失われた環 1 【啓介】
俺を呼ぶ声がして振り向くと、そこに亜沙美がいた。
結婚した頃の若さと美しさがある彼女に見惚れながら、力いっぱい抱き締める。くせのない黒髪がなびくと、懐かしい香りがする。
離さない。今度こそもう二度と、離さない。…そう思うのに、腕の中の彼女の感触が急に無くなってしまった。
名前を呼びたいのに、声が出ない。まるで、唇を縫い合わされてしまったように、動かすことができない。
亜沙美は俺を見上げるように顔を寄せてきて、悲しげに微笑んだ。そしてそのまま透明になって、見えなくなる。
俺は、ただ無力だった。
*
目が覚めた。薄暗い照明を見上げ、辺りを見渡す。見覚えのある部屋だ。
ピントの合わない目で周囲を見渡すが、誰もいない。起き上がろうとすると首に痛みを感じ、右手でそこを押さえる。ヌルヌルとした液体が指に付着して、おぼろげな目でじっと見つめた。充分な灯りがないせいで、よく見えない。痛みに歯を食いしばりながら体を起こすと、ソファーで寝ていたのだと気付いた。
どうしてこんなところにいるのか、やはり思い出せない。最後の記憶を手繰り寄せるように、記憶の扉を開いていく。
トンネル崩落事故の現場が浮かんだ。雨が降っていた。それから、が、空白だ。直後から翌朝までの記憶がすっかり綺麗に消えている。集中して思い出そうとしても、やはりなにも思い出せない。
窓の外を見る。ガラスの向こうは薄暗かった。どうやってここへ辿り着いたのか、一切の記憶がないというのも奇妙だ。見れば右手には事務所のデスク裏に隠してあるはずの銃が握られていた。なぜ、これがこんなところに?
次第に身体中が軋むように痛んだ。あちこちに擦り傷があり、着ていたコートはズタズタのボロボロになっている。靴を履いていなかったのか、足の裏が傷だらけで乾いた泥が付着している。
立ち上がるとボトボトと足下に何かが落ちた。見ればそれは血の雫で、自分の身体から落ちたものだと気付くのに数秒かかった。
銃をテーブルの上に置き、コートを開けるとシャツが真っ赤に染まっている。震える手でおそるおそる服を捲ると、胸に立て筋の傷がついていた。浅い傷だが、血はまだ止まっていない。
俺はハッとした。
この傷のつけられ方には覚えがある。そう気付いた瞬間、尻の穴から背筋を頭のてっぺんに向けて一気に電流が走った。俺は咄嗟に銃を掴み、乱れた息を止めて周囲に気を巡らせ、身構えた。
何が起きているのか、わからない。
だけど、これだけはわかる。
俺は、食われるところだったのだ。
内臓をごっそりと持っていく怪物が、まだすぐ近くに潜んでいるかもしれない。
自分の浅い呼吸音が静寂をかき消してしまう。
でも、息をしなければ死んでしまう。
乾いた口の中の唾をかきあつめて飲み込んでも、カラカラに乾いた喉が俺の注意力を削いでいくようだ。
死角になる場所に銃口を向け、クリアしていく。
黒く塗りつぶされた碁盤を、白に置き換えていくような地道な作業だが、油断は最も危険な敵であることを俺は身をもって知っている。
依頼人家族の姿がない家の中は、俺以外無人と化していた。箪笥が半開きで家捜ししたような痕跡がある。家族は出て行ったようだ。俺は思い出したように携帯端末を探したが、どこにもない。
―――落としたのだろうか…。
台所に行って水道水を汲んだコップを仰いでいると、砂利を踏むような足音が聞こえた気がして、動きを止めた。
咄嗟にしゃがんで耳を澄ませる。足音は壁の直ぐ外を移動していく。まるでこちらの気配を探るような用心深い動きにさえ感じる。微かな砂利を踏む音を、俺の耳はしっかりと感知した。全神経を使えば、魚群探知機のように相手がどの角度に居るのかも、不思議と手に取るようにわかる。それは、昔からだ。
気配はしばらく佇んだ後、いつの間にか消えた。
家の中にあった変な気配も、急に空気が変わったみたいに落ち着いたところで、俺は改めてシャツを捲り上げる。服には大量の血が付着しているというのに、なぜか身体には傷ひとつなくなっている。
頭を抱えて首を振った。まだ、夢を見ているのか…。
それにしても喉が渇く。再び台所で水を飲んでいると、どこかで着信音が聞こえ始めた。玄関の靴の横に落ちていたそれを拾い上げると、事務所からだ。留守番電話が転送されてくるのだが、今は応答したくない。俺は呼び出し音をやり過ごす。
その音を聞いているだけで、妙な眩暈を覚えた。目を閉じた途端に、いきなり何かが目の前を過り、冷たい予感に全身を支配される。
―――見てはいけない、聴いてはいけない、何も知らない方が良い。
急に全身が重たくなった。立っていられずにその場に座り込んで、キッチン扉に凭れる。凍えそうな寒さを感じていた。
急に、大きな音がして飛び上がる。佳純だ。
「啓介さん!?」
彼女の顔がすぐ目の前にあった。真上から覗き込む佳純の髪が、俺の顔にかかっていて擽ったい。
「…良かった!」
彼女は俺を抱き上げ、首に腕をまわして抱きしめた。俺の好きな香りがする黒髪は冷たくて、その中に隠れていた耳や首がとても暖かい。
目をしっかりと開け、景色を眺めてハッとする。森の中で、俺は倒れていたのだ。
「どうしてこんなところに?」
「それはこっちの台詞! 携帯のGPSを使ってあなたを探したのよ! なんですぐに電話に出ないのよ?! 心配するじゃないの!」
切れ長で大きな目をさらに吊り上げて、佳純は怒鳴った。彼女にはいつも、心配ばかりかけてしまうなぁ、とぼんやりと思う。
「立てる? 怪我してない?」
そう言われて、やっと自分の体に意識を向ける。服は濡れているし泥だらけだし、落ち葉や雑草が無数にくっついている。一雨ごとに深まる秋の山道は、陽が暮れたら寒くて命に係わることも想定しなければならない。何が起きて、こんな場所で倒れたのか今度こそしっかりと思い出そう。そう思いながら、立ち上がる。
「上着はどうしたの?」
言われるまで気付かなかった。俺が最も気に入っているコートが、ない。白いワイシャツにサスペンダーとスラックス、そして革ひもの革靴を履いている。それだけだ。家や車のキー、それに財布がポケットに入ったままコートが消えている。これは一大事だ。
「…わからない」と言いながらも、何かを思い出しかけていた。足音を聞いたのだ。木々の隙間を大きな影が移動していくのを見たのだ。だから、追いかけた…。そして、突然背後から押し倒された。振り返った瞬間、大きな白い牙が見えた気がしたが、その辺りはもう夢の中だったのかもしれない。
「血だわ!」
佳純が俺の背中を見て、悲鳴をあげた。
「もう止まってるけど、何で切ったの? シャツにも穴があいてるじゃない」
何も言えなかった。言えば何かを失ってしまう。不思議とそんな気がしたからだ。
佳純と二人で山道を降りていくと、崩落事故のあったトンネルの近くの国道沿いに出た。降りて来てから、どうしてこんな脇道に逸れたのか思い出そうとするが、頭痛が邪魔してそれどころじゃなくなる。気分が悪い。
救急車の傍まで佳純に連れて行かれ、怪我人を介抱している隊員が俺の背中の傷を診てくれた。
「何か刺さったような傷ですよ? 念のため、抗生物質を飲んだ方が良いでしょう。病院を受診してください。応急処置はしておきます」
カシャリと音がして、見れば佳純が俺の背中の傷を携帯端末で撮影し、俺に見せてきた。思った以上に大きな傷だ。
「…一緒について行きたいけど」
「お前には大事な仕事がある。その気持ちだけで充分だ。ありがとう、もう戻ってくれ」
佳純の手を握り返した時、鋭い視線が刺さった。見れば若い男が、攻撃色を帯びた目で俺達を睨んでいる。佳純がその男に向かって、怒鳴った。
「なに見てんのよ?」
「…あんたが、橘刑事か」
男が速足で近付いた。敵意を感じて、俺は臨戦態勢に入る。
俺と男の間に割って入った佳純が、男の胸を両手で押し返した。
「何なの? それ以上近付くな! 相良」
「もう刑事じゃない」
俺が相良と呼ばれた男に向かって言うと、奴は表情を険しくした。
「辞めれば責任逃れが出来るとか、思ってんのか!」
「やめなさい!」
迫りくる相良を再び押し返し、さらに頬を平手打ちにする。
相良は佳純を睨みつけて、唇を噛みしめた。
「後で話を聞くから、もう行って」
静かに威嚇するような声でそう諭すと、相良は悔しそうに拳の指を鳴らしながら離れて行った。あの男、個人的な恨みでもあるみたいだ。心当たりがないわけじゃない。酷く嫌な気分になる。
「あいつ。私の相棒よ。相良仁人、相良匡人の息子よ」
相良 匡人という名前には聞き覚えがあった。だが、すぐには思い出せない。やはり気分が悪くなり、今はもうこれ以上の負担を強いられるのはごめんだ。
「佳純、悪いな。その話、また今度で頼む。俺は一旦家に帰ってから病院に行くとするよ。じゃあな」
そう言い残して、俺は歩き出した。携帯端末の電池はまだ二十五パーセントある。地元のタクシーに電話をかけて配車を依頼した。目についた看板の文字を読み上げ、待ち合わせ場所に指定したところで、ガードレールに腰掛ける。煙草が欲しいところだが、行方不明のコートのポケットの中だ。あれが見つからないなら、家の鍵もシリンダーごと変えなければ…。
スラックスのポケットに手を突っ込むと、硬いものがある。おもむろに取り出して目の前に持ってくると、驚いたことに曲がった五百円玉だった。どんな力をかけたら、これがこんなに曲がるのか…。
先程、佳純と下りた山道を上って行く風景が脳裏を過る。だが、すぐにまた強い頭痛が襲ってきて、俺は頭を抱えた。目の奥がジンジンと痛んで、熱っぽくなる。酷い疲れを覚えた。早くベッドに沈んで眠りたい。
耳鳴りと共に思い出した過去の中に引きずり込まれ、懐かしい顔と声が蘇った。
相良匡人は、俺がいた警察学校で世話になった教官だ。彼もまた、あの忌まわしい死体遺棄事件の一部となってしまった不運な男だ。頭部を失った遺体を発見したのは、確か家族だった…。
一般人の殆どには知らされることのない猟奇的な未解決事件は、確実に俺の身の回りで起き続けている。得体の知れない犯人が無力な警察を嘲笑っている気しかしない。法治国家にあって、無法者がわがもの顔で人を殺め内臓を盗む。様々な事件を目の当たりにしたが、社会の屑野郎が起こす事件にでさえ犯人の欲望や目的がある程度読み取れるというのに、この遺体損壊及び遺棄事件だけはどうしてもわからない。人間的な動機がまったく読み取れない。先ず、それが不気味だった。
いくつも起こる、似たようなケースの凄惨な事件現場。派手なパフォーマンスはなく、ただ静かに遺体を弔っているかのような痕跡が気になる。そこだけは人間味を感じさせた。内臓全部と頭部をごっそり奪っておきながら、死の尊厳を遵守する姿勢があるというのは、どういうことだ? それを考える前に、俺達捜査官はどうしても、ごっそりと綺麗に抜かれた内臓の行方について疑問と嫌悪を抱き、まっさらな頭や眼を持って捜査できずにいた気がする…。
タクシーがやって来て、俺のすぐ前で停車しドアが開いた。運転手が「橘さん?」と聞くので、俺は何の躊躇いも疑いもなくタクシーに乗り込む。車内は暖かく、座り心地の良いシートに身を預けて、すぐに目を閉じた。
夢の中とはいえ、俺の腕の中で儚く消えていった亜沙美を思い出したら、未だに涙が溢れ出て来る。彼女の幸せが俺の幸せだった。それは当時も今も変わっていない。
あまりにも起き過ぎたイカレタ事件のせいで、俺は人生をすっかり狂わされた。被害者達に共通しているのは防御創がないこと。相良匡人もまた、防御した痕跡なく空っぽの身体になって弔われていた。両手の指をしっかりと組んで腹の上に置かれ、着ていた服はさほど汚れてはいなかった。棺桶さえあれば、完璧な葬儀になりそうな雰囲気を漂わせた遺体の足下には、摘まれたばかりの野生の百合が献花されていた。
佳純の相棒になったあの若造が、父親の不審死の捜査を放棄したと感じて俺に不満を持っているのだろうか。だとしたら、それは誤解がある。でも、あながち間違いではないだろう。誰だって大事な家族が酷い目に遭ったのなら、せめて犯人を見つけ出して充分な罰を与えたいところだ。相良仁人はきっと、自分でそれを果たすべく刑事になったと言ったところだろうか。
いつの間にか寝てしまったのか、夢を見る暇もなく家に着いた。携帯端末のクレジットを使って決済し、狭いエレベーターホールにやってくる。木枯らしのせいで、足場に落ち葉が散乱していた。すぐ裏が雑木林になっていて、落葉の葉が舞い込むことは珍しくもない。
エレベータ―で二階に上がり、探偵事務所のドアを開けると温かい空気に包まれた。音もなく奥の部屋からやってきた娘が、心配そうな顔をして俺を見上げた。