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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第九章 あなたの隣で眠らせて
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あなたの隣で眠らせて 4

     *


 雪が降りしきっていた。風が強く吹くと、空が悲し気な声をあげて泣いているようにも聞こえる。まるで迷子になった子供が親を呼んでいる。そんな声だ。


 不完全な防寒具にうっすらと雪が積もっている。手足が冷えすぎて感覚が鈍い。気休めのように手のひらに息をかけてもみ手をしたら、血の臭いがふわりと広がった。これは、あみの血だ。


 ―――夢じゃない。あれは全部、現実に起きたことだ。


 そう思ったら、また。絶望で目の前が真っ暗になり、途方に暮れる。


 俺は生まれて初めて恋をした。


 彼女にどんな過去があろうと、どんな問題を抱えていようと、関係なかった。


 傍に居たい。


 ただ、それだけの気持ちがあんまり大きくなり過ぎて、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。


 彼女の出現が俺の心の奥に広がる虚しさを、あっという間に浚ってしまったんだ。


 あの日、橋の上で俺と視線がぶつかった時。


 白い顔、銀色の髪、暗い表情、ギラギラと鏡のように光を反射するふたつの瞳。だけど、その顔は想像を超える程に整っていて、思わず息を飲んだ。


 まるで絵画のような完璧な微笑に、ゾクッと震え、底のない穴に落ちていくような気分で、無謀な彼女を追いかけた。


 生きる時も死ぬ時も傍にいさせてくれ…。


 一瞬で、虜だ。


 あの一瞬が、俺の心を掴んだまま離さないんだ。


 彼女がこの先も俺の世界に居てくれるなら、他にはもうなに要らない。


 あみにまた、会いたい。


 抱きしめたくて、もう一度キスしたくて、俺は彼女の血の臭いを嗅いだ。血を舐めると、あみとのキスの味がする。


 どちらの舌かもわからなくなるまで蕩けるようなキスを交わした。


 まだ、あれから時間は経っていないというのに、今はもう、どうしようもなく――遠い。



 現実が残酷過ぎて。


 心がまだ、追い付けていないんだ。


 あの白いコートの女は、一体誰なんだ?


 なんで、あみが殺された…?


 あの女は、始めからあみを狙っていたんだ。


 俺はただのおとりで、真の狙いはあみを殺すこと。だから、刺した直後に立ち去った。ただの通り魔なら顔を見た俺をそのまま残すわけがない。


 あの女は、あみを殺した。


 おぞましいほどの強い憎しみが、全身から滲み出ていた。


 驚いたのはそれだけじゃない。


 あみは、人間じゃなかった。

 

 そこで、思考は一度停止する。


 吹き付ける風ですっかり冷えた身体はもう言うことを聞いてくれない。ここは崖の上で、最も背の高い木のいただきに座っている。どうやってここまで登ってこれたのか、覚えていない。


 そういえば―――。遠い昔、同じような場所に座っていたことがあったことを思い出す。ぽつり、ぽつりと、次々に…。


 嗚呼、良く考えてみれば俺だって、不思議なことばかりだったじゃないか。


 小学一年生の夏休みに神隠しに遇って、一週間後に同じ場所で発見された俺は、何も覚えていなかった。治癒途中の切り傷があったのにも関わらず。怖い目に遭うと、その子供は自分を守る為に記憶を封印することがあると医者に言われ、俺はその日から思い出すことを拒絶した。


 その四年後に、今度は母さんが不可解な死に方をしたんだ。


 俺の周りにはいつも、不思議な暗い影が付き纏っていた。


 父さんは心を閉ざし、俺と翔子と目も合わさなくなった。まるで、俺達とは一緒に生きていけないと言わんばかりに、視界に入ることも受け付けなかった。母さんが死ぬ前の父さんは、愛妻家で子煩悩でバカみたいに真面目で、頼れる男だったのに。


 なにがそれほどまでに父さんを変えてしまったのか、わからない。


 俺のせい、なのか?


 俺が、神隠しに遇ってから、家の中がすっかり変わってしまった。


 それでも、俺はともかくせめて翔子の事は真剣に守り続けて欲しかった。本当に大切で愛してるなら、施設や親戚になんか預けたりしないで、自分で育てて欲しかった。あんな見栄えだけ立派な家なんかじゃなくて、翔子がレイプ事件の被害者になったと知らせを受けたら、地球上のどこに居ても飛んでくるぐらいの親らしいところを、示して欲しかった。俺達兄妹は、父さんに見捨てられている―――。


 父さんは、異常者だ。


 父親失格で、自分の事しかわかろうとしない狡い大人で。


 俺がどんなに悩んでても、話を聞いてくれる大人が不在。


 話せたところで、精神疾患を疑う無能で想像力のない愚かな大人達しか、いなかった。


 誰も、助けてくれなかった。


 苦しくても、悲しくても、辛くても。


 俺が、翔子のために。強い振りをしなければ、いけなかった。


 そんな俺を助けてくれたのは、苦しみから掬い上げてくれたのは、あみだけだ。


 こんな俺を好きだと言ってくれたことが、命懸けで俺を守ろうとしたあみの行為が、心に深く突き刺さる。痛くて苦しくて、吹雪に向かって雄叫びをあげた。


 声が枯れるまで叫んで、叫んで、叫んで。


 無力で馬鹿な自分をこの世界から今すぐ消してしまいたかった。


 守りたかったのに、肝心な時に役に立たない。


 守られて、そのせいで大事な人を失うなんて―――。


 あみは、俺のせいで死んだ。


 俺の腕の中で息を引き取った。


 その瞬間、俺の人生は同時に終わったのだ。


 彼女なしで生きていても、意味がない。


 だから、ここから飛び降りてしまえば良い。


 落ちて砕けてしまえば、この苦しさは消える。


 痺れていた脚で立ち上がった。向かい風に逆らうように立ち尽くしていると、吹雪の中に何かが飛んでいるのに気付く。突然、それが俺の眼前に迫ってきた。


 黒い羽を広げた大きな鳥だ。


 何か言いたげに俺の周りと飛ぶと、吹雪の中に消えて行った。


 すると次の瞬間。


 白い闇が、赤く光り始めた。


 身体の奥で何かが弾けた音がしたと思ったら、急激に熱くなる。まるで燃えているような熱に戸惑いながら、血に汚れた手を見つめていると。細胞の間に亀裂が走り、そこから赤い光が漏れ出す。


 ミシミシと骨が軋み、激痛が襲ってきた。喘ぎながら歯を食いしばると、バランスを失って木の上から零れるように、落ちた。


 重力に従って頭が下になり、地面へと真っすぐに落ちていく。


 走馬燈の風景に気を取られている間、身体中の骨が折れたような音を立て続けた。ボキッと完全に関節が外れたような衝撃がやって来た瞬間。嘘のように体が軽くなった。そして、俺は地面に叩きつけられる寸前で翼を手に入れていたんだ。


 北西から吹く風に逆らって翼の角度を変えると、右へ左へ旋回できる。


 潮の流れに飛び込んだように、風に圧されながら慣れない飛行の練習をした。


 俺は、この夢みたいな展開に壊れたように笑った。


 本当に翼が生えるなんて!


 これであみのところに飛んでいける!!


 昨夜、思いがけず俺のベッドに現れたあみを思い出す。まだ、生々しい甘い疼きが残っていて、特別な関係に踏み出せたことを消したくなんてなかった。


 彼女に会いたい。今すぐ、飛んで行きたい。それだけを考えていたら、いつの間にか、見知らぬ建物の屋上に降り立った。



 コの字型の廃校のような建物。身を乗り出すと、救急車の後ろに探偵のものらしき黒いSUVが停車したところだった。運転席と助手席から人がそれぞれ降りてきたのを見下ろして、啓介さんじゃないことに違和感を覚える。


 翼を広げながら足下から地面へと落ちると、良い感じに着地ができた。背中を向けていた二人の男が同時に振り向く。彼らは驚いた顔を引きつらせ、腰から突然銃を引き抜いて構えた。回転式の銃。スロットの部分には銃弾の黄金色が覗いている。


 親指で撃鉄を引き下ろし、ガチャリとスロットが僅かに回転して止まる。アイアンサイトの奥から真っすぐに俺の眉間を見据えた殺意が光っている。


 咄嗟にしゃがんで一発目を避けた。二人目の男の撃った弾道は予想した場所に当たる。俺の右胸を貫通できない弾は見事の潰れていて、ぽとりと落ちた。


「この化け物が!」


 俺は、無意識にその失礼な口に握りこぶしを打ち込んだ。歯が折れ、血が迸る。壁にぶっ飛ばした男は気を失っている。


 さらに攻撃を仕掛けてくる背広の男が、俺を「化け物!」とののしった。無意識に右手を伸ばして、男の首を掴む。大量の血が腕に集まってくるように脈を打つ。怒りで頭がどうにかなりそうだ。いや、もう手遅れかもしれない。


 理不尽な死はもう二度と御免だ。なぜ、俺ばかりがこんな目に遭わなければいけない? 愛した人を奪われなければならない?


 暴力とは無縁の世界で、平和に暮らしている人もいる。それなのに。母は殺され、妹は強姦され、あみは俺を守ろうとして命を落とした。こんな俺のために、命を無駄にした。


 そんな愛なら要らない。


 俺の望みは、一緒に生きていくことだ。


 これからもっとずっと長い時間、傍にいて欲しかった。


 俺が君を、助けたかった。


 ―――守られたくなんてなかった!



 目の前にいる者が誰であれ、憎くて憎くて殺してしまいたくなる。


 締め上げた指先にさらなる力を込めると、柔らかな肌に爪が食い込んで血が溢れ出した。ズブリと突き刺さった指が温かい人間の内側に触れる。男は短い悲鳴を上げ、俺の腕に爪を立てて引っ掻いたが、徐々に力を失ってやがて絶命した。


 俺は一体、何をしているのだろうか?


 朦朧とした意識がゆらゆらと揺れる。背後に気配を感じて、真上に飛び上がった。いま居た場所に銃弾が撃ち込まれ、なんで避けたのか自分がもうわからない。


 荒れ狂う吹雪に身を委ね、銃口を向ける連中に自ら接近していく。


 俺は死んでも良い。だけど、あみが愛した探偵は助けてあげなくちゃけない。


 そんな使命感が、この時の俺の原動力になっていた。

 

     *


 バリン、とガラスが割れて飛び散った。その時、俺は丁度目を開けたばかりで、手足を椅子に縛り付けられるというおかしな状況に戸惑っていた。そして目の前に並ぶ面子に驚き、自分の身に降りかかる未来を想像しようとしていた時だった。


 停電になったと思ったら、突然派手な音と共に窓ガラスが全て割れた。鋭い切っ先のガラス片が飛んできて、元同僚たちの身体に突き刺さる。小さな破片が俺にも飛んできて、左腕に突き刺さった。


「なんだ?!」


「誰かに殴り込まれてる」


「まさか」


 男達は一様に動揺を隠そうともしない。


 そのうちの一人が、俺の前に立ったと思ったら、伸ばした腕を鞭のようにしならせて頬を打ってきた。俺は椅子ごと床に倒れ、肩と頬骨を打ち付ける。すでに満身創痍の体だっていうのに、手加減しない奴だ。


 憎悪に支配された目が、彼を別人に変えてしまう。


 相良仁人。佳純の相棒で、俺を逆恨みしている。


「言え! お前の仲間か?!」


「仲間なんかいねぇよ! そいつは根っからの一匹狼だ」


 俺の代わりに別の奴が応えた。


 相良は聞く耳持たずに、俺の頬骨に固い靴の底を押し付けてきた。 体重がかかる直前に、黒くて速い何かが相良を横になぎ倒した。


 他の連中も一緒に、床に倒れる。


 黒い蝙蝠こうもりのようなものが部屋を飛び回っていた。こいつが窓ガラスを全部割った犯人なのだろう。大きく広げた翼に誰かが発砲した銃弾が当たったのか、たちまち部屋中に黒い羽が舞い上がる。視界を奪われるほど大きな翼に包まれて、俺はギョッとした。


 尾が白い大きな鳥だったのだ。その特徴から、オジロワシという鷹科の巨大鳥であることがわかった。野生界の中でも大きな翼を持つ猛禽類。間近で見ると迫力が半端ない。


 しかも。そいつは、一羽で五人相手に次々と体当たりをして倒していく。


 野生動物とは思えないその意思ある動き方に、違和感しかない。


 倒れた態勢から首だけを上げて見守っていると、ものの十秒ほどで連中はやられてしまった。相良仁人に至っては、なぜか首がなくなっている―――。


 消えた首の頭髪を嘴で咥えたオジロワシが、鳴き声を上げてゴロンと床に落とした。


「う、嘘だろ…」


 思わずちびりそうになりながら、俺は生唾を飲み込んだ。


 残るは、俺だけだ。


 死を意識した。


 だが、オジロワシと目と目が合った途端、そいつは突然変身した。

 

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