失われた環 2 【啓介】
「ただいま…。変わったことは無かったか?」
娘は首を振って応えた。折れそうなほど細い首が、肩まで伸びた髪の隙間から見える。俺が手を伸ばすと、彼女はスッと後ろに下がった。その瞬間、金縛りにかかったように俺は動けなくなる。
「あみ?」
やっと声を振り絞ると、彼女は俯いたまま前髪の隙間からこちらを見つめた。様子を伺うような目で、俺を見ている。
「…啓介こそ、何があったの? なんか匂うんだけど」
「匂い?」
咄嗟に自分の匂いを嗅いでみたが、微かに土の匂いがしていた。次の瞬間、あみが身を乗り出してきて俺の匂いを嗅ぐ仕草を見せる。その表情は険しい。嫌な予感めいたものが、身に迫っているような気がして、俺は笑った。
「トンネルが崩落した現場の近くに居たせいだ」
「…そうなんだ」
思いの外冷静な返答だ。つい、あみの顔をじっくりと見つめてしまう。
「驚かないんだな?」
「テレビでやってたから」
いやいやいや…。やっていたとしても、そこに俺が居たと知れば普通なら驚くところだろう。なぜこうも落ち着いていられるのだろうか?
あみは何事もなかったように部屋の奥に戻っていく。去り際にふわりと湿った石鹸の香りを残している。俺は靴を片付けてスリッパに履き替え、そのまままっすぐに洗面所に向かった。土の匂いが濃厚に残っている。まるで飼い犬を洗った時のような、そんな匂いだ。洗濯機の蓋を開けてみると、水の中に黄土色の衣類が沈んでいた。まさかと思いながら、それを掴み上げてみる。
「…なんで、これが」
それは間違いなく俺のコートだ。今朝、確かにこれを着て外出したのだ。一度も脱いだ覚えもない。洗剤を置いている棚には、財布とタバコとライターが置かれている。
あみの部屋に行くと彼女はベッドに寝そべりながら読書していた。大きなトレーナーは俺のおさがりで、半ズボンの部屋着を履いている。白い足首を揺らしながらすっかりくつろいでいる。
「ちょっと、良いか?」
「なに?」
こちらに目もくれず、そっけない返事だ。その態度に違和感しか感じられない。そういえば、あみの靴を見ていない。靴箱の中にも、マットの上にも、ない。
「今日は外出したのか?」
「…したけど」
「靴は?」
「嗚呼、それね。転んだら穴が空いちゃったから、捨てた」
俺は確信した。
致命的に嘘が下手なあみを見下ろしながら、一旦落ち着こうと考えて何も言うまいと口を閉じることにする。
ドアのない僅かなスペースに、天井まである収納棚で仕切り一台のベッドと小さな机セットのみ。模様替えしてから二か月経とうとしているのに、あみは物を所有するという感覚がないようだ。図書館で借りて来た本が並べられるだけの本棚を眺め、かける言葉も思いつかず、無言で退散することにした。
その足で自分の仕事用の机に向かう。引き出しの中段には三冊の手帳がしまってあって、そのうち一冊はあみとの生活の中で発見したことを綴る日記帳だ。俺はこっそりと記録している。時々読み返して、あみという存在の不可解さを噛みしめるだけのノートになってしまっていることに一抹の不安を覚えながらも、記録は大事だと自分に言い聞かせた。そして五ページしか記入していないノートを捲る。前回、俺が書いた一文はこうだ。
九月十六日。レストランで食事したとき、あみは匂いを嫌った。特に変わった匂いはないのに、その嫌がりようはひどかった。何の匂いなのか、せめて教えてくれたらいいが、ボキャブラリーが乏しく、どうにもならん。
八月二十九日。あみが名前以外のことで話した。なにも思い出せないとのこと。だが、時々とても恐ろしい夢を見るのだという。そんな時は俺と一緒に眠りたいと言う。嬉しいことだが、肉付きが良くなってきたあみとの添い寝に少しばかり罪悪感を覚える。悪夢の時だけは仕方があるまい。
八月八日。朝から大雨。それなのにあみは猫探しに出掛けた。水に濡れることを嫌う動物だが、人間だってそれは同じ筈なのに。あみは外に出るのが好きらしい。
八月二日。寝返りが激しく、俺の背中に悪いため、あみにベッドを買った。上に空いている部屋があるのに、あみが一人部屋は嫌だと言うから、仕方なく俺の寝床を切り分けることにした。書棚を向こう側に設置してベッドと机を設置すると、これで十分だと笑顔が出る。最近は猫探しも板について、評判もうなぎ上りだ。
七月二十六日。食事の量が増えた気がする。魚を良く好み、缶詰を沢山買わされた。焼き立てのパンを買って食べたら、かなり気に入ったらしい。食べているあみを見ていると、こっちまで幸せな気分になる。
七月十九日。白い服を着た女が夜中に、防犯カメラに二度も映っていた。気味が悪い。
六月三十日。検査結果に大きな問題はなかった。体重が五キロも増えていた。
六月二十二日。名前を漸く教えてくれた。あみ、あみ、と繰り返しつぶやいていた。記憶は依然として思い出していない様子だ。ジャーキーばかりを食っている。
六月十五日。トイレの便座が壊れた。どうやればあんな壊れ方をするのか…。
六月十三日。あさみは寝ぼけながら手足をばたつかせて暴れる。悲鳴のような呻き声をあげる。余程怖い思いをしたのだろうか…。
六月五日。病院にて、メディカルチェックを受ける。うちに来てからほぼ寝てばかりいるあさみ。髪を切ると、あさみの面影がより強く感じる。
五月三十一日。俺はどうかしている。でも、あの子を放っておけない。彼女を救いたい。
遡って読み返すと、何とも物足りない内容にため息が零れる。十年前の俺が見たら、鼻で笑いながら「記録って意味わかってんのか?」と説教したくなるレベルだ。でも、今はそんなことを言ってなどいられない。問題が起きている。だが、俺はその問題を文字にすることがどうしてもできない。佳純に指摘された通り、七年前の消えた遺体の少女があみかもしれないなんて…。ハッとして、自分の思考を打ち消すべく頭を叩いた。
考えてはいけない。気にしてはいけない。その謎を解いてはいけない。
俺はもう二度と、家族を、失えない。
あみを見つけた時の気持ちが、鋭い切っ先を突き付けながら囁くのだ。拾った命は最期まで大事にしなくちゃな、と。どんな事情があろうとも、俺は一度決めたことを二度と曲げたくはない。結婚生活に自信はないが、父娘ならうまくやっていけるような気がしている。
突然、冷やりとしたものが背中に触れて、俺は飛び上がった。振り向けばあみが俺の背中の傷に何かを塗っているところだ。
「怪我してたんだな…。ちゃんと手当てした方が良いよ?」
「…っくそ。驚いた。まったく、お前は気配を消すのが上手いよな」
「そんなつもりはないんだけど」
あみは不服そうな低い声でつぶやいた。
それから、熱くて美味い珈琲を淹れてくれたり、俺の本棚の本の感想を聞かせたり、あみにしては珍しいぐらい俺のために時間を割いた。いつもなら、自分の興味が沸かないことなら素っ気なくそっぽを向くのに、妙に優しい。意図的な優しさは後ろめたいことや気遣いの表れだと言う。何を隠してる?
いや、ダメだ。あみとこれからもずっと生きていくなら、気にするな。何もかもを失いたくないのなら、あみをまるごと全部受け入れるんだ。そうじゃないと、本当にまた一人になっちまう…。
視線を感じ、そちらを向けばあみが俺のことを盗み見ていた余韻が、空気の中に残っている気がした。
「なぁ、あみ。何か、思い出したのか?」
聞いてはいけないとわかっていながら、俺はまたいつも通りの質問をぶつけた。そして、
「思い出したくないのなら、無理に思い出す必要なんてないんだ。お前はずっとここにいてくれて良い。もう、戸籍の上では俺の娘なんだから…」
あみは膝の上に顎をのせたまま、じっと耳を澄ませているようだ。ぴくりとも動かない無表情にヒヤリと冷たい汗をかく。俺が上手に嘘を吐いても、あみは全てを知っているような顔をして、しばらく何も言わずに目と目を合わせてきた。
本当に、美しい少女だ。黒い服しか選ばないあみに、白いシャツを渡すと青ざめたり、赤いブラウスを選べば断固として首を横に振る。頑固で融通の利かない性格なのに、柔らかく俺の心を捕まえてくる。
何を思ったのか、黒いトレーナ―に白い素足をすっぽりとしまい込んだ姿勢が、急に変わる。ソファーの上に立ち上がったあみは、突然腕をクロスして服の裾を掴んだと思ったら勢い良く上に持ち上げた。
「なにしてんだ?!」
俺は慌てて目を反らし、あみに背を向けた。一瞬、あの白い身体を這う怪しい傷が目に飛び込んできた。赤黒く腫れているような異様な傷痕だ。ゴクンと唾を飲み、あみの言葉を待つ。
「こっちを見て。啓介」
静かな命令だ。言うことを聞きたくなっちまいそうな、そんな懇願だ。俺を耳を塞いだ。
「この傷が疼くんだ。痛む時もある。そんな時は決まって、夢に見た女が私の近くにいる気がする」
「夢に見た女?」
指の隙間から入ってくる言葉を拾い、あみの言いたいことだけに神経を尖らせた。ショーツ一枚の姿になったあみが、右手を腰に当てて立っている。スラリとした手足が長く、日本人だけじゃない血を彷彿とさせる美貌だ。
「頼むから、服を着ろよ?!」
「どうして? ここに来た時はあんなに私の裸を見たくせに」
「それは、怪我や病気がないか調べるためであってな!」
「父と娘なら、裸を見せ合ったって全然おかしくないんだろ?」
「おかしいんだよ! 年頃の娘の裸をわざわざ見たがる親父がいたら頭がオカシイんだ!」
「…お願いだから、こっちを見てよ。話を聞いて欲しいんだ。啓介」
あみの剣幕に圧されて振り向くと、全裸ではなかった。あみは黒いタンクトップを着て、それを胸の下あたりで結び付け、ズボンをずり降ろしているだけの恰好で待っていた。
「傷が変わってきたみたいなんだ」
「…傷が変わる?」
そう言われて、俺はやっと身を乗り出してあみの腰回りを観察した。赤黒い腫れた傷痕の太さが、言われてみれば細くなった気がする。
「治癒の途中なんだろ? 傷が小さくなれば言うことないだろ」
「そういう問題?」
あみは呆れたように言い捨てる。
「夢に見た女を、一度だけ見たんだ。ボクシングジムのウインドウの向こう側から、こっちを見ていた。明らかに私の方ばかり、見てた。その時、この傷がズキズキと疼きだして恐怖を感じた…」
話が飛ぶのは、あみの癖のひとつだ。
「たぶん、ずっと前から何度も夢に現れる女がいる。彼女が誰なのか思い出せないけど、私に強い憎しみを持っている。夢の中だけで、あいつに何度も命を狙われた」
「命を狙うって、どんな風に?」
「追いかけてくるんだ。それで、必ず最後には車で轢かれて死ぬ…」
俺はゾッとした。車で轢かれて死んだらしい姉妹を思い出し、すぐに打ち消す。
「…お前がか?」
「違う。一緒にいた人が、私を守ろうとして庇ってくれるんだ…」
あみは珍しく悲しみを発露した。泣き崩れそうな彼女を思い余って抱きしめてやる。小さな身体は震えていた。
「女は車から降りてきて、怪我して動けない私に向かって叫ぶんだ。私の家族を返せって…」
ゾクゾク―――。
悪寒が走り、息が詰まる。
悲鳴交じりの女の叫び声が、頭の奥で反響し始めた。
――― 家族を返せ! お母さんを返せ! 返せ!
あみを抱きしめる腕に力が入ると、苦しそうに「啓介」と名前を呼ばれた。するりと腕から逃げ出したあみはトレーナーを着た。
「寒い、ストーブつけても良い?」
それは、朝晩の冷え込みが厳しさを増し始めた秋の夜のことだった。