱に陥っている。啓介の腕を見ては自分を殴り殺したくなるし、智樹も…なんであの時、抵抗しなかったの?


 聞きたくても智樹の意識はない。目を開けているのに、魂がどこか別のところに行ってしまったように動かない。


「あみ。良かった…、心配させやがって! まさか、アレがお前だったとはな…」


 啓介はなぜか笑っていた。


 この有様だ。頭のねじがぶっ飛んで、どこかに落ちているのかもしれない。


 酷い目に遭ったことは一目で解る。周りを見渡しても、大量の血と動きそうにもない男達が転がっている。これは紛れもなく凄惨な事件現場だ。


「…啓介。これは、誰がやったの?」


「……」


 啓介はピタリと笑うのをやめた。そして無言で首を横に振る。


「まさか、智樹があの黒い鳥なの?!」


 声が震えた。どす黒い血が腹の中でグルグルとうねるように這い回っているようで、気分が悪い。今にも吐きそうだ。


「…あ……あぁぁ……」


 啓介は青い顔をしながら、言葉にできずに冷や汗をかいている。これ以上、問い詰めたらいけない。そう思って、話題を変えようと思った。その時。


「…あみ?」


 智樹の声が、微かに聞こえた。


 私は飛びつくように、智樹の顔に顔を寄せる。目の力は弱々しいが、私を探していることはわかる。


「智樹!」


 泣き声しか出ない。彼の手を掴み、必死に謝りたくて言葉を探した。でも、


「バカバカバカ! なんで真っ先に殺されようとしてんだよ?!」


 混乱させたくないのに、勝手に口を吐いて出て来る。智樹は困ったような優しい顔をして、微笑んだ。


「…あみ。君が好きだよ…。だから、どうせ死ぬなら君の手で死にたいって、思ったんだ」


「何言ってんだ?! バカ野郎!!」


 啓介も涙目で叫んでいる。


「俺はもう人殺しだ。怒りに身を任せて沢山殺し過ぎた…」


 周囲の有様を見れば、自分の犯した罪深さに心を挫いても仕方がない。私だって、つい今しがた我を忘れて殺そうとしていた。同じような鳥は他にもいるかもしれないのに、十把一絡いっぱひとからげに襲うつもりでいた。


 強い力に支配されるなと警告してくれたミアの言葉を今、噛みしめる。憎しみや怒りは確かに強い。だけどその熱すぎる炎は我が身までも滅ぼしかねない。それを、身を持って今噛みしめている。


「…いつから知っていたの? 自分の正体を…」


 智樹は体を起こし、伏し目がちな目を私に向けた。


「あみが死んだって思った直後に、血を舐めたらこうなってた……」


     *


 煙の臭いがしてきた。どこからともなく火が迫っている。


「誰かが火を放ったんだろう。巻き込まれる前に、行こう」


 啓介さんが、俺の腕を肩に回して引っ張り上げてくれた。どっちかといえば、支えが必要なのは俺よりも彼なのに。それに、あみは元気がない。顔色が真っ青だし、もしかしたらかなり具合が悪いのかもしれない。


「啓介さん。俺は良いから、あみを…」


 頷いた探偵は、そそくさとあみを背負いあげた。啓介さんの背中に凭れかかったあみは安心したように目を閉じている。施設を出ると、そこら中に倒れていたはずの連中が一人として残っていない。皆、死んだわけじゃなかったのか…。


 もしかして、獣人は人間よりタフなのか。あみもこうして、生きているし…。だったら、あの白いコートの女も?


 あいつがまた襲って来たら、今度は必ずあみを守りたい。この手で…。



 俺達は交代であみを担いで車まで辿り着いた。雪を被っているが、問題なさそうだ。そこに在った筈の救急車が消えているのが気になる。


 サイレンの音がかなり近付く。


 啓介さんは後部座席に俺とあみを乗せると車を発進させた。ハンドル裁きも板についている。俺には真似できない。


「なにがなんだか…な」と、探偵はつぶやきながらバックミラー越しに俺達を見ていた。あみはぐったりと俺に凭れて黙り込んだままだ。


「大丈夫? 何か必要なら教えて…」


 あみは目を少しだけ開けて、苦し気に囁いた。


「なんでもいい、血と肉が足りない…」


 それを聞いた探偵は、ハンドルを北へと切った。


 車は軽快に走り出し、往来の多い道へと向かって行く。人が当たり前にいる風景を眺めていると、やっと気持ちが落ち着いてきた。


 啓介さんは小樽市へと向かっていた。三か月ほど前に崩落事故を起こしたトンネルも、片道車線だけ開通している。そこを通り抜けると、一面の海が見え始める。まだ日があるうちの日本海は穏やかに凪いでいるように見えた。キラキラと光を反射して、時々眩しいぐらいだ。


「俺の知り合いに猟師がいるんだ」


 猟師? 漁師? 最初はどっちのことかわからなかった。でも、小樽市に入ってすぐに港へと続く細道に差し掛かる。古い町並みを抜けていくと、地元民しか知らなさそうな市場があった。そこから僅か数キロ進んだところで、探偵の車は空き地に停められる。


 彼はトランクに載せてあった小さな衣装ケースから服を引っ張り出して、俺達に着替えるように差し出してきた。


「探偵の必需品さ。一人で尾行とか、聞き込み調査とかするのに使うんだ」


 血は濡れタオルを作って拭き取っていく。あみの全身は骨と皮ぐらいに痩せていて、目を疑うほど驚いた。それに、例の女に刺された傷が青紫色のケロイド状となって、しっかりと刻まれている。それには啓介さんも言葉を失っていた。


「と、とにかく精がつくものを食わそう。こいつは極端に生肉を嫌がったが、こういう時はむしろ生肉を喰わせるべきじゃないか、と思うんだが」


 探偵の考えに俺も同意した。血と肉と骨は、もともとたんぱく質から生成されるからだ。


 着替えを済ませた俺達は、あみを両脇に支えながら啓介さんの知人が経営するこじんまりとした食道に入った。あら汁の良い香りがして、俺の腹の虫も賑やかに訴えている。


「裏メニューある?」


「あるよ。昨日入荷したところさ。三人前かい?」


 恰幅の良い年配の女性が聞いた。啓介さんは「ほっけとか銀鱈も頂戴。あと、蟹汁も」


 するとあっという間に、すごい旨そうな和定食が並び出した。裏メニューと言われていたのは、どうやら鹿肉のことらしい。シチューと串焼きが出てきた。



 あみは汁から飲み始め、半焼け肉を食べ始めた。無言で必死に口を動かして、飲み下していく。慌てて食べているようにも見えるけど、身体が欲しているのだから大人しく見守ることにした。腹が満たされるまで、俺達はただひたすら食と向き合った。


 食べることは生きること。どんな辛いことがあっても空腹はやってきて、食べれば身体は元気になれる。身体と心はそもそもひとつ。欲求を満たせば、自然と心の方も満たされていく。


 気付けばあみは俺達の倍量の串焼きを食べていた。店のおばさんが苦笑いするほど沢山の量を平らげ、顔色が良くなったように見える。


 啓介さんは財布から札束を出して現金払いすると、領収証を貰った。彼の事務所を見たときも感じたけれど、そんなにあの仕事で儲かるとは思えず不思議だった。


 車に戻ると、今度は温泉に行こうと探偵が言い出した。


「ニセコに知人がペンションを経営してるんだ。今から電話してみるから、ちょっと待ってろ」


 彼はまるで、ドライブ中の一コマのように自然に振舞っている。でも、今はできるだけ札幌市内から遠くへ行った方が良いという判断を下したようにも思える。


 学校の事や翔子のことを考えると、そんな悠長なことをやっていて良いのかと思う一方で、探偵の判断に有難さも感じていた。もう、このまま三人で誰も知らない場所まで逃げてしまいたい、とも。

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