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あなたの隣で眠らせて 2019版  作者: 森 彗子
第五章 恋に落ちて
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恋に落ちて 3 【智樹】

      *


 微かに煙草の匂いがするブラック・シートに寄りかかりながら、忌まわしい犯罪現場となった河川敷を見下ろせる道路をゆっくりと進んでいく。探偵の愛車はMazdaのCX-3。乗るのは初めてだ。SUVの中では小さめの車体なのに、重心が安定していて乗り心地がとても良い。


 あみは意外にも無防備に眠り込んでしまって、啓介さんの手によって彼女のベッドに運び込まれていくのを見守ったのは、今から丁度三十分程前。ソファーでうたた寝する彼女を抱き上げる時の、探偵の顔付きは、まさに父親だった。我が家との雲泥の差に、胸が詰まる思いがする。血を分けた父娘おやこよりも、血の繋がらない父娘の方がよっぽど親子らしいなんて…。


 仕事も大事だろうけど、子供よりも大事な仕事って何だよ?


 ここに居ない親父の悪口は言えない。どんなに悩んでも親父は変わらない。時間の無駄だ。もう考えるのは止めよう。



 啓介さんは目の下に隈があって、顔色も血の気が引いたように真っ白くて、それなのに俺を自宅まで送ってくれると言ってくれたから、厚意に甘えることにした。あみが眠りに落ちてからずっと、俺の身の上話を聞いてくれた探偵は優しくて、自分でも不思議なぐらい打ち解けて行った。翔子の事件についても親身になって耳を傾けてくれて、ただ話を聞いて貰うというだけで心のおもりが少しは軽くなった気がする。


 探偵の仕事について質問すると、彼は「俺はただ、消えた人を探すだけだ。でも、実際は他の仕事も舞い込んでくる。困ってる人がいたら力になりたい」と答えた。容易いことではないことを、この人は仕事にしている。そう思ったら、心の底から彼を尊敬してしまう。


「なぁ、智樹。お前のところも大概だが、うちはうちで問題を抱えてるんだ。お前らがどういう経緯で付き合うことにしたのかは、まぁ置いとく。でも、俺が気に入らないのは、あみのあの秘密主義なところだ。わかるだろ?」


 暗い河川敷に反った道路の交通量は、深夜というだけあってまばらだった。路肩に寄せられた車内からは、あみと出会った橋が見えている。午前二時になると消える橋の明かりを見つめながら、彼が謂わんとしていることが何か検討を付ける。


「まぁ、なんとなくわかります。彼女のつかみどころがいまいちわからないんで」


 顎を覆う無精ひげを指先で撫でている探偵の横顔は、険しい。遠くを見つめている目は、切羽詰まったものを匂わせる。


「…あの日。俺が帰ったら、あみはずぶ濡れの服をごみ袋に詰め込んで、シャワーを浴びていた。新品の服を嫌い、やっと見つけた古着屋の服を捨てるなんて、どう考えても不自然だ。洗えば良いのに、それはもう要らないの一点張り…。それに、あいつと入れ替わりで風呂場に入ったら、なんていうか…、血の匂いがした」


 血の匂いという言葉に生々しさを感じた。


 刑事が言っていたことを思い出す。あみは恐らく、レイプ犯三人のところに戻って復讐してくれたのかもしれない、と。でも、肝心の本人がそれを認めてはいない。それを啓介さんに話して良いのか俺は迷っている。あみを裏切ることになるかもしれない。


 黙っている俺の方に顔を向け、啓介さんは何かに怯えるような表情を浮かべていた。咄嗟に、ゾッとしてしまう俺。


「気になって本人に聞いたけど、あいつは心配なんていらないの一点張りだ。女は月に一度は血を流すものだよって抜かしやがった」


 驚いた。彼女は父親にも同じ態度を取っている。


 でも、すぐに思い直す。空を見上げた時の寂しげな横顔に、嘘は微塵も感じられなかったことを。あみは心配をかけたくなくて、本当のことを言わない主義なのかもしれない。狼狽える俺を恫喝し、翔子の身を一番に気遣ってくれた優しさは疑いようのない正しさを証明している。


「秘密主義…な気は、してました」


 俺は、そう答えるのが精いっぱいだった。


 彼女に隠れて父親に話をするのを、あみは望んでいない。俺は彼女を失望させたくはない。


「なぁ、智樹。お前の目から見て、あみはどう見える? 聞かせてくれないか?」


 車内のデジタル時計は深夜一時になろうとしていた。


 一番近くに居る筈の彼でも、あみは謎に満ちているのだろう。一緒に暮らしていながら、彼女をわかってやれないもどかしさと言ったところか…。


「わかりませんよ。俺だって…。まだほんの数回しか、会ってないし…」


「第一印象は? そんな深く考えなくても良い。感じたことを教えてくれ」


 啓介さんの剣幕に押されて、それなら答えても問題ないかと思い直した俺は、あの瞬間を振り返った。


 闇夜の中だというのに、異様なほど際立つ存在感。なんて言うのだろう。強いて言うなら、オーラが違うのだと思う。他の誰にもない凛とした姿勢や眼差しから、彼女はまるで何かと戦う戦士のようにも見える。


「あみは、何かと戦っているのかな…なんて」


「戦う?」


「変かな…。でも、妹を助けてくれた時の彼女はヒーローみたいに凛々しくて、茫然とそれを見ているしかできない俺に的確な指示を与えてくれたんです」


 雰囲気にされて、つい本当のことを話してしまったことにすぐには気付かなかった。探偵は物言わず静かに、俺の言葉を噛みしめているようだった。


「じゃあ、変態共を叩きのめしたのはあのじゃじゃ馬なんだな?」


 言われてハッと我に返る。俺の顔をジッと見詰めていた啓介さんは「大丈夫だ。あみには言わない」と囁いた。どういうことだろう?


 言葉なく視線を絡ませながら、俺は啓介さんの運命共同体の一人になってしまったことをひしひしと悟った。 



「うわぁぁぁぁ!」


 突然、暗闇から男のものらしい悲鳴が上がった。探偵は咄嗟に車を降りて、耳を澄ませる。どこかから荒々しい呼吸音が聞こえてくる。次いで車から降りた俺は、川の流れる音の中に微かな足音を聞いた。


「啓介さん! 誰かが走ってるみたいです!」


「あっちだな」


 彼は車のライトをつけて、暗闇を照らした。その中に一瞬だけ人影が躍り出ると、こちらに向かって全速力で走ってくる。ウインドブレイカーを着た中高年の男性が必死の形相で助けを求めてきた。


「し、し、し、死体が!」


 おじさんは俺の両腕に掴みがかってきて、狼狽えながら訴え始めた。


「落ち着いて下さい! 死体…ですか? 本当に?!」


 啓介さんはダッシュボードから懐中電灯を持って、走り出した。おじさんが指差した方角に向かって。

「警察を! 警察に、通報してくれぇ!」


 俺は上着のポケットに手を突っ込んで、携帯端末を手に取った。先日、川に落ちて濡れてからやっと買い替えたばかりの新しい端末から、初めて電話する相手がまさかの警察になろうとは…。


『こちら110番です。どうされました?』


 男性オペレーターの声だ。


 通報の途中から男性に電話を代わり、俺は啓介さんの後を追いかけたい衝動と向き合う。こんな時とはいえ、車と携帯端末を他人に委ねるのは危険な気がして、その場に留まることにした、その時。またしても、暗闇を照らすライトの中に影が通り過ぎた。大きな獣のようだが、かなり素早い。でも、直ぐ闇に同化して消えてしまった。まるで煙のような残像だった。闇に眼を凝らしても、良くわからない。そうしているとふと、鉄っぽい匂いがした。ブワリと全身の毛穴が隆起する。


 タッタッタッタッ…。足音が近付いてきて、ヘッドライトの光の中に啓介さんが現れた。顔半分を引きつらせて渋柿を齧っているようなしかめっ面を向けられる。


「…女の子が死んでいた」


「!?」


「やっぱり! あれはどう見ても、死んでますよね?!」


 おじさんは俺に携帯端末を返しながら、探偵に向かって言う。すぐさま、探偵は第一発見者に質問をした。


「あんたはどこからどこまで見たんだ?」


 夜。眠れなくなると身体を動かしたくなるという男性は、ウインドブレイカーを着て首にタオルを巻き、いつものように河川敷の遊歩道をジョギングしていた。頭へ装着するタイプのライトをつけ、慣れた道を走っていたそうだ。その時、聴きなれない音を耳が拾った。闇の中にいると、普段よりも数倍も耳が敏感になっているのだと思う、と彼は前置きをして。大きなため息を吐く…。そして、


「唸り声だった…。まるでライオンみたいな、そして犬の呼吸する音のような、ハッハッハッハという短い息を吐く音が沢山…。獣たちの足音のような音も。それが俺の前方から左へと回り込むように移動して行った…」


「獣たちの足音…」と、探偵はつぶやいた。


「結構遠い場所から、悲鳴のような声がした。それで…、どうしても気になって。危ないとわかっているのに、確かめずにはいられなかった。行ってみると、何もいなかった。獣の気配も消えていて、ただ…横たわる人形みたいなあの子が…。近付けなかった…。見てはいけないものだって、すぐに分かった…」


「見なくて正解だった。あれは素人が見てはいけない」


 探偵は断言した。男性が話している間に、赤いパトランプが近付いてきて、啓介さんの車の後ろに停車する。ドアが開閉する音と共に現れたのは、村本刑事だった。


「あら。どうしてあなたがここに?」


 彼女は俺を見て、まっさきにそう言った。



 警察車両や救急車は音を立てずに河川敷に集まってくる。蛇行する豊平川の両サイドにある自然豊かな遊歩道は、市民の憩いの場の筈なのに。凄惨な事件が立て続けに起きて、人々を恐怖に陥れようとしている。啓介さんは村本刑事と一緒に問題の死体まで戻り、救急隊員は担架を持って走って行った。俺は探偵の指示に従って、車の助手席で待機している。目撃者のおじさんは相良刑事が車の中で事情聴取をしているらしく、車内灯をつけて音声を録音しているように見える。


 しばらくすると大勢の人達が戻ってきて、車両に戻ると引き返し始めた。それがあまりにも慌ただしいので、不思議な気持ちで様子を眺めていると、運転席に啓介さんが戻ってきた。雪が降る前の大気の香りを纏わりつかせたコートを脱いで、息を切らしている。村本刑事も後ろの車に乗り込んだのが見えた。


「…どうしたんですか?」


 聞いて良いのかわからずに質問すると、啓介さんは首を振った。


「死体が消えた」


「え?!」


 俺は耳を疑った。


「…血痕を追ってみたが、川の中に入ったところで途絶えた。陽が昇るまでは、何もできない。警察は下流の方に網を仕掛けて死体を捕まえるようだ」


 聞いてはいけないことを聞いた気がしたけど、衝撃的過ぎて頭がついていかない。


 啓介さんは右手を俺に見せた。社内灯の中で、彼の指先に血が付着していることだけはわかる。急に腰が抜けたみたいになって、俺は後ずさった。啓介さんは自分の指の匂いを嗅いでから、「ちょっと待ってろ」と言って車を降りて行った。村本刑事と話をして再び戻ってくると、血は拭われた後だった。


 無言で車を発進させ、俺を自宅まで送る啓介さんは暗い目をしていた。「戸締りしろよ。それと、口外するな。何が起きているのかわからないからな。何かあれば俺に電話して来い。…あと、この件は恐らく報道規制がかかる。絶対に誰にも話すなよ」


 そう言われて、車は去って行った。



 俺はすぐに玄関のカギを全部かけ、家中の窓ガラスを見てまわった。二階に上がり、自分の寝室のライトをつけた時、今日一番の衝撃を受けた。


 なぜかあみが俺のベッドで寝ていたのだ。


 しかも彼女は、服を着ていない。


 背中を向けた彼女の肌は白くて、思わず息を飲む。


 腰のくびれの辺りに、強烈な違和感を感じた。みみず腫れのように隆起した傷がベルトのように回り込んでいる。丸い尻のすぐ下には綺麗なかかとがあって、膝を抱えて丸くなっているのがわかった。

 俺は恐るおそる近付いて、ベッドに手をつきながら彼女の顔を覗き込もうとした、次の瞬間。あみは素早く振り返り、俺にしがみついてきた。そして、気付いたらもう唇を奪われていた。


 甘い香りがして、思わず目を閉じる。


 彼女の柔らかい唇に夢中になってふるいついた。


 華奢な裸体を抱きしめながら、息継ぎする暇もないほど欲深いキスをする俺達は、これからどうなるのかさえも考えることができない。


 疑問を置き去りにして、欲望のままに彼女を押し倒した。あみの瞳には苦悶が浮かんでいて、何か言いたげに唇をわななかせた。でも、やっと出てきた声は俺の名前を発音しているだけだった。


 それが答えだと言うのなら、俺も答えを伝えたい。見つめ合うだけで良い。でも、やっぱり大事なことは言葉にして伝えなければ。


「あみ」


 彼女は、首を振った。泣きそうな顔で、そっと囁くように、


「…違うんだ。智樹…、その名前は本当の名前じゃない」


「…何か、思い出したの?」


 彼女はその問いに応える前に、今度は噛みつくようなキスをした。そして、「…あなたの隣で眠らせて」と甘く囁いた。


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