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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第九章 あなたの隣で眠らせて
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あなたの隣で眠らせて 2

 吐き出せば空っぽになり、私は自然とまた空を見上げた。泣きはらした目が痛いけれど、心は穏やかに凪いでいる。それから、自由になった身体で彷徨うことにした。この果てしない世界の出口を求めていれば、必ず見つかる。そんな気がして…。


『その謎を解いてはいけない』


 心に刺さる言葉と共に啓介と智樹の無事を案じたら、再び涙が溢れてくる。


 彼らと生きていけるものなら、生きたい。


 父を知らない私のお父さんになってくれた啓介。


 得体の知れないこんな私を好きになってくれた、奇特な男。智樹…。


 ずっと逃げ続けてきた。なぜ逃げていたのかも知らない。何から逃げなければいけなかったのかもわからない。


 ―――この壮絶な謎を解くなと言われても、気にならないわけがないよ!


 だけど、それが最大限の優しさなのだということぐらい私にだってわかってる。覚えているだけでも片手の指では数えられない程の人が命懸けで私を逃がしたのだ。彼らの意思を無駄にしてはいけない。


 寂しいよ。


 辛くて、苦しいよ。


 痛くて、怖くて、悲しいよ…。


 一人ではとても無理だ。


 殺意の込められた刃を向けられた時の、冷水に浸かったような寒気。


 いやだ。


 死にたくない。


 まだ、死ねない!


「なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ! なんなんだよ! バカ野郎!」


 怒鳴っても何も変わらない。

 

 生まれ変わるなら、争いのない人生が良い。


 終わらせられるものなら、終わらせたい。


 誰にも脅かされずに、平凡な幸せを生きたい―――。



 その時、風が流れ始めた。髪の毛が風向きを教えてくれる。


 私はもう子供じゃない。誰かに守られるだけなんて我慢ならない。


 私が強くさえあれば、家族を守れる。絶対に守る。


 力が欲しい。


 これ以上の犠牲は、もう二度と出さないためにも、私が強くなれば良い。


 そうと決めた途端、地平線の向こうから鮮やかな虹の柱が天まで昇り始めた。

  

     *


 雪が降り始めていた。救急車を追ってやってきた場所の地図を確かめようと、路肩に車を寄せる。


 ここは札幌市街から北西に外れた雑木林の中だ。奇しくもあみを保護した廃墟に近い。同じ山の裏側に位置している。原生林が生い茂る森に、まだ若い樹木が周囲を取り囲むようにして並んでいる。


 大学病院の研究所として設置された建物は、ナビゲーションシステムの中に確認できた。道路に面した脇道の少し入った場所には、格子状の門扉が道を塞いでいるのが見える。ここからは歩いて行く以外になさそうだ。


 緩い坂道を上る。時折吹き付ける強風が、降り始めたばかりの雪を舞い上げた。横殴りに近い自然の猛威の中を、軽装のまま突き進むほかない。出会いも突然だったが、別れも突然やってくる。だけど、こんな形はあんまりだ。


 それに、俺にはもうひとつ気になることがあった。だから何としても、この眼であみの死を確かめたくてしょうがない。半年前。あみを見つけた時から、こうなることはどこかで予想していた。


 舗装されていない轍の深い道を小走りで駆け上がる。数十メートルで雑木林のトンネルを抜けると、広くなった敷地の奥に二階建ての四角い建物が見えてきた。手入れがあまり行き届いていない廃れ振りに、思わず鼻で笑った。入口付近に寄せるようにして停まった救急車には、誰も乗っていない模様。開けっ放しになったハッチバックドアから車内を確かめると、ストレッチャーが無くなっている。血で汚れた床には少なくとも二人の足跡を認めた。その途端、胸が苦しくなった。


 初めて俺のベッドで眠るあみの寝顔を見た時に、気付いてしまった。旭川の高速道路上で冷たくなって死んでいた少女の顔が、鮮明に脳裏に浮かび上がる。痩せて骨と皮になってはいるが、伏せた瞼と睫毛の色、そして鼻の形がまるで同じだった。俺が人探しの探偵になれたのは、一度見た人間の顔を忘れないという能力のお陰でもある。検死解剖の写真コピーを見比べるまでもない。同じ少女だと一瞬でピンときた。


 不思議なことに、怖さや不気味さよりも心は有頂天なほど舞い上がった。ずっと探し求めていた存在にやっと出会えたという高揚感が勝っていた。上手く説明できないが、あみは俺にとって出会う前からずっと特別な存在だったのだ。彼女を手元に置きたくて躊躇いなく家に連れて帰り、養子縁組までやってのけたのは自分でも不思議だった。


 車の後ろ、足下を見れば血が一定の距離で滴り落ちている。血痕は建物の入り口に向かって伸びていた。正面入り口は封鎖されていて、薄緑色のガラスの奥は暗くてなにも見えない。隅に設置されている裏口のような、なんてことない普通のドアのところまで血痕はまっすぐに続いていた。


 ドアノブを掴む。力を込めて捻ると、拍子抜けするほど簡単に開いた。用心深く建物内へと侵入すると、中はとても静かだ。監守室らしき小窓の向こうに人の気配はない。靴音を立てないように足裏をそっと降ろす。そろりそろりと新雪の雪中行軍のように、奥へと進むことにした。


 一度懐いたらあみはとても愛くるしい少女だった。表情に乏しかった頃と比べたら、生意気で小憎らしい口を利く変わり振りも面白かった。俺が与える食べ物の匂いをしばらく嗅いだあと、箸もスプーンも使わずに手づかみで食べた時、俺の動きに合わせて目だけで追ってくる顔も仕草も思い出すだけで全てが愛しい。警戒心を持ちながらも俺にされるがままにされて、時々目が合うとふいっとそっぽを向く横顔も魅力的だった。あみだから可愛がれた。あみだから受け入れた。抱きしめて傍にいるというだけで、家族を持てなかった俺の虚しさを一瞬で埋めてくれた。


 建物内に入り、廊下にも血痕が点々と続いているのを辿たどっていく。床も壁も天井も、ライトグレーでやたらと明るい。この廊下だけが電気が灯り、床の血はまだ乾いていないこともはっきりと確認できる。血痕を踏まないように気を付けながら、俺は導かれるように廊下を進む。


 検死解剖のための施設だなんて、とんでもない。刑事を十年やっていたが、こんな場所があったことなど聞いたこともない。


 血を辿ってやってきたのは一階の最も奥に位置する部屋だった。両開きの扉は閉ざされている。


 ドアに近付くと、ようやく中から人の気配を感じた。俺は咄嗟に壁に身を寄せ、勢いよく開いたドアの裏側に身を滑り込ませた。出てきた男は白いマスクに白衣を纏っている。閉じるドア。背後を取った俺は、静かに手を伸ばした。寸前で気付いた男が、「誰だ!」と血相を変えて叫ぶ。俺は躊躇せずに男の首に腕を回して、一気に締め上げた。もがいて力が抜けていく男を壁際に引き摺り込んで、”落とす”ことに成功。ひやりと汗をかいた。


 バタバタと足音が近づき、再びドアが開いて男が飛び出す。間抜けな男はすぐには振り向かなかったが、後姿が何だか奇妙だ。徐々に、その容姿に驚いた。


 それはどう見ても獣の姿なのだ。


 奇妙なのは服を着て、二本足で立っていること。そして、さっきの奴と同じ服を着ていて、振り返った時の俺を認めた瞬間の眼が、人間とそう変わらないことだ。


 茫然自失の俺に、正体不明の獣人間が長い前足で両肩を押した。勢いのまま壁に追い詰められてしまう。


 ガルルルル!


 大きな口を開けて、俺の首に噛みつこうとしてきたのを寸前で押し戻す。だがすぐにまた襲い掛かってきた化け物を、今度は膝蹴りで反撃。二度のミドルキックを喰らわせたが、化け物はすぐに牙を剥いて噛みつこうと迫ってくる。咄嗟に、鼻を狙おうと思いついて、俺は護身用に備えていた空手突きを繰り出した。長くとがった鼻っ面に手刀がぶつかり、化け物は悲鳴をあげながら背後に倒れて行った。すかさず腹目掛けて踵落としをする。化け物は呻き声を上げてから、がっくりと弛緩した。


「なんなんだ! お前達!」


 化け物の顔がみるみるうちに普通の人間の顔に戻っていくのを見せられ、俺は思わず後ろに退がった。


 敵は我に返ったように驚き、俺を見てすっかり怯えながら、飛び起きてドアの向こうに逃げて行った。


 俺は今しがた眼にしたものを飲み込めず、茫然としたままドアの前に立ち尽くした。


     *


 青い芝生を裸足で駆けまわって遊んだ、幼い日の記憶。天気雨に驚いていると、ミアが空に向かって「あ!」と、叫んだ。


「ひゅう」と、口から吐息が変な音を立てた。ぼんやりと、夢心地。ここはどこだと辺りを見渡そうと思っても、おかしい。目が開けられない。


 手を動かそうとしたけど、がくがくと震えていてなんだか妙だ。酸素が薄いのか、それとも自分の肺に機能的な問題が起きているせいか、どちらにせよ酸素がもっと欲しくなる。それにしても、すごく寒い。ブルっと震えた途端、全身に大量の電気が走ったような衝撃に襲われた。疼きとズキズキという鈍い痛みがあちこちから感じる。腕一本持ち上げるのに、怖いと思うほどの強烈な痛みだ。


 また、だ。あの時と似ている。


 私が想い出したのは、何年か前の真冬の朝のこと。霜と雪の花に彩られたガラス窓を開けて、全裸で逃げ出さなければならなかった日のことだ。自分だけ目覚めて、ミアの変わり果てた姿を見た、最悪の日。いや、もっと最悪の日はその前日だった。ズキンと頭痛がして、思考は強制停止する。


 意識を今起きていることに向けようと努力することに決める。それにしても、喉がカラカラに乾ききっている。水が飲みたい。肺に沢山の空気を取り込もうと呼吸するのに、胸が重い。何か錘でも乗せられているぐらいに、重くて息苦しい。かくかくとしながらも腕を動かして、手で自分の胸の上をまさぐると意外なことに何もなかった。肺が潰れたように重いのは、もっと別の理由があるのだ。


 闇雲に瞼を開けるのを躊躇いながら、涙を待った方が良いと思い留まる。前回は、急に目を開けようとしたらかなり激痛が走った。それで、さらに時間がかかったのを思い出す。同じてつは二度踏んではいけない、と念入りに忠告してくれた女の顔が浮かんで私に言うのだ。優し気な顔。彼女の名前は出て来てくれない。でも、これだけはわかる。当時の私にとって、彼女はとても重要人物だった。


 冷たいファスナーの裏側に触れ状況を把握しようと気を引き締める。


 私は今、死体袋の中に入っている。しかも、腹部を切開されたようだ。とてもじゃないが、まだ動ける状態ではない。


 呼吸も思ったようにはできず、まだまだ酸素が足りない。


 この布を破って、もっと酸素が欲しい。水のない海の底で溺れて沈んだような気分で必死に両手を動かした。時間はかかったけれどなんとか死体袋に穴を開けることが出来た私は、その小さな穴を指で押し広げて酸素を求めた。血の匂いが充満していて、かなり気持ち悪い空気の味がした。


 傷の回復にかなりの時間を要するだろう。


 何か、食べなければ。


 身体の蘇生に必要なだけ、大量の肉が要る。


 操り人形のようなぎこちない腕で必死に起き上がろうとしても、力は全く入らない。血も足りないようだ。


 首だけを使って周りを確認しようとしたが、これにも相当な体力を消耗した。ほんの少しの動作なのに、何十メートルもの距離を匍匐前進するような地味で辛い作業となった。目を開けているのに、なかなかピントが合わない。意欲的に呼吸しないとすぐに酸欠で失神しそうで、気を張り詰める。幸か不幸か、今のところ痛みをそれほど感じていないのは救いかもしれない。


 お腹がじんわりと温かくなって、いつの間にかじっとりと汗ばむほどに体温が上がった。だけど、とてつもなく空腹だった。水を飲みたい。


 ハァハァと全速力で走った後のような呼吸が、勝手に出てくる。


 お腹に手を持っていったら、傷は塞がっていた。やっと動いても良いところまで治癒している。

 私を覚悟を決めて首をグッと持ち上げた。案の定、かなり厳しい痛みに襲われたが、うかうかしていられない。死体袋に入って腸を一部抜かれているということは、検死解剖をしたということだ。他にも取られた内臓があっても不思議じゃない。一旦身を起こして全身を目視したい。そんなわけで、もう一回歯を食いしばる準備をしてから、おもむろに起き上がっていく。


 ステンレス製の台の上に長いこと寝ていたせいで、身体の裏側が痺れていた。そこに血が流れ出すと焼けるように熱い。片方の脚を持ち上げると、感じたことがない場所がビキッという音を出した。ブチブチとあちこちから聞こえたけれど、もう一秒もジッとしていられない気分なのだから、多少痛みや不快な音がしても気にしないことにする。


 霞んだ目を凝らし、室内の様子を窺う。隣の台の上にも別の死体袋があった。

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