出会う意味 2 【智樹】
どんな家庭も見た目は穏やかで円満そうに見えても、往々にしてトラブルを抱えているものだと思う。我が家も例外じゃない。
親父は今、南米かアジアのどこかに仕事に行ったきりで滅多に連絡してこない。他に頼れる身内がいれば良いが、そういう人もいない。なぜって、それは両親が駆け落ち婚だったからってことになっている。
母さんが他界したのは、今から七年前。俺達家族は札幌ではなく旭川に住んでいた頃だ。
当時、仕事が軌道に乗ったばかりの親父は、妻が急逝すると俺達を保護施設に預けて仕事に逃避した。
その後、親父のスケジュール都合によって俺と妹は家庭と児童保護施設を行き来するという、一風変わった少年期を過ごした。他人の中で暮らすということを、嫌というほど実感したんだ。
大きな工場設備の技術者をしているらしい親父は、元々ちょっと変わった人格の持ち主で、俺はそんな親父のことがかなり苦手だった。小さい頃からなかなか目を合わせてくれないし、滅多に笑わない。それに言葉選びにも思い遣りが欠けていて、論理的であればあるほど人として当たり前の感情がまるで伝わって来ない、変な人。だから、大人になるまで俺達兄妹は施設とは縁が切れないと思い込んでいた。それが五年前、札幌市郊外になぜか親父は自宅を建てた。
結構立派な広い庭付きの家で、翔子も俺も戸惑いと喜びに胸を躍らせた。親父は仕事をやめて日本に落ち着こうと思っている、なんてことを当初言っていて、まるで人が変わったように優しかったのに。一年経たずして、ある日突然帰って来なくなり、そのまま行方不明。元の職場に復帰したと本人からメールが届いたのが、実はつい最近のこと。
親子なのに、親父にはどれぐらい収入があって貯金があって生活力があるのかを俺は良く知らない。聞いてもあの人はまともに答える気はないようで、全く違う話題にすり替えて見送ってしまう。俺らが生まれてくる前から、この人はずっとそういう人だったに違いない。なぜ、母はこんな男と結婚し所帯を持つことにしたのか、気が知れない。
その母が死んだ時も、そうだ。全く、何がどうして死んでしまったのか、一切説明しようともしなかった。もちろん俺達は何度も聞いた。しつこいぐらいに、何度も。でも、親父は無言を貫いて無表情。都合悪いことはだんまりを決め込んで、意思の疎通を拒絶する変な人。子供相手に上手な嘘もつけない。それが、俺と翔子の親父だ。
中学生になった頃から家政婦の三輪さんから家事を習い、妹と二人で地に足のついた暮らしを送ろうと、そりゃもう必死だった。料理も一通りの家事もこなして、勉学にも勤しんだ。
とにかく、親父みたいにはなりたくなかった。この街に根を下ろし、しっかりとした人生を送りたいと子供ながらに生真面目に考えていた。
そんな俺とは対照的に、二歳違いの妹は根っからの末っ子気質で、兄ができるなら妹の自分はできなくても良いとでも考えたのだろうか。家事の一切を覚えようともしなかった。米の炊き方でさえ未だにマスター出来ていない。もう高校生なのに、だ。それに、憎らしいほど親父に似てきて、最近では滅多に喋らない。表情からも感情を感じさせない。
普段から何を考えているのかさっぱりわからない妹という存在は、かなり厄介だ。従順でもないし、約束したことも覚えてないと開き直るし、靴下を裏返したまま洗濯機に入れるし、女性下着でさえも俺に洗濯させるようなずぼら女だ。あいつの精神年齢は小学生で止まっていると思っていたぐらいだ。勉強は良く出来る方で、俺と同じ公立高校の中でも進学校に合格したけど。人間として見たときに、なにか大切なものが欠如している気がしてならない。それでも、入学してからこの半年間特に変わった様子はなかった。化粧っ気もなく、素朴な印象のまま。恋愛経験はなく、趣味の漫画や小説に没頭するオタク気質。無駄に外出なんてしないし、アルバイトもやりたがらない。欲しい本は親父が定期的に送金してくる生活費の中からその都度頂く程度で、洋服もずっと同じようなものばかり着ていた。つまり、欲がない。
そして俺。本来、高三の秋と言えば大学受験を控える学生にとって大事な時期である。だが俺は、首席の成績を収めたおかげで地元の国立大学に推薦入学と返済なしの奨学金を獲得した。自分の力で積み上げられる成果や報酬を得るということは、財産になる。努力が嫌いじゃない俺は、親父に頼らず自分の力で立派な大人になってやろうと思っていた。
それに、アルバイトをして稼いだ金で世界一週旅行に行くのが、密かな夢だった。自分の目で見たり、経験したことは財産になる。北海道広しと言え、ここしか知らないまま一生を終えるなんてゾッとする。そんな動機もあって、俺は意欲的に家庭教師のバイトを二件掛け持ちして、水曜日以外の平日の夜は家を留守がちにしていた。
妹は引きこもりのオタク気質だから、外出なんてしないと思い込んでいた。完全に誤算だった。まさか、あの地味キャラの妹がこんな事件の被害者になるなんて…。想定外過ぎて、頭も気持ちも追い付いていかない。
運び込まれた病院で、俺は悩んだ末に我が家の元家政婦の三輪さんに電話をかけた。彼女は血相を変えて駆けつけてくれて、今は俺の代わりに妹に付き添ってくれている。
俺はと言えば、駆けつけてきた刑事さんと事情聴取に時間を費やした。最初にやって来た中年男性の刑事は、俺から話を聞いて直ぐに加害者三名の身柄を拘束せよと現場に指示を送った。妹の体内から採取した体液と、連中の体液を鑑定に出すというのだ。そして当然のことながら、妹自身に被害状況を語って貰わなければいけないと言い出した。俺は、この時初めて狼狽えた。実の兄でさえ、男相手が厳しいだろうと考えたから三輪さんに来て貰ったというのに。
配慮が足りない気がした。俺は勇気を振り絞って「女性警察官を呼んで下さい」と言いかけたとき、ノックと同時にドアが開いた。入ってきたのは、若い女刑事だった。
長い黒髪、きっちりと切りそろえられた前髪に、ぱっちり二重の黒い目は猫のように吊り上がっていて、目尻には黒子がある。一度見れば忘れられない美人。でも、彼女が一言発した途端に美人というイメージはあっけなく覆えされた。
「ナベさん。ここは私が」
彼女の声はとてつもなくガラガラと耳障りで、まるでニューハーフを連想させた。ナベさんと呼ばれたおじさん刑事は、片手をあげるだけの挨拶をして出て行った。黒いスーツを着た彼女は、艶々の長い髪を後ろに払いながら、俺に名刺を差し出して笑顔で挨拶した。すごく感じが良いのに、出てきた言葉は「早速だけど、レイプ被害を取り下げるべきよ」という、予想外のアドバイスだった。
「あんた、女のくせに妹に泣き寝入りしろっていうのかよ?!」
頭に血が昇っていた俺は、ひとまわり年上らしき女性に向かって怒鳴ってしまった。だって、信じられない。女性にとって性被害は殺人に匹敵する犯罪のはずだ。なのに!
「…悔しい気持ちは勿論わかります。でも、妹さんまだ十五歳でしたよね? そんな若い子に、警察官とはいえ性被害について状況を語るってどういうことか、想像してみて下さい。お兄さん。もし、裁判になれば大勢の人に自分がどんな目に遭ったのか詳細に語らなければいけません。そして相手の弁護士には散々辱められるようなありもしない願望だとか、性癖だとかを、でっちあげられてイヤな想いをします」
女刑事、村本佳純の目は座っていた。確かに、それは所謂セカンドレイプと言われる二次被害を指している。俺は愕然として、息が…。
「性被害はあってはならない事です。でも、こうして起きてしまったら、あとはいかに本人がこの悲劇の記憶に縛られないかが、最も重要なんです。一般的な暴行事件として訴えることを、私は個人的に強くお勧めしています。彼らを裁く法的手段は、それしかないので」
俺は立ち上がり、村本刑事に詰め寄っていた。彼女は驚くことも怯える様子もなく、毅然としている。
「…支えてあげて下さい。妹さんを」
「言われなくても、わかってる!」
彼女は、さっさと居なくなった。代わりに、二十代半ばぐらいのひょろっとした男性刑事が俺に名刺を渡した。
「後で送って行ってあげます。村本刑事は…優秀な方ですから、大丈夫ですよ」
なにが大丈夫だ。肝心なことを曖昧なまま、彼・相良刑事は静かにドアを閉めて行ってしまった。一人になった部屋で、俺は頭を抱える。翔子は今頃、身体の奥まで調べられていてるだろう。無力な俺は、ただ待つしか出来ない。
夜の窓ガラスに映る情けない自分の顔を見つめ、呼吸を整えようと努力しても安定することは無かった。
何か他のことを考えなければいけない。俺は暴れ出しそうな自分の腕を反対の手で握り絞めながら、個室の端から端を忙しなく行き来した。落ち着かなければ。怒りでどうにかなりそうだ。
なぜ。さっき、俺は連中を殴らなかったんだ。バカだろ!?
でも不意に、謎の美少女を思い出す。
橋の真ん中で、欄干に立つ黒いシルエット。あの瞬間、俺は心臓を鷲掴みされていた。
吸い寄せられるように、彼女の元へと駆けて行った。あの時の俺は、間違いなく翔子のことをすっかり忘れてしまっていた。
それが不思議で仕方がない。
気付けば、彼女を追って川に飛び込んだのだ。異常行動だともいえる。
普通に考えたら、そんなことするだろうか?
あの時の俺は、普通じゃなかった―――。
偶然だったにせよ、そのお陰で結果として翔子を発見できたわけだが、俺はのぼせあがっていたようだ。すぐ目の前に居たのに、加害者共の顔はおろか、その姿までも確認していないなんて。ずっと彼女に釘付けだったということだ。自分に嫌気が刺す。
ほどなくして翔子の診察が終わり、今は鎮静剤で眠っていると聞いてから、俺は家政婦の三輪さんと共に一旦帰宅するように看護師から言わ渡された。真夜中に目が覚めて混乱でもしたら、すぐに電話をすると説得されて…。こんな事態は初めてのことで、右も左もわからず医者達の言うことに従う他ない。
今ほど親父に傍に居て欲しいと思ったことは無かったかもしれない。あんな親父でも、この世で唯一無二の親なのだから。俺は今、猛烈に心細い。
相良刑事が運転する車の後部席には、俺と女刑事が乗り込んだ。三輪さんは病院から近いということで自転車で帰宅した。
乗用車風の警察車両の中は、重い沈黙が満ちている。その沈黙を破ったのは、村本刑事だった。
「そうそう。暴行犯三人の身柄は無事に確保したって。今、別の病院で怪我の治療をしているそうよ。……あなたがやったの?」
最初、意味がわからなかった。
俺が、何をしたって?
「あなたじゃないのなら、誰がやったの? 三人とも酷いやられようだったって。じゅうぶん敵討ちしてるんじゃないの。あなた。見かけに寄らず、強いのね?」
関心しているというよりも、軽蔑に近い目付きで俺を見ている。
俺はあみを思い浮かべていた。岸辺に上がってから彼女を追いかけて再び会った時、どれぐらいの時間が経っていたのかを計算する。どう勘定しても三分程度しか経っていない気がした。
「一人は顎の骨に皹が、もう一人は鼓膜が破れてるって言うし、あと一人はアソコを強く踏んずけられて大怪我だそうよ。しばらくはオナニーも出来ないし、最悪なことに自力でおしっこも出せないんだって」
俺は絶句した。美人だけど、声が太い以上にこの女刑事はハッキリと言いすぎる。無遠慮過ぎて怖い。そんなことを思いながら、一方ではあみの去り際の台詞を思い出していた。
彼女は『警察沙汰には巻き込まれたくない』と、言っていた。
「……ふふ…ふふふ」
俺は武者震いしながら、つい笑ってしまった。それには、運転していた相良刑事も過敏に反応した。
「やっぱり、お前がやったのか?」
「俺はやってませんよ! でも、誰かが敵討ちしてくれたんじゃないかな…って、思って…」
村本刑事が身を乗り出して、俺の目を覗き込んで来た。
「あなた。その人物を見たの? もしくは、心当たりでもあるの?」
これじゃまるで、俺が重大犯罪の容疑者みたいだ。俺は固唾を呑んだ。
「いいえ。誰も見てません。妹が倒れていたので、抱き上げてコンビニまで歩いて行きました。誰にも会ってません」
「あなた、川に落ちたって言ってたわね? その状況を詳しく話してくれない?」
村本刑事は探ろうとしている。俺が何かを隠しているんじゃないのか、と。
「…もう、今夜は疲れてるので。頭が痛いし…。明日でも良いですか?」
村本刑事は肩を落とすように身を引いてからは、途端に静かになった。家の前に着くと、玄関のドアを開くところまでずっと見守られて、俺はぎこちなくお辞儀をしてからドアを閉めて、鍵をかけた。どっと疲れが襲ってくる。
長い一日が漸く終わろうとしている。
広いリビングの大きなガラス窓から、夜空を見上げた。今は雲がかかり、半分になった月が隠れてしまっている。明りを付けないまま、俺はコンビニで買って着替えていたシャツを脱ぎ捨て、バスルームに向かった。めくれかけた絆創膏をはぐと、砂利で切った小さな傷からの出血は止まり、乾いていた。
冷たくなった肌に熱い湯がかかると、背中の真ん中に斜めに走った古傷が赤く浮かび上がってくる。久しぶりにその傷を鏡に映しながら、俺は闇夜の中に溶け込むようにして佇む謎だらけの美少女を想って、目を閉じた。