恋に落ちて 1 【智樹】
出会ったその瞬間から、彼女の存在が俺の中で膨らみ始めていた。いつまたどこからともなく目の前に現れて、俺の隣に座ってくれるだろう。そんなことばかり考えていると、気付けば翔子の事件を頭の片隅へと追いやってしまっている自分がいる。これは良いことなのかもしれない。レイプ事件のせいで俺まで気が塞いだら、二次被害もいいところだ。
学校帰り、スーパーに立ち寄って入院生活に必要なものと、冷蔵庫にストックしておくべき数点の食料品を買い物かごに入れながら、俺は淡い期待をしてつい周りをきょろきょろと見渡していた。目が彼女を探してしまう。勿論、こんなところまで追いかけてくるわけがない。もしも出くわしたなら、彼女は完全に俺のストーカーだと言える。でも、彼女にストーキングされるなら全然いやじゃない。むしろ、俺の部屋にまで忍び込まれたとしても、全く問題ない。それほどまでに俺は、あみに対して完全に心を開いてしまっている。
ところで彼女は俺とそう年が変わらない印象なんだけど、学校には行ってないようだ。通っているのはボクシングジムや格闘技を教えてくれるカルチャースクールで、翔子が退院したら護身術を教えてくれると申し出てくれたから、俺よりも確実に強そうではある。
世の中には色んな事情で高校に行かない選択をする人がいることは知っているけど、記憶喪失とはいえ学校に通っていないというのは可愛そうな気がした。他人の家庭に物申す気なんてないけど、でも勿体ないと思ったのだ。俺がそう思ったところでどうすることもできないけれど…。
翔子のこれからを思うと、先が暗過ぎて頭を抱えたくなる。正直なところ、退院後の生活を全く想像出来ない。これからどうやって兄妹二人で暮らして行けば良いのか…。今はまだ三輪さんが俺よりも頻繁に様子を見に行って母親代わりになってくれているおかげで、かなり助かっている。翔子は自分がなぜ入院しているのか、まだ思い出せていないそうだ。
買い物を終えた帰り道は考え事ばかりしていたせいで、気付いたらもう自宅の前に居た。そんな自分に驚きつつも鍵を出してドアを開ける。自分以外誰も帰らない家は、途方もなく広過ぎて寒い。
―――嗚呼、やめよう。そんなこと考えたらまた気が滅入るだけだ。
リビングの片隅にあるPCを起動させてメールチェックをすると、父さんからのメールが届いていた。
智樹へ
すぐに返信できなくてすまない。こちらの仕事が漸く軌道に乗ったところだった。
翔子の件は刑事さんから聞いた。勿論、激しく胸を痛めている。引き続き、兄であるお前に翔子を任せることになるが、どうかくれぐれも目を離さないでやってくれ。
いつも一方的な頼みばかり押し付けて、お前には苦労をかけっぱなしだが、本当にすまないと思っている。今度帰れるのは、年が明けて数週間後になるだろう。
保険会社の担当者とは話がついているので、翔子の入院費は毎月請求がある度にこちらから振り込むから、何も心配いらない。今月の生活費はいつもより多めに振り込んでおくから、翔子に新しい服や気分転換になる計画でも立ち上げて、好きに使ってくれ。
それと、もうすぐ瑛子の命日だ。彼女が好きだった薔薇の花束を墓前に供えてやってほしい。これからはどんな小さなことでも良いから、こまめに連絡を取り合おう。精神的にとても難しいことをお前に任せてしまうが、やるべきことはこれまで通りで良い。互いに出来ることをしよう。無理はするな。
父より。
モニターの光から目を庇うように右手で顔を覆った。奥から染み出るようなため息が零れる。
―――どうして……うちは、いつもこうなんだ。
世の中の普通や当たり前が、ここには存在しない。甘えさせてくれる筈の、頼って良い筈の大黒柱は、完全に戻らないつもりでいる。怒りより、呆れより、虚しさが広がっていく。
ため息のような呼吸音が、ハリボテの家に響き渡る。俺一人じゃ持て余す程の広さに、しんしんと虚しさが降り積もって埋もれていくのを、しばらく眺めた。
かさぶたになった感傷を床に叩き落として立ち上がると、俺は買ってきたものを冷蔵庫に入れていく。次に翔子の新しい下着のタグをハサミで取り除き、袋に詰めた。紙袋の中に押し込められていたボロボロの制服を広げてみたが、修復しようがない程に傷んでいて、すぐに再び紙袋に押し込んでごみ箱に捨てた。
新品の制服を再び買うべきか、迷っている。翔子がいつ復学できるかも判断がつかない。ドッと疲れを感じてテーブルに身を投げ出した。伸びた爪に気付いても、爪切りを出す気力すら湧いてこない。
連中が酷い目に遭ったと聞かされた時は確かにすっとしたのに、怒りが再び戻って来て俺の心を炙り始めた。ジリジリと焼かれる痛みが、連中への憎悪に変わる。殺してやりたい程に、あいつらのことが許せない。怪我だけじゃ足りない。絶対に許せるわけがない!
喉が渇いてのそのそと台所へ行って、水を汲んで飲み干した。でもなぜか余計に渇きが体の内側に広がって、その苦しさに溺れてしまいそうになる。渦巻く流れを見つめながら、頭が真っ白になっていく。どれほどそうしていたかわからないが、気付けば頬が濡れていたので服の袖でグイと拭い、制服から私服へ着替えた。
時計の針が俺に命令を下す。簡単に作れるもので早めの夕飯を作っていると、玄関が開く音がして、不安になった。鍋にかけていた火を止めてばたばたと走っていくと、靴を脱いで上がろうとしているあみがいた。
「いらっしゃい!」
「鍵開けっ放しは不用心だぞ」と、彼女は言った。
俺は慌てて出汁を二倍にすべく、水と調味料を加えて調整した。切り分けて冷凍室に入れたばかりの鶏肉の一塊も鍋に放り込む。カイワレ大根をもう一人分切り取って、残りを冷蔵庫の野菜室に仕舞う。そして卵を一個取り出して、用意してあったボールに追加の卵を割落させ、さえばしで梳き砕いた。
「良い匂い」
あみが入ってきた途端に無機質だった家が温められていく。足元に降り積もっていた見えない雪も、溶けるようにして消えた。
「…今日は何をしてたの?」
俺の声は情けない程、掠れていた。あみは隣に立つと、慈しむように俺の背中に手を置いて話し始める。
「仕事だよ。家業を手伝ってるんだ。と言っても、私は専ら猫探し担当だけど」
「どんな…家業?」
「探偵さ」
「た、探偵?!」
驚いて振り向いたと同時に、鍋が溢れ出した。慌てて火を弱火にして、鍋を持ち上げる。危なく火傷するところだ。
「大丈夫? …そんなに驚くことかよ?」と、あみは呆れてから、くすくすと笑った。
火を点け直し、鶏肉に火が通ったのを確認して梳き卵でとじると、火をけして大き目の鉢によそっていた白飯の上に親子丼の種を乗せる。湯気に踊らされたもみのりが生き物のように蠢くのを、あみは不思議そうな目をして眺めていた。
「わぁ~、旨そう!」と、可愛い声を上げる。
俺達はテーブルについて向かい合いながら、いただきますをした。先に出しておいた味噌汁がもう空っぽになっていて、よっぽど空腹だったんだなぁと思った。
「味噌汁、おかわり入れようか?」
「うんん。ありがとう。もういいよ」
彼女の食べっぷりは、いつ見ても豪快だ。気持ち良い程モリモリと平らげる。だけど、全然下品でも乱雑でもない。米粒ひとつ残さずに、綺麗に食べてしまう。
「…そんなに早食いしたら、満腹中枢が反応しないって知ってた?」
「なにそれ?」
きょとんとした顔。すごく、可愛い。
「食べ始めてから二十分しないと、脳が満腹だと認めないんだ」
「…ふぅん、そうなんだぁ」
そう返事をしながらも、彼女はあっという間に平らげてから食器をさげて洗い始めた。それから「ちょっと風呂場借りるから」と勝手に行ってしまった。
見惚れ過ぎだ。急に我に返って、自分の食事を進める。さっきまであんなに食欲がなかったのに、不思議と今は空腹を感じていた。
携帯端末のアラームが鳴り始め、見ればあと一時間後には家庭教師の予定時刻だった。今日が木曜日だったことを思い出す。あまり時間がない。残りの飯を掻き込んで胃に落とし込むと、脱衣所のドアをノックして声をかけた。
「あみ、ごめん。家庭教師のバイトが入ってて、あと十五分で家を出なきゃならないんだけど」
「…わかった」
返事が聞こえたと思ってから、わずか五分程度でドアが開いた。着ていた服が変わっていて、髪の毛も濡れていた。
「シャワー浴びたの?」
「うん。ちょっと匂いが気になってね。ごめん、この上着捨てておいてくれ」
彼女が手に持っていたトレーナーを受け取って、俺はすぐにごみ袋に入れていた。何も気にせずに…。
ふたりで一緒に家を出て鍵をかけた。門の外に先に出たあみが翔子の見舞いに一緒に行きたいと言い出して、俺は戸惑ってしまった。喜んでそうしたいところだけど、自転車では二十分はかかる。後ろの荷台にもう座ってしまった彼女を降ろすのが惜しい気がして、俺は唇を一文字に結んだ。気を緩めた途端にだらしない顔をしてしまいそうで、気を引き締めたのだ。
背中にあみを感じながら走ると、いつもと変わらない風景が知らない風景に見えてくる。街路樹も、薄暗い路地を照らす外灯も、紅葉した落ち葉に彩られたアスファルトも、劣化した割れ目から顔を出し逞しく花開いている雑草も、すべてが輝いて見えた。
あみが一緒にいる。ただそれだけなのに、色を無くした世界が明るく鮮やかに見えてくるのだから不思議だ。考えてみたら、俺はずっと色のない景色しか視ていなかった。季節が巡るときに花咲く沢山の彩も、目に入ることなく生きて来た…。思えば、母さんが死んだ時から色を失った世界に住んでいたんだ。
「智樹、危ない!」
突然。あみの声がしたと思ったら、俺の自転車がぶっとんだ。
いつの間にか俺は、自転車から降りて歩道に倒れていた。しかも、背後からあみに抱き着かれたまま―――。急ブレーキをかけて止まった大型トラックのおやじが、路肩に車を停めて降りてきて、ひしゃげた自転車と、転んでいる俺達を見てあたふためいている。でも、幸いなことに、俺達に怪我は無かった。
トラック運転手から免許証を見せて貰い、それをそのまま携帯端末のカメラで映像記録として納めた。運転手は制限時間内に納品を済ませられたらすぐに連絡をすると言って、先を急いでいる彼を信じるしかない。去って行くトラックを見送ってから振り返ると、あみはなぜかむっつりとしてそっぽを向いていて、小さく震えている。道路際で三角座りするあみに駆け寄ると、顔色がかなり悪い気がした。
「ごめん! またあみに助けられたんだよな。俺…」
「…怖かった」
まさかの涙目に、俺は金縛りにあったみたいに動けなくなった。あみは怯えていた。まるで幼い少女のように、不安気で今にも崩れ落ちそうだ。彼女の背中をさすりながら、落ち着くのを待った。
*
「はい。すいません、本当に。……いいえ、では土曜日に振替ということで」
結局、家庭教師のバイトは振替対応してもらうことが出来た俺は、あみの肩を抱きながら彼女を自宅まで送っていくことにした。
洗い立ての洗濯石鹸の匂いや、シャンプーの匂いがする彼女は、抱き寄せると本当に細くて驚いてしまう。口数がやたらと少ない彼女は、人通りの多い道を歩くのを嫌うため、住宅地のなかの道を行くことにした。
「…病院の面会時間は?」
「明日、朝一で行くからいいよ。気にしないで」
見るからに元気がないあみ。出会った時とは大違い過ぎて、ドギマギする。細い首を隠している肩まで伸びた髪を、彼女の細い指が耳にかけた。その仕草だけで、女の子だと感じる。直ぐにでも抱きしめてキスしたくなる。こんな時なのにバカなことを考えてしまう自分を殴りたくなりながらも、左足首を庇って歩くあみを支えて、ゆっくり歩いた。
ついさっき。電話をかけて、壊れた自転車を引き取りに来てくれた自転車屋の店主は、修理困難な俺の愛車を荷台に積み上げながら、「そのトラック運転手に新品買って貰えばいいんだ」とアドバイスをくれたまでは良かった。が、自分で交渉しなくちゃいけないのかと思ったら、かなり気が重くなる。無傷とはいえ、俺自身の不注意で起きた事故でもあるため、一方的に先方の非を責めることに罪悪感を覚えた。あみは下手くそな俺の一連のやりとりを見守ったあと、一言だけアドバイスをくれた。
「こういう時は、うちの探偵を使ったら良い」
「…え?」
「すぐそこなんだ。事務所と家が一緒なの。啓介に任せたら良いよ。私を助けてたって言えば、無料で手伝ってくれると思うよ。自転車がないと不便だもんね」
また、だ…。
あみが俺の思考を読んだ。驚いていると、
「その顔。鳩が豆鉄砲喰らうと、こういう顔になるんだってな。あはは」
彼女は俺の顔を見つめながら、無邪気に微笑んだ。