出会う意味 1 【智樹】
ミッドナイトブルーが闇夜に混じる深夜零時。半月が雲に隠された途端、猛烈な焦りに煽られていた俺は我慢ならなくなり、憤怒し、咆哮をあげた。当て所なく彷徨うようにしか探すこともできない己の無力感に苛まれ、他人の迷惑を顧みずに妹の名を叫んで叫んで叫んで、声が潰れそうになる。
どこの信号機も赤や黄色で点滅するばかりで、通り過ぎる車はほとんど見かけない。
普段、水量が少ない川に掛かる橋は全長百メートルと少し。赤いペンキに塗られた橋桁と銀色の欄干。途中二か所に設けられた道路灯はどれもチカチカと怪しく点滅し、不穏な空気を孕んでいる。そんな場所で、薄暗い光を浴びて浮かび上がる背中を見つけてしまった俺は、すぐに不思議な予感に囚われた。
*
水面に出る直前。さらに想像を超える力で、グイッと引っ張り上げられた。俺の襟を鷲掴みする彼女は見た目からは想像もできないほど強力で、助けに向かった俺の方が助けられるという無様な状況に陥っている。
水を吐き出して空気を取り込もうとしても、咽て苦しい。それでもなんとかして片目を開けると、目の前には美しい横顔が在り、状況もそっちのけでつい見惚れてしまう。
銀色を散りばめた深い漆黒の瞳が俺を一瞥する。何か言いたげに、僅かに口を開いた。でも、まだ激しい流れの中にある俺達は、言葉を交わせない。
彼女のすさまじい泳力のおかげで、俺は命拾いしている。流されながらも川岸に向かっていく。パーカーの首元を掴まれ、子犬のように連れて行かれるしか出来ない俺は、かなり格好悪い。立場が逆転している。こんなはずではなかったのに。
昨日まで降り続いていた長雨によって普段の倍以上の水量になっていた川は深く、俺は川底にぶつかることなく骨折を免れている。欄干から水面までの距離はおよそ十五メートル程もあり、推定時速180キロで水面に突っ込んだ計算になる。手足がもげても不思議じゃない。正常な判断能力を欠いた狂気の行動に、とにかく自分でも驚くしかない。
岸辺に辿り着き、そこからは自力で這い上がって行ったが、彼女は疲労した様子も見せずに涼し気な顔をして立ち上がった。
すらりとした手脚に張り付く服が、その鍛えられた肢体を浮き彫りにしている。
「…バカなことをしたね、あんた」
予想を超える可愛らしい声に、じわりと熱い感動が冷えた身体の奥で弾けた。
「打ちどころが悪いと死ぬよ。まったく、何考えてんだ。私のことを助けてくれようとしたのかもしれないけど、余計なお世話だったね」
辛辣な言葉使いが、声に似合っていない。そのギャップに、驚き以上に感動してしまった。
俺の身体の全細胞がざわざわと賑やかに騒いで、正常な思考を邪魔しにかかる。これが興奮というものだと気付くのは、もっとずっと後。とにかく今は、鈍感な部分に血が通い出した時の奇妙な疼きが痒くて、身体の奥を掻きむしりたくなる衝動に駆られ、戸惑った。
俺は、彼女という存在に見惚れ、聴き惚れ、一切の思考を止めて集中した。
どうしてこんなことが起きているのかわからない。
夢でも見ているんじゃないのか。
そんなことを咄嗟に思い、頭を振って目をぱちぱちさせる。返事するなんて、とてもじゃないが無理だ。
彼女が実在する人間だと信じることができない。なぜかできない。
そんな俺の葛藤など知る由もない彼女は、冷たい視線を俺に浴びせてながら呆れたようにつぶやいた。
「反応なしか。しょうがない奴…。悪いけど、もう行かなくちゃ。あんたに構ってる暇なんてないんだ。自力で帰れるよな?」
「待ってくれ!!」
俺は背を向けようとした彼女を引き留めていた。次の言葉なんて用意していないのに。でも、咄嗟に出てきた言葉に俺自身も驚くことになる。忘れていたものが、自動的に口をついて出てきたのだ。
「妹を、俺の妹を見ていないか? ずっと探してるのに、見つからないんだ!」
彼女は片目をしかめ、唇を舐めた。目を鋭く横へ流すと、耳を澄ませるように後方を気にしている。
「…だったら、あれがそうかも」
そう言い残して、まるで忍者みたいに素早く走り去ってしまった。
俺は水に濡れて重くなった身体を、やっとの思いで立ち上がらせる。脚がまだガタガタと震えていて、すぐには使い物になりそうにない。彼女との差に愕然とする。
粗い砂利と伸び放題の雑草が生い茂る河川敷の獣道を、よろめきながらも懸命に歩いていく。彼女の残像と意味深な台詞が情けない俺を奮い立たせている。「あれがそうかも」と言った真意を、確かめなければいけない。何か悪いことが起きている。それだけは、はっきりと感じていた。
しばらく進むと、どこかからともなく男の悲鳴が上がった。しかも一人じゃない。立ち止まって息を殺し、聴覚を研ぎ澄ませたが。もう静かだ。音がした方へと草を分けながら進むと、やがて開けた場所に出た。
彼女は背中を向けて立っていたのだが、俺に気付いて振り向くと「あんたの妹か?」と聞いた。驚いたことに、その細腕で自分と変わらない体格の少女を横抱きしている。しかも、抱かれている少女は―――。
「翔子!!」
汚れて破けた制服。グッタリして、まるで死んでいるような肌の色…。
俺は震えながら戦慄した。
気が遠くなりそうで、なんとか踏み止まる。
―――訳がわからない!
俺は自分の頬をひっぱたいていた。痛い。…夢じゃない。
彼女は気絶していると思われる妹を、まるで子供のように軽々と抱いて歩いてくる。そして、当たり前のように俺に手渡そうとしたが、今の俺には弛緩する妹を抱き上げる程の力は出ない。そのことに気付いた彼女は、チッと舌打ちをして「しょうがないな」と悪態を付きながら俺の横を素通りした。
「ついさっきまで、そこで三人のくそ野郎共にレイプされてたんだよ」
彼女は落ち着き払った声で、衝撃的な言葉を口に出した。最悪だ―――。
開いた口が塞がらないまま彼女を追いかけようとして、躓いて派手に転んでしまった。石で手を切って掌に血が滲む。
「しっかりしろよ。急いで病院に連れて行かなくちゃ! 一刻を争うんだから」
頭の上から叱られ、俺は我に返って立ち上がった。そして彼女を追いかける。
狼狽えるしか能がない自分に腹が立ってくる。
一度、頭の中を整理したくなり、歩きながら一人反省会を始めた。
家庭教師のバイトを終えて帰宅したら、いるはずの妹の姿が見えない。家中どこを探しても見当たらず、俺は焦った。
最近の妹は、基本俺をうざがって話を右から左へと聞き流していた。露骨な反抗的態度ではないが、明らかに反抗期のものだ。
良好とは言い難い関係ではあったけど、黙って外出とか家出とか、そんなことはこれまで一度も無かった。だから俺はすぐに携帯端末を出して、翔子の携帯端末に電話をかけた。
電源が入っていないという音声が無情にも流れ、俺は勢いのまま夜の街に飛び出していた。
翔子の友達関係も把握できていないため、行きそうな場所を手当たりしだい歩き回った。そこに、あの不思議な存在が俺の前に舞い降りたのだ。
全身黒ずくめの服が似合い過ぎる骨格、二次元から飛び出したような美少女顔、一度聴いたら忘れられない魅力的な声。さらには並外れた身体能力と、自分より体格の大きな子を抱いて歩けるという怪力…。
俺はそのミステリアスな後ろ姿をまじまじと観察した。引き締まったお尻に目が吸い寄せられてしまう。
歩き方に違和感を感じさせない。重力を無視したように、軽々と翔子を運んでいく。それにしても、さっきから彼女の影が大きくなったり小さくなったりしている気がして、俺は目頭を指で押さえながら瞬きを繰り返した。
頭がショート寸前なのだろうか。落ち着け、俺。
これ以上の醜態を、彼女の前で晒したくはない。俺がやるべきことを全部やってくれている彼女に対するこの気持ちは、一体何なんだ?
翔子のことだけを考えろ! そう、自分に言い聞かせていると…。
「もしかして今、自分を責めてる?」
鋭い一言が、やわなハートに突き刺さった。
「今すべきことだけを考えるんだ。連中はあんたの妹の自由を奪って、避妊もしないでレイプしてる…。そんな獣の子を孕ませたくはないだろ? 子供、産めなくなったらそれこそ悲劇だ。病気の心配もあるし…。とにかく時間がないんだよ。わかるな?」
俺は叱られた子供のように何度も頷いた。
彼女は冷静そのものだ。頼もしいが、残酷でもある。
高校一年の妹の身に起きたことを、こうも淡々と語られるなんて…。
ここで漸く、俺は思い出したようにポケットから端末を取り出した。防水という触れ込みで購入した携帯端末は、いくらスイッチを押しても起動してこない。強い衝撃のせいで壊れてしまったのかもしれない。
「この先にコンビニがある。そこで救急車を呼んで貰う。そこから先は、あんた一人でも出来るよな?」
「…え?」
俺は情けない声を上げてしまった。彼女はハァッと大きなため息を吐いた。
「しっかりしろよ。あんた、いくつ?」
「…十八です」
「ふぅん、じゃ。もう大人に片足突っ込んでる…。親は?」
「母親はもう死んでる…。親父は海外で仕事」
「そっか。じゃ、あんたが頑張らくちゃな。大黒柱って言うんだろ?」
「………」
土手から国道に出る直前で、彼女は立ち止まり俺に翔子を手渡そうとした。やっと痺れや痛みから回復した両腕で、ずっしりと重い妹を一度は抱いてみたが、とてもじゃないけど横抱きには出来ず、俺は彼女の手を借りて翔子を背負うことにした。
「悪いんだけど、私はもう行く。警察沙汰に巻き込まれたくないんでね」
「ちょっと、待ってよ! …名前は?」
「…名乗るような名前なんてないし」
「俺は、永島! 永島 智樹だ! 高校三年」
「…自分が名乗ったからって、私が答えるとでも?」
彼女は、可笑しそうな声を出した。
真っ暗闇の土手で、僅かばかりの月明かりに照らされた白い顔が、可憐な笑顔の花を咲かせる。
「……私は、あみ。この辺りに住んでる。じゃあな、イケメン。妹とがんばって」
そう言い残して、彼女は踵を返すと駆け足で立ち去ってしまった。
ずぶ濡れの俺が、ボロボロに引き裂かれたセーラー服姿の妹を背負ってコンビニに辿り着くと、年配の女性店員が驚きのあまり顔を強張らせていた。
「救急車を呼んでくれませんか?」と、助けを求めると、やっと動き出す。さっきまでの俺と同じ。人は驚きが勝ると、何も出来なくなるらしい。
親切な店員に毛布とバスタオルを借りて、俺達兄妹は救急車の到着を待った。