あなたの隣で眠らせて 3
死後間もないのか、血と脂肪の臭いが鼻を突いてくる。
ここ数日間で戻ってきた記憶によれば、これまでに遭遇した死体の数は異常だと思う。そこらじゅうに死が転がっているかのように錯覚してしまう程だ。でも、それにはきっと私の知らない然るべき理由がある。自分の問題と混同してはいけない。
それに今は、過去を気にしている場合ではない。しっかりしなくては。
冷静になってから、隣の死体袋のファスナーを引いた。
それが若い女性であるとすぐにわかった。青白い肌はびっしりと霜に覆われている。仮死状態の私も、こんな風に凍っていたのかもしれない。
死体は首から上が切断されいる。胸部周辺の皮がごっそりと剥ぎ取られ、肋骨とそれを覆う胸膜が剥き出しだ。本物そっくりの、かなり良く出来た作り物のようにも見えてくる。血が抜かれているとはいえ生々しい。
始終息を止めていた私は、袋のジッパーを一気に元に戻しため息を吐いた。
この死体を知っている気がする。殆ど直観だけど、昨夜の河川敷の被害者だと思う。皮膚に付着した水から馴染みの山の匂いがしている。四人組に連れ去られた子に違いない。本当は助けてやれるものなら助けたかった。…可哀想に。帰るはずの娘が帰らなかった家族の焦燥と絶望を思うと、胸がジリジリと痛む。
せっかく生まれてきた命が、他の生き物の生存のために奪われる。この世はなんて残酷に出来ているのだろう。でもそれを気にしだせば、私だって罪深いではないか。生肉を避けてはきたけれど、啓介が作ってくれた料理に入っている食材の中の動物性たんぱく質は、食べた。人間が食べるものを当たり前に食べることで、人間になりきろうとしたのだ。命を頂く覚悟がないくせに、我ながら中途半端なことをしたものだと思う。
食物連鎖なんか消えてしまえばいいのに―――!
震える手をもうひとつの手で握る。情けなさと共に、涙が込み上げてくる。
この子の死から目を反らしてはいけない。そう思い直して、もう一度ジッパーを引いた。
親の下に帰れなかった憐れな子羊の腕を観察する。抵抗した時に出来た傷だらけの皮膚には、深い噛み傷が刻み込まれている。太く長い牙を持つ獣の名を、いくつか頭の中で並べてみた。そして、自分がどこに分類されているのかと考えた途端、ハンマーで殴られたような頭痛に襲われた。吐き気がして、また全身が痛くて身悶える。乱れた呼吸を整えようと、深呼吸からやり直して間もなく。遠くから近付いてくる長靴の靴底を引き摺るような足音に気付いた。
急に周りのものがはっきりと見えはじめる。塗装が剥げた防水処理を施されている床に、水が小川を作って排水溝に流れ落ちていた。血生臭い臭いの正体は、その水の源にあるようだ。
爪先立ちになって壁際を歩いていく。出入口はひとつ。そこから、人が近付いてくる。
ドアの脇にあるステンレス製の冷蔵庫に、歪んだ姿の自分が映し出されている。そこからこちらを不安げに見つめる顔を、無心で見つめ返した。
私の名前は、橘あみ。まだ、こうしてここに、生きている。
*
バタバタと大勢の足音がこっちへ向かってやって来る。
多勢に無勢は危険だ。廊下を引き返し、手あたり次第にドアを開けていく。隠れられそうな適当な部屋がなく、慌てて女子トイレに飛び込んだ。一番奥の個室に入り、便器の縁に乗って身を屈める。廊下に行き交う連中の声が聞き取れた。
「…くっそう、あの野郎。どこに行った?」
「隠れてるんじゃないのか? まだそこら辺にいる筈だ! 探せ!」
地響きがしそうなほど低い声が鋭く命令を下す。
足音が遠ざかっていく中、二人組が「まずいぞ」と呟き合っている。
「なんで一般人が。監視カメラには何も映ってなかったのに」
「当直が寝てたんっすよ」
「昨夜も目撃者を取り逃がしたらしいな」
不満を吐露し合う二人組は、やる気のない捜索をして興味深い内輪事情をもたらした。監視カメラ、当直、上下関係。
ここは何の組織だ?
救急車で亡くなった人間を運び込んで一体何をしてやがるんだ?
間抜け二人は女子トイレのドアを開けると、手洗い場の辺りでまだ世間話を続けている。若い男同志の下品な会話だ。野郎の世間話なんかどうだって良い。とっとと、どこかへ行ってくれたら良いものを。
考えたいのに集中できないせいで、イライラしてくる。
さっきのあの動物コスプレは一体何だったんだ?
出ていって羽交い絞めしてゲロさせようか。
いや、ダメだ。こっちは一人、あっちは二人いる。
そうなればやられるのは俺だし、仲間を呼ばれたら厄介だ。どうやら、やり過ごすしかない。
二人組は世間話を続けながら、一番手前の個室のドアを開けた。
「まさか、女子トイレに隠れてないだろうな。なんか今、ため息聞こえた気が」
「ちゃんと確かめましょうよ。見つけないとまたどんな罰ゲームやらされるか、堪ったもんじゃない」
ビビりなのか、二つ目の個室のドアも偉くゆっくりと開けているようだ。でも、二人はその時点で沈黙した。コツッと靴が床のタイルにぶつかる音が聞こえただけで、どちらも声を発さない。聞き耳を立てているのが、わかる。
ふとさっきの狼人間を想い出した。耳が大きくて、鼻も利くだろうに。三つ目の個室のドアを押し開く音が、女子トイレに響く。キィーっという軋むような金属音だ。
どうする?
次の四つ目の個室に、俺は居る。
呑気な会話から察するに、二人とも普通の人間のようにさえ思われるが。昨夜の目撃者を取り逃がしたという部分が、やけに引っかかった。昨夜と言えば、あの河川敷の―――。
ドキドキと心臓が高鳴ってくる。呼吸も浅いせいか息苦しい。この静寂の中では息をすることも憚る。呼吸を止めた状態で静止していたが、目をぎゅっと固く瞑った時に、思わず小さな呻き声が漏れた。
ダン!
ドアにどつかれる。
パァーーン、パァーーン、という音がどこかで鳴った。
―――あれは、銃声か?
「なんだ、今の音!」
「っくそ! 先ずは目の前の獲物を捕獲するぞ!」
ドォーンと蹴破られたと同時に俺は飛び上がり、腕の力を使って個室の上の狭いスペースに何とか身体を滑り込ませた。縁に手足を置いて、蜘蛛のように進む。
「居たぞ!」
「こいつ、何なんだ?」
床に飛び降りた途端、狭いトイレ内だというのに大の男が二人掛かりで俺を取り押さえにかかる。後ろ蹴りで追い払いドアを開けて逃げ出そうとすると、一人が叫んだ。
「無駄だ! この建物は閉鎖した! 逃がさんぞ! この野郎!」
ホストのように髪を染めた男が、飛び蹴りで襲い来る。避けたは良いが、俺のコートの裾を壁に踏んで張り付けにした。背後を取られる。肩に乗った手を待っていた俺は、グンと勢い良く敵の腕を抱き込み背負い投げをかける。ふわりと簡単に持ち上がった。その瞬間、もう一人の動きに目を配らせる。壁に叩きつけた男は崩れ落ちるように頭から床目掛けて落ちた。と同時に、もう一人の野郎が高速回し蹴りを俺の顔面に向けて、繰り出した。それを、間一髪でしゃがんで回避。右足一本で立っている敵の左肘を押っつけて、倒しにかかる。敵が態勢を整えようとしている隙に、顎目掛けて掬い上げるようなアッパーを見舞ってやった。弾け飛ぶように女子トイレ個室の角に後頭部をぶつけてすべり落ちた。
二人の男は仲良く女子トイレの床に寝転がった。よし、死んではいない。
「やっぱり間抜けだな、お前ら。動きが大き過ぎて無駄が多いんだよ」
勿論、相手は聞いていない。
さて、廊下に出てもう一度奥へと行ってみるとしよう。久しぶりの格闘に連勝した俺は、自信を取り戻しつつあった。
スーツの下に隠しておいたショルダーホルスターから護身用に持ってきたコルトM1911A1ガバメントを引き抜いた。この銃は基礎は玩具だが強化カスタム銃である。銃刀法違反に該当するだろうが、いざという時のために用意しておいたものだ。至近距離で打てば玩具であっても相当なダメージは与えられる。風穴を開けるほどではないが、急所に当てれば戦意喪失に繋がる威力はある。
先程引き返したところまで戻ると、ドアからガタイの良い男が出てきて俺を見て目つきを変えた。右手に重量のある玩具拳銃を握ったまま、その男目掛けてストレートを繰り出すと、見事に左頬に当たった。全体重をかけた一撃だ。
だが、男は微動だにしなかった。
「え?」と、驚きの声を漏らすと、男は薄ら笑いを浮かべ、俺の顔面に右拳を打ち込んできた。
とんでもない破壊力だ。あっという間に壁に吹っ飛ばされていた。左頬骨と鼻の骨の間に強烈な痛みがある。痺れと、骨をやられたことによる刺すような、引っ掻くような冷たい痛みが脳天を貫く。急に目の前が暗くなり、髪の毛を鷲掴みされた。左右に大きく揺すられ、床に吐き落とされる。
鼻が痛すぎて目を開けられない!
「はははははは」と、不気味な笑い声がした。と、思ったら。
ズンッと、腹にどでかくて固い一撃に襲われた。胃酸が飛び出しそうなほど潰された内臓が悲鳴を上げ、肋骨が折れたような気が…。
次にやってきた衝撃は固い床の感触だった。俺は顔から崩れ落ちたのだ。口から次々と血が溢れ出てくる。これほどまでにやられっぱなしになったことなどない。かろうじて開いた右目に霞んだ人影が見える。俺はこいつに、顔も名前も知らない奴に今ここで殺されるのだろうか。
「橘啓介。お前はもう、生きてここから出られない。覚悟しろよ?」
聞き覚えのある声だ。と、思ったのも束の間。
大きなグローブみたいな手で、首根っこを掴まれ吊るし上げにされる。ジタバタ足を振り回してみたが無駄な足掻きのようだ。一本ずつの指があみの手首とほぼ同じ太さなのに、首の皮膚に無遠慮に食い込んでくる。ミシリという嫌な音が聞こえ、目が回る。薄汚いタイル張りの床に崩れ落ちたまま、音も匂いも痛みさえもが遠ざかっていく。
そんな中で男共の雄叫びが怒涛のように身体の奥まで響き渡った。何かが起きていた。でも、瞳を閉じた俺が闇に覆われるのはあっと言う間だった。
*
凹んだロッカーのドアは鉄板で爪を研ぐようないやらしい軋み音を奏でながら、やっと開いた。そこからわりと綺麗な続服の作業服を拝借する。足を洗い流すためのホースの水を直接浴びて、血を洗い落してから服を纏った。サイズはかなり大きいが贅沢は言ってられない。裸でいるよりもはるかにマシだ。
床に寝そべった太っちょのおじさんは、強面で腕っぷしが強そうなのに、手合わせしてみると案外ちょろかった。
死体から内臓を抜き取って真空パックするために用意された道具は、見るからに年季が入っている。さっきまで私がいたのは死体保存庫で、そのすぐ隣がまさかこんな悪趣味な作業場になっていようとは夢にも思わなかった。危うく私の内臓もパッキングされてしまうところだ。
こいつらはこんなものをどこに出荷するというのだろう。冷凍庫らしき扉を見詰めた時、込み上げてきた胃酸が食道を焼いた。堪らず寝ているおっさんのすぐ横に、すえた臭いの液体を吐いてしまう。胃か心臓か肺かが刺すような痛みにやられた。
なんてことだ。恐らくこいつらは大きな組織に違いない。人間社会に溶け込んで、消えてもバレないような孤立した人間を肉にして出荷している…。それが本当だとしたら、最悪な現場に来てしまった。
連中の正体は一体何だ?
河川敷で遭遇した犬みたいな獣を思い出す。確かに群れで行動していた。
白いコートの女との関連は?
この連中とは繋がっている可能性はないとは言い切れない。
殺し屋と始末屋の繋がりだってあり得る線だ。
強い疲労を感じてぐったりと寝そべりたくてしょうがない。早く、家に帰らなくちゃ。そう思った時、乾いた音が届いてきた。
―――何の音だろう?
出口に向かうべく次なるドアを開けて行く。梱包用資材が積まれた薄暗い部屋だ。誰もいない。スチール製の机が二台並んで、待機モードのPCモニターが怪しく光っている。
パンッ!
また、何かが破裂したような音が聞こえ、毛が逆立った。男のものと思わしき怒鳴り声がして、かなり騒がしい。
逃げ道を探すなら声がする逆の方へ行くべきだ。でも、体が勝手に動き出す。そっちに行っては行けない。見てはいけない。だけど、止められない。
ドアを開け、廊下に出た。窓の外に異様なものが過る。見開いた目に飛び込んできた光景に、凍りついた。




