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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第七章 生きる理由
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生きる理由 1 【あみ】

 夜が叫ぶ。誰かの悲鳴が聞こえてくる。あの日の自分と重なり、じっとしていられなくなる。


 風となった私は夜の森に踏み込んだ。自分の鼓動と呼吸音が聞こえ、次に見知らぬ女の声に耳を澄ませる。助けを求める声に引き寄せられて、まっすぐと最短ルートを勘頼みで判断しながら駆けていく。夜行性の野生動物の気配を気にしながら、住宅地と自然界の境界線上にある河川敷へと向かっていた。少し前まで、私は一瞬だけ深い眠りに落ちていたおかげで、身体が軽い。


 絶やすことなく習慣化したジョギングの効果も大きい。思った通りに俊敏に動ける身体を作っておくことは精神安定剤になる。


 悲鳴が途切れとぎれになった。時間がない。間に合わないかもしれない。ふと、犬の遠吠えが聞こえた。街中の犬が呼応するように吠え始める。こちらに向かって迫り来る気配を感じ、一度立ち止まる。近くにあった大木の幹に背中を預け、草むらの高さまで身を屈めながら、細めた眼で凝視する。昼間よりも遥かに良く見える。この瞳はまるで暗視スコープのように対象物を捉えることができる。生まれ持った能力が役に立つ時ほど、嬉しいことはない。



 いつだったか、私のねぐらに犬が現れたことがあった。犬は組織を作りたがる、と時々食事の世話を焼いてくれるお爺さんから聞いたばかりだった。上下関係が明確で規律がある組織には、必ず犬が入り込んでいる。ということは、どこにでも居そうじゃないか、と思ったものだ。


 人の形をしたその犬は長い時間をかけて私の部屋を物色してから、暗くなる前に漸く出て行った。その間、絶対に見つからない場所に隠れていた私は、抜け穴から外に避難して木の上に隠れ続けた。なんだか無性に犬が怖かった。見つかればろくなことに巻き込まれかねないと感じたのだ。



 遠くから足音が聞こえてくる。予感はビンゴ。犬達が駆けてくるところだ。


 一方、反対方向からはもう、女の悲鳴は聞こえて来ない。


 わずか数分で、どうなっただろう?


 人ならざる者たちが支配する夜の闇の中において、あらゆるリスクを想定しなければならない。昼間を支配する人々とは別の組織が噂通りに実在するのかどうかを、この目で見なければ納得できない。


 ざわつく胸を右手で掴み、その手を握り絞めたこぶしで自分の胸を叩いた。私の中にいるもう一人の私が、今、目覚める。


 樹々の隙間を縫うように駆け抜けていく者達。人型をしていても、やはり獣の力を感じた。見つかればかなり危険だが、あいつらがどこへ向かい何をするのか見届けなければ。今度は、闇に同化しながら身を潜めていた私が彼らを追いかけ始めた。


 後ろ姿を数えると、全部で四人いる。少し間を開けて尾行していく。


 公園と呼ぶ地帯の森は、枝払いが行き届いていて身を隠すには適さない。しょうがなく、木の枝に飛びついた勢いのまま回転し枝の上に乗った。隣の木に飛び移りながら進むと、遊歩道の広場に出た。


 その時、前方から流れてくる微かな血の香りが鼻をついた。


 ドクン、ドクン、ドクン…。


 痛みを伴う強烈な飢えが襲ってくる。体内で強風が吹き荒れるような、酷い錯乱状態に陥った。


 口の中に溢れ出す涎を飲み下しながら、高鳴る鼓動のせいで耳が殆ど聞こえなくなってしまう。指で鼻腔を挟んでも、唇や眼球、皮膚からも血の匂いを感じてしまうようで、防ぎようがない。漏れそうになる呻き声を押し殺し、ゆっくりとしゃがんで発作をやり過ごすことにする。


 そんな中で、急に静寂が戻ってきた耳が拾った音は、あまりにも不快だった。


 むしゃむしゃ、くちゃくちゃ。


 咀嚼音のような音がはっきりと聞こえてくる。


 私は、条件反射のように何度も喉を鳴らしながら唾を飲んでいた。

 


 人類の進化の過程には、埋められていない環の切れ目が存在する。我らの始祖は海より陸に適応した生物が起源とされ、猿人と名付けられた者たちだけが注目されているようだが、限定すべきではないのだ。人類が獲得した情報は、その全体の半分にも満たないという。かつて幼い私達姉妹を可愛がってくれた女性が、そんなことを言っていたことを、思い出す。


 こうした記憶のピースは、少しずつ、でも確実に私の中で増えている。それらを全部繋ぎ合わせた時、重要な何かを知ることになることは避けられないだろう。


 木から降りた地面に四つ足を付き、地を這うようにして風下から外れようと、ゆっくり移動した。

 人間を襲い、はらわたを喰うような連中とこの私が同列にいるなんて、許せない。耐えろ。誘惑に勝て。魂を売るな。人でいろ。


 ―――自分が人間だという意地と誇りを、絶対に忘れるもんか!


 一度でも一線を越えれば、獣になってしまう。そんなのは、絶対にいやだ!

 奥歯をぎりぎりと噛みしめながら、苦痛と飢餓に抵抗した。情けないが、今はそれが精いっぱいで、とても被害者を救い出す余裕がない。


 河原の砂利の上を這いながら、細めた眼で殺人現場を目撃する。大きな背中が四つ、小さく揺れていた。実行犯はもう居ないのだろうか。


 鼓膜が振動をキャッチする。タッタッタッ…と、規則性のある足音が聞こえてきた。誰かこちらに向かって来るようだ。


 四つの影は動きを止めた。一人がのそりと身体を起こし、他の者たちもそれに習う。姿勢を変えた連中の足下には、横たわる女の子がいた。翔子とそう変わらない年端の、人間の娘だ。


 ―――なんてことだ! まだ、子供なのに…。


 ギリギリと奥歯を噛みしめながら、無力な自分に嫌気が刺していると、連中は音を立てずに後退し、川の中に入っていった。異変を感じ取った通行者が近付いてくる。


 これだけの血の匂いだ。風下にいれば、鼻が効く人間に気付かれても不思議じゃない。


 頭部にライトを付けた男。上下のウインドブレイカーを着た男性だ。そいつが息を切らせてやってきて、転がる死体に目を向けた。スニーカーで砂利を踏む音からもただの人間だということを証明している。彼は少女の死体の傍まで来ると、覗き込むように前のめりになった。一拍置いてから情けない悲鳴をあげたと思うと、来た道を慌てて戻っていく。身体のバランスを失ったように、ふらつきながらも必死で…。


 それもその筈だ。彼の傍には、闇に潜む者たちが迫っていた。恐怖が闇を赤く染める。連中の一人が、男性の背後に近付いた。が、寸前のところで諦めたように立ち止まり、見送る。私はその一部始終をハラハラしながら見ているしか出来なかった。


 ―――発見者をそのまま行かせた? 


 連中が何を考えているのか、興味が沸いてくる。


 それから、川の中に残っていた三人が少女の死体に近付いて、今度は服を整えているかのような作業を始めた。ここからでは遠過ぎて、それほど良く見えるわけじゃない。でも、なんだかとても悲しい気持ちになった。


 再び、足音が近付いてくるのがわかった。


 この足音の主を、私は知っている。


 啓介だ。


 ―――智樹を送るために家を出て行った彼が、どうしてここにいる?


 わざわざ遠回りして、翔子のレイプ事件の現場に寄ったのかもしれない。


 四人組は再び水の中に下がっていく。死体からわずか三メートルばかりの距離で立ち止まっている。そこに、のこのこやってきた元刑事の啓介が、遺体に懐中電灯を向けてしゃがみこんだ。


 四人のうちの一人が、啓介のそばにそっと近付く。


 ―――啓介に指一本、触れさせるもんか!


 今、出て行くべきか。迷っている暇なんてない。


 立ち上がり、静かに近付いていく。啓介はなにを見ているのか、遺体のそばを離れない。敵の手が伸びようとしていた。


 駆け出す。


 川の上流から流れる風が乱れた。


 一人が、私に気付いた。


 啓介が立ち上がる。


 こちらに向かってくる敵が立てた石を踏む音で、残り三人が一斉にこちらを向いた。


 殺気が迫る。


 衝撃に備え、全身に力を込める。


 大きな塊が飛んできて、体当たりされた。


 左腕に食らいついたそれは、狂暴に牙をむいた狼の頭部だ。


 黒い瞳。


 顎の力がすさまじく、腕の骨が折れる音と共に激痛に襲われ、呻き声を我慢した。


 私はそいつを道連れに、川へと転がり込んだ。


 渓流の立てる水音に紛れて、川底へと沈んでいく。


 根気比べだ。


 水中に沈んだ私達は、揉み合いながら押し流されていく。


 他の奴が追いかけてくる気配はない。


 息が苦しくなったらしい狼は、私の腕から顎を離して浮上していった。


 その隙に、私は水を掻いて対岸へと浮上し、逃げた。


 岸へと上がると、すぐに走り出す。


 全速で距離を開けなければ、次の一撃で殺される。


 死に物狂いで雑木林に飛び込んだ。


 そして、無事な右手だけで先程と同じ要領で木の上に飛び上がり身を隠す。


 背の高い古代樹の近くまで移動して、葉が落ちない針葉樹の太い枝の上によじ登った。雑木林を見下ろす位置まで行くと、対岸の死体を確認した。が、すでに連中に運び出された後だった。


 四人組は来た方向へと戻る最中で、死体を抱いて走り去ろうとしていた。啓介の姿は、もうどこにもなくなっていた。



 左手がだらりとあらぬ方向に折れ、力なく垂れてしまっている。右手で左手を掴み、食いしばる歯の隙間から呻き声を漏らしながら、折れた骨をまっすぐに戻す。そこからは時間との勝負だ。


 体力を大幅に持っていかれるけれど、この怪我を啓介や医者に診せるわけにはいかない。犬に噛まれたら狂犬病や破傷風の注射を打たないといけなくなるとか、そんなこと思い出したが、たぶん問題にはならない。消毒は必要。だけど、過度の消毒は返って治癒を妨げることがある。患部を元の状態に戻すことのみを念じて、目を閉じた。


 前にもこうして怪我を治したことがある。一晩で大抵の怪我は治ってしまうけど、その代わり沢山食べなくてはいけなくなる。人として食べるものの中で、唯一食べられないのは血が滴るような肉だ。私から理性を剥奪しにかかってくる赤身の濃い肉だけは、目に入れるのも怖い。なのに、怪我を治す時に最も食べたくなるのは、赤身の肉だけ。一度も食べたことがないのに、思い出すだけで涎が出てくる。


 獣に近付く自分なんか、見たくない。


 腕の痛みだけじゃない苦痛に悶絶しながら、涙に濡れていく。


 濡れた服に季節代わりの冷たい風を容赦なく浴びていると、ここで凍え死んでも良いのかもしれないという投げ槍な気分に支配された。


 生きていける自信を失くして、声を上げてさめざめと泣きたくなる。


 悲しみに沼に沈みながら、むせぶように泣いた。


 こんな時、一人がとても辛い。


 誰かに傍にいて欲しい。


 抱きしめて欲しい。


 手を握ってくれるだけでも良い。


 名前を呼んで欲しい…。


 溢れる感情の波は変わるがわる私の心を弱くした。手首だけがやけに熱く、そこに沢山の血が集められ、急速に回復していく様子をイメージする。


 食べることができなければ、自分自身の筋肉を消耗するようだ。怪我は治癒できても、体力をごっそりと持っていかれて急速に眠りに落ちて行った。



 真っ白い世界に私は倒れていた。


 起き上がり、三百六十度見渡すけれど、何も見えない。左腕の接合部は青紫色になりつつも、傷は塞がって骨もくっついている。


 寒さも熱もない、静かな世界。


「…アン…」


 鈴のような音色で、名前を呼ばれた。


 もう何年もその名で呼ばれたことなんて、ない。


 当の本人でさえ忘れかけていた名前を呼ぶのは、誰だろう?


 周りを探しても、声の主は現れない。


「…アン…、辛い時は思い出して」


 すぐ傍から、声がした。


 振り向くと、目の前に居たのは。


 私と同じ顔をした、少女。


 赤いドレスを着た、人形のように美しい、私のお姉さん。


「…ミア?」


 彼女は額から血を流しながら、唇だけで微笑んだ。


 ビクン、と全身が震えて、目が覚めた。


 目を開けているのに、まだ目に焼き付いている。


 恋しくて、寂しくて、瞳には熱い涙が溢れ出す。


 私のせいで死んだ、ミアが会いに来てくれた!


 だけど…。


 恨めしそうな目。


 血染めのドレス。


「ごめんね…。ごめんなさい…、ごめんなさい……」


 涙と一緒に、罪悪感でいっぱいになる。


 足手纏いの私のせいで、ミアは…。


 強く、なりたい。


 もう、守れてるだけじゃイヤだ!


「ミア! 力を貸して!」


 私を守る為に戦ったミアの雄姿を思い出す。死の恐怖に我を失っていた私は、ミアに頬を引っぱたかれたのだ。 


「生きるのよ! 生きて!! 死ぬことなんて、私が絶対に許さない!!」


 あの瞬間の、最期の声が今はっきりと蘇る。


 私は死ぬわけにはいかない。


 月が遠くで泣いている。


 雲に隠れた場所で、ここにいるよと叫びながら―――。



 呼吸を整えて落ち着いていく。左手首にはまだ痺れが残ってはいたけど、無事にくっついていた。噛まれた傷も綺麗に元通り。だけど、この左手をいつも掴んで私を守ってくれたミアを想うだけで、張り裂けそうなほど胸が苦しくて。


「ミア…。寂しいよ…、会いたいよ…」


 二人で逃げていた頃も、こうして良く木の上で夜を過ごした。


 雪が降る季節は、吹き溜まりの雪にかまくらを作って、そこで身を寄せ合って眠った。どんなに辛くても、苦しくても、いつもミアが居た。


 ミアを失った時、一人で生きていける気がしなかったけど、約束したから。


 なにがあっても、生きて幸せになる。それが、姉と私の誓いだった。

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