蘇る死体 1 【佳純】
深夜零時近くに、通報があってかけつけたラブホテルの室内は、異様な光景に満ちていた。壁一面が真っ赤に染まっている。それに対して、ベッドに転がっている遺体はひとり。首から上が無く、鎖骨と胸郭が開口されていて、内臓がごっそりと綺麗に抜き取られている男。
まさか、こんな場所で遭遇することになるなんて。予想外過ぎて、しばらく言葉を失ってしまった。
「村本さん?」
遠い場所で名前を呼ばれているような感覚から、我に返る。頼りない相棒の相良 仁人が、私の背中をバシッと叩いたのだ。慢性化している人員不足のせいで、殺人課じゃないのに殺人現場に駆り出されてしまう私と四歳下のナルシスト男は、相手が誰であろうと生意気なところがある。唇だけで笑っている顔にムカついてつい殴り倒したくなるのを、腹の底でグッと我慢しなければならないという疲れる相手だ。
「大丈夫ですか? さっきから呼んでるのに、ぼうっとして…」
ムカつく男の顔から引き剥がすように、視線を外した。こいつのペースに持っていかれるだなんて、絶対に避けなければ。何も知らない癖に知ったかぶったような喋り方をするところも勘に障る。気を抜くと本気で張り倒してしまいそうだ。
それにしても、相良は遺体を見ても平気そうに見える。殺人事件の現場にこいつが来たことなど、数える程しかない筈だ。かなり、違和感を覚える。
「あんた、……良く平然としてられるわね?」
「だって、仕方がないですよ。この現場は、なんだか現実味がないんですから」
相良はアルパカみたいな目で、血塗られた部屋を見渡した。まだ乾ききらない血液の赤が卑猥な室内ランプに付着しているせいで、その顔がピンク色に浮かび上がる。
これと全く同じように処理された遺体が発見されたのは、初めてではない。そして今回は、これまでの現場とは明らかに違っている。
まず、鮮度が違う。今までの遺体は死後数日が経っているものが殆どを占めており、鮮血が残留しているケースは初めてかもしれない。そこで私は、かねてから気になっていたこともあって、遺体の表面に近付き鼻を利かせてみた。が、期待したような異臭は特に感じられなかった。でも、それ以前の問題がある。既に部屋中が血液の匂いに満たされているせいで、鼻が麻痺していても仕方がない。ドアを開けた時、咽るほどの濃い血の濃霧といった室内の空気に思わず仰け反った程だ。どんな現状であれ、鑑識が来るまで現場は維持しなければならない。それが、ここで私に与えられた大事な任務だ。
スーツの内ポケットから取り出したハンカチを口と鼻に当て、胸郭を開いた切り口をじっくりと舐めるように観察する。まるで手術用のメスで切ったような、鮮やかな切り傷だ。さらに、もぬけに殻になった人体の内側を眺める。ふわりと、小さい頃の記憶が浮かんできた。
道端で子猫が横たわっていた。胸郭の右脇あたりを丸く切り取られたような穴が開いていて、内臓が全て消えていた。目は虚ろに開かれ、手足も尻尾もかなり綺麗な状態。あんなことが出来るのは一体何者の仕業だろうと思って、仕事で帰りが遅い父を待ち構えて質問したのだった。
「ねぇねぇ、お父さん。今日、子猫の死体を見つけたの。脇腹にコンパスで描いたような綺麗な丸い穴が開いていてね、内臓が全部無くなってたの。誰の仕業だと思う?」
殆ど会話らしい会話をしたことがない父と娘が交わした、初めての会話らしい会話だった。この時点で深夜二時を過ぎており、小学一年生の娘が寝ずに待っての質問がそれだったのだから、父はさぞや驚いたことだったろう。でも父は、嬉しそうに微笑んで私の頭を撫でた。そして、一緒にストーブの近くまで行くと、あぐらの中に私を座らせて髭だらけの顔で私の頬にくっついてきた。冷たい冬の空の匂いがした。
「子猫を殺害したのは、おそらく人間の運転する車じゃないのかな。で、内臓を持って行ったのはカラスだろう。カラスってな、案外器用な動物らしいぞ?」
「……そうなの? トンビとか、キツネだって小さな動物を食べるでしょう?」
「う~ん…。父さんは専門家じゃないから知らないけど、同じような死体を見たことならある。その時、周りには烏しかいなかった。他の動物の気配はない。それにね。その丸い穴っていうのが大きな手掛かりだ。キツネが捕食したら、そんな綺麗な穴は開かないだろうし、トンビならがっつり鋭い爪と嘴でついばんで、死体はもっと散乱してしまうんじゃないだろうか? その点、カラス一羽なら子猫サイズは丁度いい」
父は大真面目だった。その時、私は衝撃を受けた点はみっつ。死因になった者と死体の状態を変えた者が其々にいたことと、父の視点だ。死体があれば常にこの二点を、観察者は考えなければならない。
殺人課の刑事らが到着するまでに、遺体を発見した清掃員の女性二名に事情聴取をするのも、私の仕事だ。記憶の風化は早い。生ものと同じで、すぐに腐敗が始まる。出来る限り速やかに、鮮度のある内に記憶の欠片をメモに取らなければいけない。
四十代と二十代の女性二人は、青褪めた顔色で六畳程度の事務所内に設置された丸椅子に並んで座っている。見てはいけないものを見たと、重度のショック状態に陥っている様子で、かなり気分が悪そうだ。
「大丈夫ですか?」
「…大丈夫なわけ、ないですよ!」と、年増女にいきなり逆切れされた。
追い詰められた者は、こんな風に怒りを使って恐怖を振り払うような態度を取る。持っていき場のない感情ほど手にあまり、口火を切った途端に流れ出す。
「こんな目に遭うなんて! 早く犯人を捕まえて下さい! じゃないと帰るに帰れないじゃないの!」
四十代女性はひっきしなりに文句を言った。言わずにはいられないのだろう。経営者は不在で、訴える相手がいないのでは仕方がない。彼女が落ち着くのを待つ間、もう一人に話を聞いてみることにする。
「…男女二人で入室しました。でも、一時間もしないで女性だけ帰って行ったんです。事務所の…このモニターで確認しています」
彼女の指の先には、旧時代のブラウン管モニターのくすんだ小窓に映し出された灰色の画像があった。落ち着いていてわかりやすい説明に、私は感謝を込めて「助かります」と伝えた。
部屋の構造を今一度確認しようと思い、現場に戻る。血塗られた壁は二面だけで、カーテンが閉められた壁は綺麗なものだ。それに、良く見れば二枚一対になっているカーテンが一枚消えている。清掃員に確認を取ると、朝は二枚ちゃんとあったと言い切った。これは実に興味深い。
そしてもう一度、遺体を観察する。皮を剥ぐというホラー映画があるが、その逆というは記憶にない。狼男は心臓を、吸血鬼は血を欲するらしいけど、こんな風に綺麗に内臓総てを平らげる怪物は思い付かない。
被害者は頭部を失っているため、正確な身長は不明。だけど、大腿骨の長さからざっくり計算すると、推定百七十五センチはあった筈だ。内臓だけでもかなりのボリュームがある。可能な限り想像してみるけれど、やはり道具や設備なしで人間をこうもさばくことが出来るとは到底思えなかった。謎しか見当たらないとは、まさにこのこと。
「村本さん、良くそこまで接近できますね」
背中の方から相良が話しかけてきて、口角を釣り上げた。私を苛つかせることしかできない相棒なんか、消えろ!と心中で悪態を付きながら、努めて笑顔で言い返した。
「…これぞまさしく刑事の仕事よ。見習ってくれて結構よ。メモを取るなら今よ」
相良は肩を落としながらため息を零す。
「村本さん。俺達はただ、現状管理にために居るんですよ? そんなことは殺人課がやってくれますよ」
こういうのを怠け者と呼ぶのだ、と頭の中で叫んだ。相良の親は警察OBのお偉いさんで、失墜した元署長の娘の私には太刀打ち出来ない相手だったりする。大人の事情でボンボン育ちの世間知らずをあしらうのを我慢しなければならない。もしも怒鳴ったり殴ったりすれば、私は左遷させられてしまうだろう。
「あんた、いい加減にしなさいよ?」
それでも我慢ならない態度に、私は立ちあがって相良を睨み上げた。
「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ。そんな長い髪垂らして遺体に近付いたら、現場荒らしてるのと変わらないでしょ?」
憎らしいが、正論。私は慌ててスーツのポケットに入れてあるはずの黒ゴムを取り出して一本結びにした。すると相良は嬉しそうに、背後に回り込んで自分からは見えない場所を見て喜んだ。私の首の後ろには、生まれつきの赤い痣がある。ハートをさかさまにしたような形で、過去に何度もこれをキスマークだ勘違いする輩が絶えない。
「村本さんのソレ。本当に吸われた跡みたいだ。男の前ではどんな風に乱れるんですか?」
相棒に就任した時から、こいつは私のプライベートに踏み込んだことを言う。デリカシー云々というより、いわゆる変態の類だろう。一般常識を備えた大人ならば、そんな質問は思っても口に出さないものだ。
「あんたは一生知らなくて良いことよ? それよりも、仕事しろ。無駄口叩くな」
「鉄の女…」と、相良が退屈そうにぼやいた。
気付けば殺人課の連中が窓の向こうまでやって来ていた。音を消した赤いパトランプを光らせた車両が到着した。私達はこれで現状を引き渡し、引継ぎ事項を手短に伝えて退散する。殺人課で最も実績がある肥田刑事がニコニコしながら私に顔を近付けた。
「お前はどう見た?」
他の連中の視線が一気に私に向けられる。高い場所から真下を見下ろすような、脚の力が抜けてしまいそうな不安が突き上げてくる。
「……例の死体遺棄事件に良く似ています。でも、今回の犯行は今までとは違う、同一犯じゃないと思われます」
「そうか。俺も今パッと見ただけだけど、同意見だ。犯人はひとりじゃないってことだな」
ひとりじゃないも何も、このケースの事件はもう向こう二十五年間で百六十人もの被害者をカウントしてきた。ひとりじゃ絶対に不可能だ。なのに、殺人課の連中はこの事件の犯人はひとりだと断定している。普通じゃない。
「…そうですね。私はずっと前から、そう言ってきたつもりですけどね」
肥田さんの取り巻きである牧刑事と新井刑事が高圧的に私を見降ろし、睨みつけてきた。まるで因縁の仇を見るような目だ。
「お前、わかってるな? 世間がどれほど恐怖し混乱に陥れるのか。面白半分のコピーキャットが増えるのも面倒だ。絶対に他言してはならない、良いな?」
「わかってますとも。じゃ、後は宜しくお願いします。私は署に戻って、出入り口の監視カメラの映像をチェックします」
私は軽く頭を垂れてから、さっさと現場を後にした。靴カバーを脱いだところで鑑識御一行様が到着する。廣田主任が私に話しかけてきた。
「どうだ? 遺体を見たんだろう?」
「はい。見ましたよ、じっくりとね。遺体だけ見ればいつものパターンですよ。だけど、今回は様子が違い過ぎますね。部屋の壁中が被害者のものと思われる血で真っ赤です。わざわざ吹き付けたみたいに」
「なんだと?」
鑑識チームを引き連れた廣田主任は、鼻息荒くして現場に踏み込んで行った。