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想い出を売る店

作者: 北村圭太朗

 圭一が、とある噂を耳にしたのは、一ヶ月以上前のことだった。


「ねぇねぇ、想い出を売る店って知ってる?」

「知ってるよ。その店を見た人は、今までの悩みが嘘のようになくなって幸せになれるってやつでしょ?」

「そうそう、何だか素敵な話だよね。私も幸せになりたい!」

「あはは、何言ってんのよ。あんた、彼氏いるんだからいいじゃない。私なんて彼氏もいないし、給料も安いし、ほんと楽しくないわ」


 圭一のうしろの席で、職場の女子たちがゲラゲラと笑いながら、まるで都市伝説を語るかのように、そんな不思議な話をしていた。


 人生に本当に悩んでいる人のもとに、ふと現れるという想い出を売る店。


 ――そんな夢みたいな話があれば、誰も悩まねぇっつうの。

 圭一は、そう思いながらも、そんな店が現れてくれたらいいなと、ぼんやりと考えていた。


 

 圭一は、名前を聞けば、誰もが知っている大手外資系の会社で働いていた。

 いつか仕事は、面白くなると思って頑張ってきたが、現実は苦痛でしかない。

 つまらないし、生きがいなんてものは皆目なかった。

 彼女にも、一方的に別れを告げられて去って行かれた。

 若い頃は、情熱もあり夢もあった。

 お金は無かったけど、バイトしながら夢のために頑張っていた頃の方が、よっぽど楽しかったし、生きているという実感があった。


 三十歳になった今、どう歩いていくべきなのか?

 一体、何をしているのか?

 何のために生きているのか?

 圭一は、途方に暮れていていた。


 いつもの時間に目覚ましが鳴って、重たい体を無理やり起こす。朝食を味わうというよりは、流し込むように済ませて、くたびれたスーツに着替える。かけあしで駅のホームに向かい、満員電車に乗り込む。揉みくちゃにされながら、会社にたどり着く頃には、すでにグッタリしている。まるで精密機械のように、繰り返される毎日。心が徐々にむしばまれて、鉄のように無機質に冷えていく感覚があった。


 このまま人生が終わっていくのだろうか?

 幸せってなんだっけ?

 頭に浮かぶのは、そんなことばかりだったが、周囲には悟られないように笑顔で日々を過ごしている。



「お疲れさまです」


 圭一は仕事が終わり、いつものように周りの職員たちに笑顔で会釈をして、そそくさと会社を後にした。

 今日は、恵と待ち合わせをしていた。

 恵は、圭一の二歳年下の幼馴染で、唯一の異性の友達だ。


 親同士が仲が良かったから、自然とよく遊ぶようになった。中学生の頃までは、よく話したりしていたが、クラブや他の友達ができるに連れて、話す機会が少なくなっていった。

 圭一が卒業してからは、活動する時間帯が違ったのか、近所でも合わなくなった。社会人になって再会するまでは、接点がほとんどなくなっていたが、偶然、街で再会したことから、また繋がりができた。

 昔、仲が良かったこともあり、また仲良くなるまで時間がかからなかった。今では、気を使わなくていいし、圭一にとっては何でも話し合える最高の友達で、居心地の良い有難い存在である。


 身長は、そんなに高くないけど、少し憂いを帯びているような目、黒くて長い髪の毛、清楚な品があって、ユーモアもある。かなり異性からモテるらしい。だけど圭一には、幼い頃から毎日一緒に遊んでいたせいなのか、恵に対して恋愛を意識したことがなかった。


 月に一回、圭一と恵は、自分たちに何があったかを報告し合うための、定例行事のような集会を開くのが定番になっていた。

 社会人になった今は、お互い一人暮らしで家が逆方面だから、いつも中間に当たる駅で集合していた。いつから始まったのか、詳しくは覚えていなかったが、お互いの相談に乗っているうちに、報告しあうのが当然のようになっていた。二人にとっても、ストレス発散の場になっていた。

 


 圭一は、待ち合わせの時間よりも五分遅れて、予約していた店の『まごころ』にたどり着いた。

 すっかり顔なじみになった店員が出迎えてくれて、部屋まで案内してくれた。

 ふすまを開けると、すでに恵の姿があった。


「お待たせ」

「遅い!」

「ごめんごめん、ちょっと残業になってしまってさ」

「なんか、いつもそれ言ってない?」


 恵が、呆れた顔でため息をつく。


「まぁまぁ、とりあえず注文しよう」


 圭一は、なだめるように言った。


「それじゃ、梅酒で」

「料理は、どうする?」

「いつも頼んでる中から、適当に選んでいいよ」

「了解」


 圭一は、呼び出しベルを押して、店員に注文をした。            


「お疲れ」


 そう言って圭一と恵は、乾杯をした。


「この集まりも、結構な回数になるな」


 ビールをぐいっと飲みながら、圭一が言った。


「そうだね、いつの間にか当たり前のように集まってるよね」

「普段は、いつも気を張ってるから、こういう場があると助かるよ」

「確かに、そうだね」

「幼馴染と言っても、他の連中の連絡先はまったく知らないしな。もはや、今も繋がってるのは恵だけだから、貴重な存在だよ」

「それは、どうも、ありがとうございます〜」


 恵が、大げさに頭をさげる。

 そんな恵の姿に笑いながら、圭一が質問した。


「今月は、何か面白いことあった?」

「異常なしです」


 梅酒を片手に、苦笑いで恵が答える。


「定番の答えになってきてるな」

「どうも、すみませんね」


 恵が口を尖らせている。


「新しい彼氏とか作る気はないのか? あれからずいぶん時間も経ったし、そろそろ大丈夫なんじゃないか?」

「うん……。そうだね……」


 恵は、少しうつむきながら続けた。


「自分が思ってる以上に、男性が苦手になってしまってるかも。圭一くん以外の男性とは、本音で話せないというか、上手く話せないんだ。圭一くんは、幼馴染ってのもあると思うけど」


 恵の前の彼氏は、最低の男で、浮気をするは、暴力を振るうはで、恵は、しょっちゅう泣いて過ごしていた。圭一は、相談に乗っていたので、その気持ちはよく分かった。圭一自身も、前の彼女に振られて完全に恋愛の熱が冷めている。


「そっかぁ。俺も人のことは、言えないけどな」

「なかなか難しいよね。圭一くんは、何か面白いことあった?」

「うーん、そういえばさ、今日会社でさ、不思議な話を聞いたんだよ」

「不思議な話?」

「うん。想い出を売る店って、聞いたことある?」

「想い出を売る店? 聞いたことないなぁ」

「やっぱり、そうだよな」

「その店が、どうしたの?」

「その店が現れると、今まで悩んでいたことが嘘みたいになくなるんだってさ」

「へぇ! 素敵な話だね」

「もし店が現れて、悩みがなくなるなら、何をお願いする?」

「また人を好きになれますように……、かな」


 恵は、少し考えて、寂しそうな表情で呟いた。


「なるほどな」


 事情を知っている圭一は、深くは追求せず納得したように頷いた。


「圭一くんは、何をお願いするの?」

「俺も、人を好きになりたいってのもあるんだけど。……他にもいっぱいあるかも。楽しく日々を過ごしたいとか、冷めてる心を何とかしたいとか」

「欲張りだなぁ」


 恵がそう言うと、圭一はドっと笑った。

 恵も、つられて楽しそうに笑った。


 圭一は、カバンから携帯を取り出した。

 そんな話をしていると、あっという間に時間が過ぎていた。


「そろそろ、帰ろうか」

「そうだね」


 会計に向かうと、レジには顔なじみの店員が笑顔で迎えてくれた。


「ありがとうございました」


 店員が、丁寧にお辞儀をしている。


「どうも」


 会計を済ませて、圭一は店員に軽く会釈したあと、恵に話しかけた。


「来月こそは、良い報告ができるといいな」

「毎度、それ言ってるよね」


 出口に向かおうとした時に、そんな話をしていたら、店員が二人のやり取りを見て可笑しそうに笑っていた。圭一と恵は、少し照れながら、軽く頭を下げて店を出た。


 駅に着いて、改札の手前で恵がポツリと呟いた。


「あのさ」

「ん、どうした?」


 いつになく恵が、真剣な表情をしている。


「さっきさ、自分が思ってる以上に男性が苦手になってしまってるかもって、言ったじゃん?」

「うん」

「言おうかどうか迷ったんだけど、実はさ、昨日、告白されたんだ」

「そ、そうなんだ」


 平静を装っていたが、圭一は、なぜか少し動揺した。

 その理由は自分でもハッキリ分からなかった。


「どうしたらいいと思う?」

「どんな人なんだ?」

「会社の人だよ。でも部署が違うから、あまり話したことがなくて、仕事上でのやり取りしかしたことがないんだ」

「そっかぁ」


 圭一は、今みたいに、こうやって話せなくなると思うと胸の奥がモヤモヤした。

 ――あれ、なんだろう? この気持ち……。俺、ひょっとして、寂しいのか……?


 恋愛から遠く離れた圭一にとって、その感情はすっかり忘れてしまっているものだった。

 ボーっと、そんなことを思っていると、恵が不機嫌そうに訪ねてきた。


「ねぇ、聞いてる?」

「あ、ああ」

「じゃあ、どう思う?」


 圭一は、さっき感じた自分の気持ちにとりあえず蓋をして答えた。


「俺は、恵が幸せならそれでいいと思ってる。前の彼氏のこともあるから、慎重にとは思うけど」

「そっか……」

「恵には幸せになってほしいから」

「……ありがとう。考えてみる」


 そう言うと、恵は手を振って反対の改札に向かって行った。

 圭一も軽く手を上げて、恵の背中を見送ってから改札に向かった。

 

 電車に乗って、うとうとしている間に、最寄りの駅に着いていた。

 慌てて、圭一は電車から降りた。


 圭一は、いつも立ち寄っているコンビニで、酔いを醒ますために水を買うことにした。レジには、よく見かける店員の姿があった。

 ペットボトルの水をレジに持っていくと、慣れた感じで「ありがとうございます、百八円になります」とマニュアル通りの対応をこなす。

 最初、新人だった頃は、おどおどしてぎこちない対応だったが、今ではすっかりベテランの風格が出ている。


 ――人の成長は、早いなぁ。成長した姿が、当たり前になるってすごいことだよなぁ。

 圭一は感心しながら、軽く会釈をしてコンビニを出た。


 ゆっくりといつも通り、家路をたどっていると、意識はしていなかったが、さっき改札で恵と話していた会話が頭をよぎった。

 告白されたと告げてきた、少し困ったような恵の顔が浮かんでくる。


 ――なんだろう? なんで頭の中に、さっきの会話がこびりついているんだろう?

 そして、少し胸が息苦しくなる感覚があった。


 すっきりしないモヤモヤした気持ちを抱えながら、通い慣れた道を歩いていると、ふと圭一は違和感に気づいた。そこには、記憶にない見慣れない店があった。外観は、アンティーク調でレンガを淡くしたような外壁で、温かみを感じさせる佇まいで建っていた。心なしか、ぼんやり光っているようにも見える。


 ――こんな店あったっけ?

 そんなに人通りのある道ではないが、道行く人たちは、その店の前を通り過ぎていく。まるで何も見えていないかのように。普段、コンビニから歩いて帰る時、この店が建っている場所は空地だったはず。

 ――酔っているんだろうか? 

 圭一は、酒の残るすっきりしない頭で、ここ数日の帰り道の様子を思い返してみたが、やはり、この店に見覚えがない。

 ――おかしい。ここ最近、工事なんかしていた記憶もないし……。


 何の店なのか気になった圭一は、どうするか迷ったが店の方に近づいていき、おそるおそるドアノブに手をかけた。ゆっくりドアを開けると、小さくギーッと音をたてて部屋の中から柔らかな光がもれてきた。

 圭一が、足を一歩踏み入れると、豆電球だけを点けているような淡い明かりが、部屋全体を照らしていた。壁には、美術館に飾ってあるような高級そうな絵画が、等間隔で綺麗に壁を埋めていた。さらに歩いていくと、目の前には、一瞥するだけで商品全体が分かるような、昔ながらの横長のガラスのショーケースが置いてあった。

 そのガラスのショーケースの奥には、大きな扉が開きっぱなしになっていて、扉の上にはかなり年季の入った掛け時計が掛けてある。

 時計の針は、二十二時四十五分を差している。


 開きっぱなしの扉の奥から、圭一は、ふっと人影を感じた。

 すると、人形のようなものがこっちを見ていた。

 薄明かりの中に人形がポツンと置いてあることに、圭一は少しゾッとた。

 目を凝らして見てみると、その人形のようなものは、白くて長いひげを生やしている。細身で、かなり年老いているが、優しく微笑んでいるようにも見える。まったく怖さはなく、刻まれたシワから優しさがにじみ出ていて、見ていて不思議と心地良さも感じる。


 ――なんで人形が置いてあるんだろう?

 そんなことを考えながら、その人形のようなものをじっと見つめていると、突然、声が聞こえてきた。


「いらっしゃいませ」


 人形のようなものが、柔らかい口調で言った。


 ――どうやら店主らしい。

 あまりにも動きがなかったので、人形かと思っていた圭一は、一瞬ビクッとしたが人形じゃなかったので安心した。


「あ、あの、ここは何のお店ですか?」


 店主は、白くて長いひげを撫でながら、微笑んで答えた。


「ここは、想い出を売る店です」


 圭一は、目を見開いた。

 ――まさか、これが噂の?


 圭一は、改めてガラスのショーケースを見て、さらに店の中をを見渡したが、商品と呼べるものは何も置いていなかった。

 不思議に思った圭一は、尋ねた。


「何にも、商品らしきものがありませんが……」


 店主は、ニヤリと微笑んだ。


「このお店は、普通の人間には見えません。心の中の何かを失った人にしか見えません」


 そう言うと店主は、横を向いて、壁についている取っ手らしきものを引っ張った。

 すると、業務用のキャビネットになっていたのか、壁から引き出しのようなものが飛び出してきた。その引き出しの中には、たくさんのファイルが収まっていた。


「そのファイルは何ですか?」


 圭一は、ファイルを眺めながら尋ねた。


「ここに収めてあるファイルは、すべてあなたの想い出です。一冊ずつ大切に保管されています。良い想い出もあれば、辛い想い出もあります。その経験の中で、なくしてしまうものもあるのです」


 店主は、どこか寂し気に微笑んで答えた。


「そんな、まさか……」

「信じられませんか?」

「当たり前ですよ、そんなことが現実にあるはずがない」

「それでは、ちょうどこれがいいですかね」


 店主は、その引き出しの中にある大量のファイルから、一冊のファイルを取り出した。

 そのファイルには、『学生生活〜リアルタイム〜』と書いてある。


「あなたが、今忘れてしまっているものです」


 店主は、そう言ってファイルを開いた。

 その瞬間、圭一を取り囲む空間が、急に歪み始めた。

 まるで時間が逆流しているような感覚だった。

 圭一が今まで経験してきた様々な出来事が、歪み始めた部屋全体に映しだされていく。


 ――何だ、何なんだこれ!?

 その空間の歪みに抗うことはできず、体の機能も奪われて、指一本動かすことができない。  

 圭一は恐怖心に襲われたが、意識が次第に遠くなっていく。

 どうすることもできず、まどろみのようなものに意識がのまれていった。



 しばらくして、ふと気がつくと、圭一はどこかで見たことがある教室の椅子に座っていた。


 ――あれ? ここって、大学の教室? これは俺の机か?

 圭一は、ほっぺをつねってみた。

 ――痛い、夢じゃない。まさか、本当に大学時代に戻っている?


「おい、圭一! 何やってんだよ、早く帰ろうぜ!」


 どこか懐かしく、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


 ――この声は佑介? そんなはずはないか……。

 そう思いながら、振り返ってみると佑介が立っていた。


 驚いて固まっている圭一に、佑介が、おかしそうに笑う。


「なんて顔してんだよ、さっさとバンドの練習にいこうぜ」

「あ、ああ。そうだな」


 佑介は、大学の時の同級生で、一緒にバンドを組んでいた。

 担当はベース。冷静で頭の回転が早く、バンドの中では誰かのツッコミやボケに臨機応変に対応する奴だった。一度、笑いのツボに入ると、なかなか止まらないのが特徴だった。

 圭一は、ギターを弾いていた。中学の時に兄からもらったアコースティックギターに夢中になった。その音色に魅了されて、いつしか作曲に没頭していった。


「どうしたんだよ、元気ないじゃん? また曲作りで悩んでるのか?」

「そ、そんなことないよ」


 パニックになってる頭を、ごまかすように答えたが、圭一はまだ混乱していた。


 ――間違いない、大学の頃に時間が戻っている。

 圭一は、廊下を歩きながら、自分の手や足、学生服を確認しながら、窓に映る自分の顔を見て呟いた。


「若い」


 そんな圭一の言葉に、佑介が笑いながら肩を叩いた。


「何言ってんだよ、当たり前だろ。俺達、まだ大学生だぞ。寝ぼけたこと言ってないで、早くいこうぜ。雅史と慎吾が待ってるぞ!」

「そ、そうだな」


 雅史と慎吾も同じバンド仲間で同級生だった。

 雅史はボーカルで、滅多に笑うことはなく、常にクールな奴だった。長い髪をかきあげて格好つけながら、ポツリと呟くのが得意だった。実際、何を考えているかは、誰も分からなかった。

 慎吾はドラムで、バンドの中で唯一の関西出身者で、口が達者な奴だった。ムードメーカーで、ちょっとした話を、面白おかしく話すのが得意だった。


 ――この頃は、楽しかったよな。皆、どうしてるかな。

 圭一以外は、皆、結婚している。もう何年も、連絡を取っていなかった。皆が、結婚してからは、いつからか自然と連絡をする機会が減っていった。


 圭一は、夢うつつのまま、佑介について行った。

 気がつけば、スタジオに着いていた。

 スタジオは、学校から少し離れたところにあった。

 近くにスタジオがあって、練習するのに便利だったのを覚えている。


 中に入ると、雅史と慎吾がいた。

 ――こいつらも、久しぶりだなぁ。

 

「おお、遅かったやんけ!」


 慎吾が、ドラムのスティックを振り回しながら言ってきた。


「おお、悪い悪い」


 圭一が、そう答えると、佑介が横から入ってきた。


「圭一、今日ちょっとおかしいんだよ。俺を見てびっくりするし、何だかぼーっとしてるし。雅史も何か言ってやってよ」


 雅史が格好つけながら、クールに答える。


「いつものことじゃん」  

「はっはっは、変わらないな、お前たち」


 圭一は、この懐かしいメンツと雰囲気におかしくなって思わず笑った。


「なっ? 今日の圭一、ちょっとおかしいだろ?」


 佑介が、再度、雅史と慎吾に確認をした。


「確かに、ちょっと変かも知れないな」


 雅史が、あごに手を当てながら答えた。


「おかしいのは、いつものことやんけ。圭一を、普通やと思ったらアカンで!」


 慎吾が、関西特有のノリで突っ込んできた。


「それも、そうか!」


 佑介が大笑いして、雅史は、相変わらず顔色ひとつ変えずに頷いている。

 

 慎吾が場を盛り上げようとして、さらに続ける。


「そうか、あれか! 分かったで! 彼女に振られて、おかしくなっとるんちゃうか」

「それは、あるかも知れないな」

「確かに」


 慎吾が、盛り上げて、横から佑介が相づちを入れて、雅史が納得してしめる。

 ――懐かしいな、この流れ。


「その定番の流れ、やめようぜ」


 圭一が、愛想つかしたように返答すると、皆、ドッと笑った。雅史だけは、笑いを見せないように堪えている。


「まぁまぁ、そろそろ練習しようか」


 佑介が、司会を務めるように進行していく。


「せやで、早く練習しようや、練習始めるまでが、いつも長いねん」


 慎吾が早くドラムを叩きたくてウズウズしている。十六ビートでリズムを取っているかのような貧乏ゆすりで、アピールしている。


「誰のせいだよ!」

「うむ」


 佑介がツッコミを入れて、雅史も、それに合わせてくる。


「もう、それいいから、早くやろうぜ」


 圭一も、すんなりその場に馴染んで、大学時代の自分になりきっている。


「確かにそうだな、そろそろ始めようか」 


 佑介が、そんなやり取りを見て笑いながら、ベースにシールドを繋いで準備を始めた。

 雅史も、呆れたような顔で、マイクをアンプに繋いで音量のチェックをしているが、その口元は少しほころんでいる。

 慎吾も、ようやく本気になったのか、黙ってドラムのチューニングをしている。

 圭一も、皆に合わせるように、ギターにシールドを繋いでチューニングを始めた。

 ひと通り準備が整ったところで、慎吾が皆に確認した。


「ほな、いくで!」

「オッケー」


 佑介と雅史がアイコンタクトを取って、頷きながら言った。

 圭一は、この仲間と空間が懐かしくて、少し感傷に浸っていた。

 慎吾がスティックを叩いて、カウントを取り出した。

 一斉に音が広がった。

 重なりあった重厚な音が、スタジオ中にこだましている。


 ――懐かしいな、この曲。よく練習の時、合わせてたっけ。意外に覚えてるもんだな。


 圭一は、高鳴る高揚感の中、本当にあの頃の気持ちに戻っていた。


 ――ああ、この感覚。これだよ、これ。楽しいなぁ。また皆に連絡して、集りたいな……。


 そう思ったところで、また空間が歪み始めた。

 また時間が逆流しているような感覚だった。

 さっきと同じように、その空間の歪みに抗うことはできず、体の機能も奪われて、指一本動かすことはできないが、不思議と恐怖心はなかった。それどころか、不思議な心地良さを感じてさえいた。

 圭一は、まどろみのようなものに抵抗することなく、意識を任せた。


 

 ふと意識を取り戻すと、ガラスのショーケースの前で立っていた。


「あ、あれ。俺、ギターを弾いていたはずなのに……」

「お目覚めですか?」


 店主がひげを触りながら、にっこりとこっちを見ている。


「俺、ほんとに過去に戻って……」


 圭一は、まだ夢うつつで、現実感がなかったが、確かにギターを弾いていた記憶があった。


「まだ、信じられませんか?」


 そう言うと、店主はまた、キャビネットの引き出しから一冊のファイルを取り出した。

 そのファイルには、『春日圭一〜想い出一覧表〜』と書いてある。


 そのファイルを開いて、「ふぅ〜」っと一息ついて、店主が語り出した。


「春日圭一、三十歳。父親は夜勤が多かったから、母親が亡くなってからは、家に誰もいないことが多く寂しい幼少時代を過ごしてきた。小学生の頃の夢は漫画家。だけど中学生の頃にクラブに入って、スポーツの方に没頭していって、漫画家の夢は諦めた」

「えっ……」


 圭一は、絶句している。


「まだまだありますよ、高校の頃にギターに出会い、夢中になる。大学の頃は、友達とバンドを組んで楽しい日々を過ごしてきた。ええっと、あとは、初めて彼女ができて、キスをするタイミングの時に緊張しすぎて、おでことおでこがぶつかって……」

「わぁ―――、もういい、もういいです! 分かりました! これが夢じゃないってことが!」

「はっはっは、信じてもらえましたか」


 店主は、満足気に微笑んでいる。


「僕は、どれくらい過去に戻っていたんでしょうか?」


 圭一は、夢でも見ていたように、まだ現実感がなかったが気になって尋ねた。

 すると、店主は振り返って、うしろにある扉の上の掛け時計を見ながら言った。


「時間は、流れていません」

「えっ、そんなはず……。あっ」


 時計を見た、圭一は驚愕した。

 確かに、掛け時計の秒針は、この店に足を踏み入れた時のまま、二十二時四十五分を指したままだった。

 自分の体感では、もっと長く過去にいた感覚があった。


「意識だけが、想い出の時間に戻っているのです。実際の現実世界では、時間は流れていません」

「そうなんですか……。一体何のために、僕を過去に戻したのですか?」

「戻ったのは、あなたが一番楽しかった時代だったと思います。この引き出しの中には、あなたの今までの想い出がファイリングしてあります。このファイルたちは、なくしてしまった感情を思い出させるために、その人にとって一番良い方法で導いてくれるのです。現在のあなたは、毎日が楽しくないと感じていますよね?」

「どうして、そんなことが分かるんですか?」

「あなたのことは、先ほど読みあげた『想い出一覧表』にすべて載っています」

「そんな嘘みたいな話があるわけ……」


 圭一は、そう言いかけて、さっきのことを思い出して口を噤んだ。


「それで、どうですか? もう思い出したんじゃないですか?」

「えっ?」

「気づかないですか? あなたは、もう『楽しい』という感情を思い出したはずですよ」


 圭一は、ハッとした。


「……確かに。そう、そうです。ずっと忘れていた『楽しい』という感情を思い出しました。過去に戻っていなかったら、きっとそんなことも忘れて、ただ生きていただけだったかも知れません」


 店主は、穏やかな表情で、嬉しそうに頷きながら微笑んでいる。


「苦しい時は、その苦しみが大きくなっていますから、幸せを感じにくくなります。でも実は、それと同じくらい素晴らしいことがあるはずなんです。人は、同じことを繰り返していると、次第に始めた頃の新鮮さが薄れて退屈を感じます。でも、それはその状態に慣れてしまったがゆえのマンネリであって、実はとても幸せなことなんです。思い出してみてください、今の暮らしを始める前は、今の暮らしというものが目標だったのではないですか? その退屈だと思える日常を、どれだけ幸せなことなのかということを忘れずにいられたら、人生は、きっとね、もっと楽に生きていくことができます」


 圭一は、店主の言葉に聞き入っていた。

 自分の無機質で機械的な毎日に、淡く綺麗な色がついていくような、そんな気がした。


「それでは、次の想い出にいきましょうか」

「えっ、まだあるんですか?」

「はい、あなたの心の空白が埋まるまでです。ひとつの人もいれば、いくつも必要な人もいます。あなたの場合は、あとふたつあります」

「ふたつ!?」


 圭一は、思わず声をあげた。


「それだけ、今のあなたの心は、空っぽになっているということです」

「なるほど……」


 店主は、またキャビネットの引き出しの中から一冊のファイルを取り出した。

 そのファイルには、『母親〜リアルタイム〜』と書いてある。


「次は、これがいいですね。あなたが、なくしてしまった大事なものです」


 店主は、そう言ってファイルを開いた。

 その瞬間、さっきと同じように、圭一を取り囲む空間が、急に歪み始めた。

 また時間が逆流しているような感覚だった。

 体の機能は奪われて、指一本動かすことができないのは同じだが、さっきと違って恐怖心はなくなっていた。

 意識が、まどろみにのまれる瞬間、店主が穏やかに微笑んでいる姿が見えた。

 

 圭一は、小学校の頃に母親をなくしている。

 そんなに裕福な家庭ではなく、父と兄の三人暮らしで団地暮らしだった。

 幼かった圭一は、なぜ母親がいなくなったか理解していなかった。

 理解した頃には、言いたくても言えなかった言葉だけが胸に残っていた。



 ふと意識を取り戻した圭一は、周りを見渡した。

 そこには、見覚えのある光景が広がっていた。

 ――この懐かしい匂い、この部屋。間違いない、実家だ……。


 圭一は違和感に気づいた。

 自分の目線が、いつもよりも低い。周りに置いてある家具が高く見える。

 ――背が低くなってる、手足も短い。子供に戻っている……。

 

 圭一が、身振り手振りを確認していていると、うしろから声が聞こえてきた。


「圭一、何してるの? 早くご飯食べなさい」


 懐かしくて優しくて、忘れることなどあるはずもない声。


 ドクン。

 大きく心臓が震えた。

 ドクン、ドクン。

 圭一は、激しく脈を打つ心臓を押さえながら、ゆっくりと振り返った。

 そこには、記憶の中にある母親の姿があった。


 ――母さん。

 その当時は気づかなかったが、刻まれた母親の顔のシワには、いくつもの苦難を乗り越えてきた人生の歴史があるように思えた。

 圭一は、とめどなく溢れている涙に気づいていなかった。


「あらあら、何を泣いてるの? どこかで転んだの?」

「えっ? う、ううん、大丈夫だよ。目にゴミが入っただけだよ」


 恥ずかしくなった圭一は、慌ててごまかした。

 ――いつの間に、泣いていたんだろ……。


「だったらいいけど……。とりあえず、手を洗ってらっしゃい。今日は、圭一の好きなカレーライスよ」


 ボーっとして何の反応も示さない圭一に、母親が続けて言った。


「あら、嬉しくないの? 浮かない顔をして。いつも、はしゃいで喜ぶのに」

「そ、そんなことないよ! やった、カレーだ!」


 大げさに喜ぶ圭一を、母親は少し不思議に見ている。


「今日は、少し変ね」

「あはは、そうかな」


 圭一は、笑ってごまかした。

 ――母さんに会うために、過去に戻ったのだろうか?


 そんなふうに圭一が考えていると、玄関のチャイムが鳴った。


「はーい」


 圭一の母親が、玄関のドアを開けた。

 その時、玄関先からが怒鳴り声が聞こえてきた。


「あなたの息子さんが、うちの子を泣かせたんですよ! 一方的に殴られたと言ってるわ! どう責任をとるおつもりですか!」


 すごい剣幕で、どこかのおばさんが、まくしたてている。

 圭一は、見つからないように、そっと玄関先を覗き込んだ。

 そこにいたのは、同級生の大輔の母親だった。


「殴ることはよくないことですが、何か理由があったのではありませんか?」

「うちの子が何かしたって言いたいの!?」

「いえ、そういう訳ではありませんが」


 圭一の母親は、冷静に客観的に話そうとしているが、大輔の母親は聞く耳をもたない。

 マシンガンのように、怒鳴り続ける大輔の母親は、子供のためというよりも、自分のストレスをぶつけているようにも見えた。


 圭一は、大輔の母親が苦手だった。

 いつでも自分の息子の言うことは正しい。うちの子に限ってそんなことはありえない。絶対に間違っていない。自分の息子に落ち度があるはずがない。頭から決めつけている感じが子供の頃から好きではなかった。


 社会に出て、最初の上司も似ているところがあった。

 仕事のことだけでなく、自分の人格を否定してくるような最低の上司だった。

 俺の言ったやり方でやれ、他の仕事のやり方は必要ない。部下の仕事の話には一切聞く耳を持たない、独断的な上司だった。


 ――今日は、大輔と喧嘩をした日だ。

 圭一の脳裏に、当時の状況が蘇ってきた。


「圭一、この人形は俺がもらってやる。ありがたく思え」

「返してよ! 母さんに買ってもらった、お気に入りのぬいぐるみなんだ!」

「そんなこと知るかよ、返してほしければ取ってみろよ!」


 大輔は、どこにでもいる悪ガキで、圭一よりも身長が高かった。

 圭一に届かないように、ぬいぐるみを頭の上に持っていってからかっている。


「ほらほら、全然届いてないぞ。お前の母さんも背が低いから、お前も背が低いんだよ」


 にたにたと大輔は、笑っている。

 母親の悪口を言われたと思った圭一は、カァーとなって大輔の頬を殴った。

 その反動で大輔は転んで、ぬいぐるみを落とした。

 大輔は、頬を押さえながら瞳をうるうるさせて、大声で泣き出した。


「うわ――――ん。母さんに、言いつけてやる! 覚えてろよ!」


 ――それでこの場面か……。このあと、どうなったんだっけ?


 まくしたてる大輔の母親に、圭一の母親は深々と頭を下げている。

 その姿に、幼いながらも胸が痛かったのを圭一は覚えている。

 すごく切ない気分になったことを。

 怒鳴り声が一段落して、母親が少し疲れた顔で戻ってきた。


「圭一」


 そう言うと母親が、突然、圭一の手をもって甲をつねった。


「いたい!」


 すると母親が言った。


「圭一は、大輔くんに何をしたか覚えてる? つねるだけでこんなに痛いの。殴るともっと痛いの。大輔くんはもっと痛かったのよ」


 悲しい顔をして、続けて圭一の母親は言った。


「暴力を振るうような人間になっちゃダメ。自分がされて、嫌なことは人にしちゃダメ。人の痛みが分かる優しい人間になりなさい」


 そう言って、母親は圭一を抱き締めた。

 圭一の胸に、じんわりと優しさが広がっていく。

 胸の奥の方が、じんわりと温かくなる感覚があった。

 ――この温もり。ああ、懐かしい。


 小さな頃は、なぜ抱きしめられたのか分からなかったが、今の圭一には充分、それが分かった。

 この優しさ、この温もり。

 ずいぶん前に、圭一がなくしてしまったものである。

 それが何なのか圭一は、ハッキリと感じた。


「母さん、ありがとう」


 そう呟いた瞬間、周りの景色が歪み始めた。

 またゆっくりと、時間が逆流していく。


 ――まだ、もう少し。あともう少しだけ、このままで……。

 まどろみに抵抗するが、意識はしだいに遠くなっていく。


 意識が途切れるギリギリのところで、微笑みながら頭をなでる母親の姿が見えた。

 一言だが、伝えられなかった言葉を伝えられて、圭一は満足した。


 ――産んでくれてありがとう。あなたの子供で良かった。

 そう思っているうちに意識は、まどろみの中に消えていった。



 意識がゆっくり戻ってきた圭一は、目を開けると、さっきと同じようにガラスのショーケースの前に立っていた。

 目の前に、満面の笑みの店主が立っていた。


「忘れてしまっていた感情は、思い出せましたか?」

「はい」


 圭一は、胸の真ん中を左手で押さえた。

 母親とのやり取りを思い出して、温かいものを感じていた。


「その温もりが愛情です。誰かを思いやる気持ちです」

「はい、もうずっと忘れていたものでした」


 店主は、頷いた。


「一緒にいすぎたり、近くにいすぎたり、それが当たり前になると愛情や優しさ、そして誰かを大切だと思う気持ち。そういったものを人は、忘れてしまいがちです。愛情は目に見えないものです。目に見えないからこそ、口に出さなければ伝わらない気持ちもあります」

「本当にそうですね」

「さぁ、次が最後です。もうあなたは、取り戻しかけている。あなたが同じ過ちを繰り返さないように、それを見ていきましょう」

「過ちですか?」


 圭一が、そう尋ねると、店主は静かに頷いて、またキャビネットの引き出しから一冊のファイルを取り出した。

 そのファイルには、『彼女〜ムービータイム〜』と書いてある。


 さっきまで、何も置いていなかったはずのガラスのショーケースに、いつの間にかポツンと光に包まれたビデオテープのようなものが置いてある。

 ――ビデオテープ? 今の時代に珍しいな。


「さぁ、これが最後です」


 そう言うと店主はファイルを開いて、その光に包まれたビデオテープのようなものを取り出して入れた。まるで、ファイルの中にビデオデッキがあるかのように、カチッと音が鳴った。

 さっきまでと違って、体が動かせないとか、意識が遠くなっていく感覚はなかった。しかし、部屋全体がゆっくりと暗転していき、真っ暗になった。


 

 部屋全体が徐々に明るくなった時には、映画館のような場所にいた。

 正面には、大きなスクリーンがあった。

 圭一は、周りを見渡してみたが、観客は誰一人いなかった。

 呆然と突っ立っていると、場内アナウンスが流れてきた。


「他のお客さまのご迷惑にならないように、席にお座りください」


 ――お客さま? 俺しかいないのに……。今度は何が起こるんだろ?

 とりあえず圭一は、アナウンスに言われるままに席に座った。


 すると、真っ暗だったスクリーンが、ゆっくりと光り出した。

 よくある映画館のCMのように、いろんな映画の番宣が流れ出した。

 その番宣は、気のせいか古い感じがした。


 ――どこかで見たことがあるような……。

 そう思っていると、実際に見た記憶がある映画の番宣が映し出された。

 それは、もう五年以上前の映画だった。


 ――かなり前に見た映画だ。どうなってるんだ?

 散々、不思議な経験をしてきた圭一だったが、展開が読めない状況に緊張していた。

 CMがひと通り終わり、スクリーン全体が暗転し出した。


 ゆっくりとスクリーンが明るくなっていき、映画が始まった。

『彼女』というタイトルだった。


 圭一は、唖然とした。

 目に飛び込んできたのは、数年前に取り壊されて、今は存在していない見覚えのあるカフェ。


 ある日、このカフェに圭一は呼び出された。

 懐かしい姿の女性が映し出されて、ちょうど圭一に告白するシーンから始まった。


「圭一くん、私と付き合ってください!」

「俺なんかでよければ、喜んで」

「ほんと! 良かったぁ」

「俺のどこがいいの? あまり話したこともないけど」

「真面目で、優しそうなところ」


 スクリーンの中の女性が、眩しい笑顔で答えている。


 彼女の名前は、桐谷由衣。

 圭一と由衣は、同期入社だった。

 お互い顔は知っていたが、挨拶をする位で、まともに話したことはなかった。

 愛想が良くて、身長も高くて、細身でモデルのような子だった。同期の中でも人気が高くて、素直に嬉しかったが、なぜ自分に惚れたのだろうと、圭一は不思議だった。


 圭一にとって、大学の時以来の彼女だった。

 付き合うということ自体、どうしていけばいいのか、さっぱり忘れてしまっていたが、由衣が積極的にリードしていってくれたから、圭一は困らなかった。


 彼女と過ごした日々の映像が、スクリーンに映し出されている。

 ボーリングやカラオケ、遊園地や買い物。そんなありふれた日々のシーンが、BGMと一緒に流れている。

 この頃、いつかは、このまま結婚するんだろうなと圭一は、ぼんやりと思っていた。


「ねぇ、圭一くん。ずっと、一緒にいようね」


 幸せそうな笑顔で、圭一と由衣は手をつないで歩いている。

 圭一は、スクリーンを見ながら思い出していた。

 手と手をつないだ時の胸のときめきを。

 確かに、恋をしていた頃のことを。

 いつもの日常が、まるで全然違う日常に見えて、毎日が輝いていたことを。


 ――こんな日々が、ずっと続くと思っていた。

 映画を見ながら圭一は、当時の自分の気持ちを回顧していた。


 だけど、そんな日々は、長くは続かなかった。

 ある日、突然、圭一は由衣に別れを告げられた。

 一方的に、別れてくれとのことだった。

 告白された日も、振られた日も、くしくも同じカフェだった。

 ちょうど、映画にそのシーンが映し出されている。


「急に、ごめんね。でもずっと悩んでたんだ」

「どうして? 他に好きな人ができたのか?」

「そうじゃないよ」


 スクリーンの由衣は、首を横に振った。そして何か覚悟を決めた表情で圭一を見つめた。


「正直に言うね。圭一くんのことは、真面目で優しくて好きだよ。だけど、付き合っているうちに気づいたの。私はリードするんじゃなくて、リードしてほしいんだって」

「リード?」

「そう。どこかに行く時も、何かをする時も、いつだって私が全部決めてきたじゃん。私が言うことにいつも、首を縦に振るだけだし。私の言うことを否定したこともないじゃん」

「それは、由衣が決めてくれることに不満なんてなかったし」

「違うよ、そうじゃないよ! 私は圭一くんが行きたいと思ってるところや、好きなことを一緒に共有したかったんだよ。私ばっかり頑張ってるみたいで馬鹿みたいに思えてきたんだよ」


 由衣は、訴えるように叫んだ。

 圭一は、うつむいて黙っている。


 ――いつも、頷くだけの受け身な俺が嫌になったんだ。

 スクリーンを見ながら、圭一は思った。


 由衣は、何かを確かめるように尋ねた。


「最後に何か、私に言いたいことはない?」

「も、もう……。ほんとに……。いや……」


 圭一は、いまだにその場面のことをリアルに覚えていた。

 胸が苦しくて、それでも由衣が決めたならと自分の気持ちを必死に押し殺していたことを。

 ――俺は、由衣が大好きだったのに! 俺は……。


「何?」


 当事は気づかなかったが、スクリーンの由衣は、何かを期待するかのように首を斜めにして、圭一を覗き込んでいる。


「い、いや。由衣が、幸せなら俺は、それでいいよ」


 スクリーンの圭一は、悲しみを堪えたような笑顔で無理に答えた。


「どうして、そうなるのよ」


 由衣は、テーブルに自分の分のお金を置いて、呆れたような怒ったような顔をして席から立ち上がった。


「待って」


 圭一は、慌てて立ち上がって引きとめようとした。


「もう、いいよ」


 由衣は、首を横に振って答えた。

 最後に悲しい顔をして、圭一に背を向けてカフェを出ていった。

 その時の圭一はなぜ、由衣が悲しい顔をしたのか分からなかったが、今ならその理由が分かった。

 由衣は、引き止めてほしかったんだと。

 最後にチャンスをくれたんだと気づいた。


 ――俺は馬鹿だ……。

 映画をじっと見ている圭一。

 ――何笑ってんだ俺。自分の気持ちをいつも押し殺して、笑ってごまかして。

 圭一は、スクリーンに映る自分に苛立っていた。

 ――由衣が決めたなら、しょうがないって諦めて。本当の気持ちを言えよ!

 映画の中の自分を見ながら、心の中で圭一は叫んだ。


 その後、由衣に新しい彼氏ができた。

 同じ社内の人間だった。

 たまにすれ違っては、会釈するだけの関係になった。

 圭一と付き合っていた頃のことなんかは、すっかり忘れているかのように楽しそうに笑っている。

 圭一は、その場面に出くわすたびに、心臓が苦しくなって息ができなくなった。

 張り裂けそうな胸を押さえながら、必死に笑顔をつくろって過ごした。

 何も考えずに切り替えていこうと思っても、脳裏に良かった頃の日々が焼き付いていて、その愛しさと後悔の狭間に苛まれていた。


 やがて、結婚退職していった由衣。

 何もかも、手後れなんだとハッキリ自覚した日でもあった。

 あの時、ちゃんと自分の気持ちを話すことができていれば、結婚相手は自分だったかも知れないのに。今さらか。様々な、禍々しい感情に心が引き裂かれそうになっていた。

 しばらくは、酒なしでは眠れないほど、精神的に破綻をきたした。

 もう、自分は二度と恋愛ができないんじゃないか? 誰かを好きになることなんてあるのか? そんな気持ちを紛らわすかのように酒で散らした。


 ずっと後悔だけが残った。

 これがトラウマになって、圭一は女性と付き合うのが怖くなった。

 それ以降は、恵しか異性の友達はいなかった。

 圭一は、映画を見ながら、心の片隅で恵のことを思い出していた。


 ――俺は、また本当の気持ちに気づかない振りをして、同じ過ちを繰り返すつもりだったのか?

 飲み会の帰りに、改札前で恵と話していた時に感じた、胸の奥のモヤモヤした気持ち。その気持ちが何なのか、圭一は、ようやく気づいた。

 自分の本当の気持ちに気がついた圭一は、いても立ってもいられなくなった。


 ――今度こそ……、今度こそ! 後悔しないように伝えたい!

 そう思っていると、映画のスクリーンがフェードアウトしていき、部屋全体が暗転していった。


 

 ゆっくりと明かりが点いた時には、映画館のような場所ではなく、またガラスのショーケースの前に立っていた。

 目の前には、穏やかな表情で店主が、圭一を見つめている。


「いかがでしたか? 自分の映画を見るというのは?」

「客観的に見れたからこそ、自分がどれだけ馬鹿だったのか分かりました。僕は、同じ過ちを繰り返してしまうところでした」

「人は失敗するものです。だけどそれは、次の幸せに出会うためのもので、すべてが間違いではないのです」

「はい、おかげで、大事なことに気づくことができました」


 店主は、大きく頷いた。


「不思議に思ったことはありませんか? こんなにも人が溢れている世の中で、生きているうちに出会える人は限られています」

「確かに、そうですね」

「出会いは奇跡です。その中でも、どんなに離れていても、どんなに年月が流れても、繋がっている絆は、それは運命なのです」

「運命……」

「行動してからの後悔と、行動しなかった後悔は同じではないのです。行動しなかった後悔は、いつまでも胸に残ります。行動してからの後悔は次に、また進むことができます。今のあなたなら、もう分かるのではありませんか?」

「はい。店主さん、あなたはひょっとして……。いえ、やっぱりいいです。また、今度来た時にでも聞かせてください。本当にありがとうございました」


 圭一は、店主に深々と頭を下げて、出口のドアに向かった。

 店主は、満足気に穏やかな表情で圭一の背中を見送った。



 想い出を売る店を出た圭一は、スマホを取り出し、すぐに恵に電話をした。

 誰が大切な人なのか、それに気づいた圭一は、早く気持ちを伝えたくてたまらなかった。


「もしもし」

「もう家に着いた?」

「うん、ちょうど今着いたところ。どうしたの?」

「あ、あのさ、突然なんだけどさ……」


 圭一は、告白しようと決めていたが、今の関係が壊れるのが怖くて、なかなか言葉が出てこない。


「圭一くん?」

「ごめんごめん、何でもないんだ……」

「変なの」

「んー、なんていうか、そうだな。これだけはちゃんと伝えておきたくて」

「どうしたの急に? 何? 何?」


 しばらく沈黙が流れた後、圭一が言った。


「いつも、ありがとう」

「どうしたの、急に改まって」

「いやぁ、今まで真剣に言ったことがなかったなと思って。深い意味はないよ、はは。簡単に言えば、感謝してるってことだよ」

「ふふん、やっと私の有り難みに気づいたか」


 得意気に恵が言った。


「ほんとに、ありがとうな」

「圭一くん、ほんとにどうしたの? なんかおかしいよ?」

「何もないよ、もう真剣なのはここで終わり!」

「ええ〜。何だかよく分からないけど、まぁいいかぁ」

「う、うん。それだけだから、それじゃ……、また」

「分かった。またね」


 そう言って電話を切ろうとした時、圭一の頭に店主の言葉が流れてきた。


『行動してからの後悔と、行動しなかった後悔は同じではないのです。行動しなかった後悔は、いつまでも胸に残ります。行動してからの後悔は次に、また進むことができます。今のあなたなら、もう分かるのではありませんか?』


 笑顔でそう言っている、店主の顔が蘇ってきた。


 ――また同じこと過ちを繰り返すところだった。

 圭一は、店主の顔を思い出しながら、心の中で気を引き締めた。

 想い出を売る店で過去の自分を見ていなかったら、きっともうここで、止まっていただろう。同じ後悔を繰り返していただろう。

 今の関係が壊れる怖さより、また後悔を胸に抱えて生きていく方が怖い。店主のおかげで、それを思い出した圭一は、勇気を出した。


「や、やっぱりちょっと待って!」

「う、うん。今日は、ほんとになんか変だよ? どうしたの?」

「ほんとに、今さらなんだけどさ」

「うん」

「俺、恵のことが、す、好きみたい」

「何、その人に言わされたみたいな言い方」


 恵は、少し笑っている。


「い、いや、改めて自分の気持ちに気づいたというか。ちゃんと、もう一度言うよ。俺は、恵のことが好きだ」


 圭一は、改めてしっかり言った。

 恵は黙っている。

 しばらくの沈黙のあと、恵が呟いた。


「ありがとう……」 

「ちゃんと気持ちを伝えたかったんだ。今すぐ、答えを聞かせて欲しいとかじゃないから、また落ち着いたら答えを聞かせてよ」

「うん、分かった……」

「じゃ、またな」

「うん、またね」

 

 電話を切り終えた圭一は、胸がすっきりしていた。


 ――こんな気持ちになれたのも、店主のおかげだ。

 圭一は、もう一度お礼がしたいと思い、振り返った。

 しかし、もうそこには想い出を売る店はなかった。

 ただの空き地になっていた。


 ――つい数分前まで確かに存在していたはずなのに……。

 圭一は、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、頭の中に店主の言っていた言葉が蘇ってきた。


『あなたの心の空白が埋まるまで』


 圭一は、理解した。


 ――そうか。俺は、もう心の空白が埋まったんだな。

 さっきまで想い出を売る店があった、何もない空き地にお礼をするように、圭一は深く頭を下げて、踵を返した。


 またいつかあの店主に、会いたいような会いたくないような、不思議な感覚が胸にある。

 だけど、それは嫌なものではなく、とても心が温かくなるようなもの。

 ただひとつ言えるのは、また前を向いて歩き出せるということ。





* * * * * * * * * * *




 恵は、電車に揺られながら、圭一と改札で話していたことを思い出していた。


「恵が幸せならいいよか……。私のことは何とも思ってないのかな? 何か言ってくれることを期待してたのかな? 言わなきゃ良かったなぁ」


 そんなことをぶつぶつと、ひとりごとのように恵は呟いている。

 周りの人たちは、不審者を見るように視線を向けている。

 思いふけている恵は、そんな周りの視線にまったく気づいていなかった。


 いつの間にか、最寄りの駅に着いた恵は、まだ少しお酒が残っている頭で、ぼーっと歩いて、帰路についた。

 恵は、自分の気持ちが分からなかった。

 圭一のことは、信頼もしているし、感謝もしている。

 だけど、それが何の感情なのか分からなかった。


 ――告白の返事どうしよう? 私は、圭一くんをどう思っているんだろう?

 そんなことを、悶々と考えながら歩いているうちに家に着いた。


 家のドアを開けて、玄関で靴を脱ごうとした、その時。

 カバンの中に入れていたスマホが震えた。

 取り出してみると、ディスプレイには、春日圭一と表示されていた。

 靴を脱いで、家に上がり、恵は電話に出た。


「もしもし」

「もう家に着いた?」

「うん。ちょうど今、着いたところ。どうしたの?」


 ――珍しいな。集会の後に電話してくるなんて。


「あ、あのさ、突然なんだけどさ……」


 そう圭一が言ってから、無言の時間が続いた。

 恵は、不思議に思って問いかけた。


「圭一くん?」

「ごめんごめん、何でもないんだ。今のは忘れて」

「変なの」


 恵は、首を傾げた。


「んー、なんていうか、そうだな。これだけはちゃんと伝えておきたくて」

「どうしたの急に? 何? 何?」


 しばらく沈黙が流れた後、圭一が言った。


「いつも、ありがとう」

「どうしたの、急に改まって」


 平然と答えているが、恵は少しドキドキしている。


「いやぁ、今まで真剣に言ったことがなかったなと思って。深い意味はないよ、はは。簡単に言えば、感謝してるってことだよ」

「ふふん、やっと私の有り難みに気づいたか」


 恵は、得意気に答えたが、それは自分がドキドキしていることがバレないように装うためだった。


「ほんとに、ありがとうな」

「圭一くん、ほんとにどうしたの? なんかおかしいよ?」


 ――なんか変だ。

 恵は、違和感を感じた。


「何もないよ、もう真剣なのはここで終わり!」

「ええ〜。何だかよく分からないけど、まぁいいかぁ」

「う、うん。それだけだから、それじゃ……、また」

「分かった。またね」

「や、やっぱりちょっと待って!」

「う、うん。今日は、ほんとになんか変だよ? どうしたの?」

「ほんとに、今さらなんだけどさ」

「うん」

「俺、恵のことが、す、好きみたい」

「何、その人に言わされたみたいな言い方」


 心臓がドキっと、大きく震えた。

 恵は、それをごまかすように少し笑って答えた。


「い、いや、改めて自分の気持ちに気づいたというか。ちゃんと、もう一度言うよ。俺は、恵のことが好きだ」


 恵は、胸がドキドキしていた。それを抑えようとしたが、なかなか止められなかった。


 ――なんだろう? この胸の高鳴り。

 その胸の高鳴りは、会社の人から告白された時のものとは、また違った種類のものだった。

 だけど恵には、それが何なのかハッキリと分からなかった。

 沈黙していたことに気がついた恵は、とっさに呟いた。


「ありがとう……」 


 圭一に対しては、友達以上の感情があるのは確かだった。


 だけど、それが恋愛感情なのかが分からなかった。


「ちゃんと気持ちを伝えたかったんだ。今すぐ、答えを聞かせて欲しいとかじゃないから、また落ち着いたら答えを聞かせてよ」

「うん、分かった……」

「じゃ、またな」

「うん、またね」


 電話を切り終えた恵は、まだ胸がドキドキしていた。

 だけど、嫌な気持ちはまったくなく、むしろ嬉しい気持ちの方が勝っていた。


 ――今日はもう、お風呂に入って寝よう。あれこれ考えてもしょうがない。

 何だかよく分からない感情がこんがらがっていたが、明日は友達の真希と買い物に行く予定になっていたので、とりあえず恵は、床につくことにした。



 翌日、目が覚めた恵は、まだ圭一からの告白の余韻が残っていた。

 恵は、ぼ〜っと寝ぼけまなこのまま、髪をとかしていた。

 今日は休日だから良かったが、平日ならとても仕事が手につく状態ではなかった。

 しかし、ふと時計を見た恵はびっくりして我に返った。

 ぼ〜っとしている間に、待ち合わせの時間が押し迫っていた。


「やばい、早く準備しなくちゃ!」


 恵は、慌てて化粧をして服を着替えた。


 幸い恵は、最寄りの駅から徒歩五分で、わりと近くのマンションに住んでいた。

 待ち合わせ場所は家から五駅で、三十分もかからない距離だったので、急げば間に合う時間だった。

 ダッシュで駅まで向かい、急いで電車に乗り込み、恵は目的地へ向かった。

 恵は急いで駅まで向かって、電車に駆け込んだ。


 待ち合わせ場所には、もう友達の真希の姿があった。

 真希は、恵の会社の同僚でプライベートでも仲がいい。

 何でも話し合える親友でもある。


「おまたせ!」


 少し息を切らせながら、恵が手を振って合図をした。


「恵、昨日、どんな寝方したの?」

「えっ?」


 真希が、自分のうしろ髪を指差している。


「髪、跳ねてるよ」

「慌ててたから、ちゃんと寝癖なおせてなかったみたい」


 恵は、慌てて跳ねてる髪の毛を押さえた。


「めずらしいね、いつもちゃんと整えてるのに。何かあった?」

「う、うん」

「あ、例の会社の人に告白されたって話? 何か進展あったとか?」

「ま、まぁ、あとで、ちゃんと話すよ」

「なぁに? 気になるなぁ」

「と、とりあえず買い物しようよ」


 恵は、その場を何とかごまかして取り繕った。


 恵と真希は、給料が入ったら買おうと決めていた洋服と靴、アクセサリーを買いに、予定していた順番で店をまわった。

 お目当てのものを、ひと通り買い終えた恵と真希は、カフェに入った。

 恵は、アイスカフェラテを、真希は、アイス抹茶ラテを頼んだ。


「予定してたもの、全部買えて良かったね」


 恵は、アイスカフェラテを飲んで、一息ついて言った。


「そうだね、今日は欲しいものゲットできたし大満足だよ」


 真希は、アイス抹茶ラテを飲みながら笑顔でそう答えると、さらに続けた。


「そう言えばさ、告白されたって話、どうしたの?」

「うーん。それは、まだ考え中」

「そっかぁ」


 真希は、恵の前の彼氏のことを聞いていたから、あまり深くは追求しなかった。


「ちょうど昨日、圭一くんにも相談したんだけど、私が幸せならいいってさ」

「圭一くんには、何でも話すよね。圭一くんのこと、好きなんじゃないの?」


 真希は、少し笑いながら話した。


「うーん、どうなんだろ? 自分でもよく分からないんだ。ずっと相談に乗ってもらってきたから、何でも話せるし、信頼もできるし。でも、今は恋愛がどんなものだったのかも忘れてしまってるよ」


 恵が自嘲気味に笑って、少し照れながら続けた。


「さっき、あとでちゃんと話すよって言ってたことなんだけどさ」

「うん」

「実はさ、昨日、圭一くんから告白されたんだ」

「えっ! ほんとに!?」

「う、うん」

「それで、どうしたの?」

「待ってもらってる」

「そっか……。私は、圭一くんとなら安心だなぁ」

「なんで?」

「んん、ズバリ言うよ? 圭一くんなら、何でも話せると思うし、元気な時も、そうじゃない時も、無理に明るく接しなくても自然体でいられると思うんだ」

「うーむ」


 恵は探偵の決めポーズのような格好で、アゴに手を当てながら考えた。


 恵は、元彼に植え付けられたトラウマのせいか、男性に心を開くことができなくなってしまっていた。

 男性への不信感と恐怖心が、呪いのように心に刻み込まれていた。

 自分では意識しているか分からないが、普段の恵は男性と接する時、無意識にそれを隠すように明るく接する癖がついてしまっている。

 だが不思議と圭一にだけは、警戒心はなく心を開くことができた。

 真紀が、それを察しての言葉なのかは分からなかったが、確かにその通りだった。


「私は、恵に前と同じような目にあってほしくないんだよ。今度こそ、幸せを感じられて自分らしくいられる人と一緒になってほしい」

「自分らしくいられる場所……」


 真紀の真剣なまなざしに、恵は大きく頷いた。


「ありがとう、真紀。後悔しないようにしっかり考えてみる」

「うん」


 真希は、笑顔で頷いた。


 会話がひと通り終えた頃、恵が尋ねた。


「さぁ、これからどうしよか? 買うものは買ったし、軽く飲んで帰る?」

「あ、恵、ごめん。このあと私、用事があるんだ」

「えぇ〜、そうなの」

「ごめん! 昨日の夜、急に予定が入ったんだ」


 真希は、手を合わせて頭を下げて謝っている。


「いいよ、いいよ。このあとの予定は決めてなかったんだし。予定って彼氏?」

「う、うん」

「付き合って、一年位経つんだっけ?」

「ちょうど、今月で一年なんだ。それも兼ねて、会うことなっちゃって」


 真希が嬉しそうに、照れながら答える。


「ずっと仲がいいのは、すごいことだよ。よっぽど相性がいいんだと思うよ」

「恵も、このあと圭一くんを誘ってみたら?」

「無理だよ。告白の返答もしないといけないから、今はまだ誘えないよ」

「そっかぁ。私は圭一くん、お勧めだけどなぁ」

「お勧めって……」


 そんなやり取りをしながら、二人は笑い合った。


 カフェを出て駅に向かって歩いていると、真希が指を差しながら言った。


「じゃ、恵、私こっちだから。ここから、近い場所で待ち合わせてるから」


 真希が手を振りながら、恵と逆方向に歩いていく。

 恵は、真紀を見送る形で手を振った。


 真希の背中が遠くなったのを確認して、恵はカバンからスマホを取り出した。


「うーん。まだ十八時かぁ」


 ――圭一くん、誘ってみようかなぁ。いや、ダメだ。

 告白の返答をしなくてはいけないことを思い出し、恵は首をブンブンと横に振った。


 まだ時間は早かったが、今日買う予定の物はすべて買って目的は達成していたので、とりあえず帰ることにした。

 恵は、また駅に向かって歩き始めた。


 恵は、時間がまだ早かったので、駅までの距離をいつもよりもゆっくり歩いて、何か面白そうな店や、新しい発見がないかと辺りを見渡しながら歩いた。

 改めて街を観察しながら歩いていると、街にはカップルがいっぱいいるなと気づいた。

 いつもなら、気にならないが、今日は、なぜか妙に恵の目に入ってきた。


 街中を歩く恋人たちを見ながら、恵はふと思う。

 あんな風に、誰かと寄り添って歩くことなんかあるんだろうか?

 とても、今は考えられない。

 一人が気楽だし、傷つきたくないし、傷つけたくないし。

 そんなことを思って駅に向かって歩いていると、前の方から見覚えのある男が歩いてくる。

 隣には、彼女と思われる背の高いチャラい女を連れている。

 ケタケタと人目を憚ることなく、高笑いしている。


 ドクンと心臓が大きく跳ねた。

 それは、恵の元彼だった。


 心臓がドクン、ドクンと激しく鼓動を刻む。

 走馬灯のように、元彼との日々が悪夢のように脳裏に蘇ってきた。

 浮気されたことや暴力を受けてきた日々のことが。

 ブルブルと体は震えだし、今にも膝をつきそうになった。


 幸い、人波に紛れて元彼は恵に気づいていない。

 ここで気づかれる訳にはいかないと恵は、激しく脈打つ心臓を必死に手で抑えながら、人影に隠れて脇道の建物に身を隠した。

 そして、一気に力が抜けたかのように座り込んだ。


 しばらくその場でうずくまっていると、「大丈夫ですか?」と道行く人たちが、心配して声をかけてくる。

 恵は、何とか首を縦に振って、頷くのが精一杯だった。

 どれくらい時間がたったのか、それさえも分からなかったが、少し落ち着いた恵は、また駅に向かうことにした。


 恵はやっとの思いで、電車に乗り込んだ。

 電車に揺られながら、さっきの元彼との遭遇を思い出すと、まだブルっと体が震えた。

 別れてから一度も会ったことはなかったが、いまだにあの頃の日々がトラウマとして心に残っていることを確信した。

 駅に着く頃には、かなり落ち着きを取り戻していたが、もう少し気持ちを切り替えようと思い、恵はいつもよりも時間がかかる道で帰ることにした。


 帰り道の途中にある自動販売機でペットボトルの水を買って、その水を飲みながらゆっくり歩いて帰っていると、ふと目に飛び込んでくる光景が以前と違うことに気づいた。

 そこには見慣れない店が建っていた。


 アンティーク調で温かみのある外観。

 まるで昭和から時間が流れていないような雰囲気だった。

 周囲の風景とはまるで異質な佇まいで存在していた。

 その店だけが恵の目には、やけにクローズアップして見えていた。

 心なしか、ぼんやりと光っているようにも見える。


 ――こんな店、あったっけ?

 久しぶりに、いつもの帰り道と違うルートで帰ったから、知らない間に新しく建ったんだと恵は思った。

 しかし、道行く人たちは、その店を見向きもせずに歩いていく。


 ――え? 誰も気にならないの?

 恵は、少し不思議に思ったが、ぼんやりと光る店に誘われるように、ドアノブに手をかけた。

 ゆっくりとドアを開いて、おそるおそる店の中を覗き込みながら、恵は足を踏み入れた。


 しかし、部屋に入ったはいいが、そこには何も置いてなかった。

 ただ、豆電球を点けているような、淡い明かりだけが部屋全体をうっすらと照らしていた。

 ひどく言えば、殺風景で何もない部屋だった。


「何……。この店……」


 恵は、ひとりごとのように呟いた。


 少し目が慣れてきた恵は、周りに何かないか、もう一度部屋全体を見渡した。

 よく見ると、図書館のように、壁際にぎっしりと部屋を取り囲むように本棚が並んでいた。

 本棚には、本やらファイル。カセットテープ、ビデオテープ、CD、DVD、いろんなものが並んでいる。

 さらにゆっくり歩いていくと、奥に大きな扉が開きっぱなしになっていることに気づいた。

 その扉の上に飾ってある年季の入った掛け時計が印象的で、恵の目に妙にくっきり映った。

 時間は、十八時三十分を差している。


 ――何のお店なんだろう?

 そう思っていると、開きっぱなしの扉から、ふと人の気配を感じた。


 恵は、ごくりと喉を鳴らした。

 ゾクっと背中が震えて恐怖心があったが、恵は目を細めて開きっぱなしの扉の方を注意深く見てみた。

 そこには、白いひげを生やした、おじいさんが立っていた。

 ひげをしゃりしゃりと触りながら、にこやかに恵の方を見ている。


「いらっしゃいませ」

「ど、どうも」


 少しビクッとして恵は答えた。

 さらに、疑問に思ったことを尋ねた。


「ここは、アンティーク店か何かですか?」

「いいえ、ここは想い出を売る店です」


 この店の店主らしきおじいさんがそう答えると、恵はハッと圭一が話していたことを思い出した。

 ――ここが、想い出を売る店。


「でも、何も置いてありませんけど……」

「ちょうど部屋の模様替えをしたところでして。いつもでしたら、この部屋の真ん中に横長のガラスのショーケースを置いているんですが、今日は、奥にしまってしまいました。その代わりに、部屋の壁際に沿って本棚を並べてみました」

「そ、そうなんですか」


 元の状態を知らない恵は、とりあえずあいまいに答えた。

 すると、店主が口角をゆるやかに上げた。


「このお店は、普通の人間には見えません。心の中の何かを失った人にしか見えません。今、あなたにとって一番必要なメッセージを、想い出を売る店は様々な形で見せてくれます」


 店主は、そう言うと壁際の本棚の前まで歩いていって、一冊のファイルを取り出した。

 そのファイルには、『山川恵〜想い出一覧表〜』と書いてある。

 店主はファイルを開いて、「ふぅ〜」っと一息ついて、ゆっくりと語り出した。


「山川恵、二十八歳。六つ離れた年上の姉がおり、小さな頃は、姉からのおさがりの服や物を貰うことが多かったが、それがたまらなく嫌だった。小学校の頃は、特にこれといってやりたいことはなかったが、中学校でバレー部に入り、絶対にオリンピックに出るという夢を持った。だけど高校になった頃には、姉が早々と結婚して、それが幸せそうに見えて自分も結婚したいと思うようになった」

「う、嘘……。どうして、そんなことが分かるんですか?」


 恵は、唖然としている。


「ここは、想い出を売る店。あなたのことは、この『想い出一覧表』にすべて載っています」


 店主は、ニコッと笑い、手に持っているファイルを見ながら言った。


「そんなことが、ほんとにあるなんて……」

「信じられませんか?」


 店主は、穏やかに微笑んで、手に持っているファイルをめくりながら続けた。


「高校を卒業して大学生になった頃、周りの友達に恋人ができ始めて焦り始める。かといって自分が納得いく人じゃないと嫌だというのもあって、一人だけなかなか恋人ができなかった。その焦りから全然タイプじゃない人と付き合ったが、ハグされた時にゾッとして、その男を突き飛ばし部屋から逃げるようにして……」

「わぁ―――、もういいです! 分かりました!」


 恵は、店主の続きの言葉をかき消すように叫んだ。


「信じてもらえましたか」


 店主は、嬉しそうに微笑んでいる。


「それでは、あなたが失ってしまった心が、いつの想い出なのか見ていきましょうか」

「失ってしまった心……」


 店主は、そう言うと、手に持っていたファイルを本棚にしまい、また違うファイルを本棚からを取り出した。

 そのファイルには、『大切なもの〜フォトタイム〜』と書いてある。

 店主は、そのファイルを開いて、頷きながら呟いた。


「なるほど、なるほど」

「今度は、何のファイルですか?」


 恵は、怪訝そうに店主を見た。


「このファイルには、あなたが失ってしまった心が載っています」

「失ってしまった心ですか?」

「はい。その時の出来事によって、今、あなたが見失っているものが書かれています」

「見失っているもの……」

「人は、ある経験から何かを手に入れたり、失ってしまったりします。それは、形あるものだったり、形なきものだったりします。良い想い出も、辛い想い出も、同じように得るものがあると気づけた時に、人はまた前に進めます。失敗したことは、幸せに繋がるためのものだったりすることもあります」

「失敗が幸せ……」

「よく分かりませんか?」

「は、はい」

「それでは、実際に見に行ってみましょうか」


 店主がそう言った瞬間、ゆっくりと部屋の電気が消えていった。



 ゆっくりと明かりが点いた頃には、さっきまでいた部屋とはまったく違う部屋にいた。

 まず目に飛び込んできたのは、小学校の教室で使用するようなスクリーン。

 そして、スクリーンに光を照らしているのは映写機。

 映写機は、店主が持っていたファイルと思われるものを照らしている。

 おそらくファイルの中にフィルムがあって、それを映し出しているんだろう。

 ついさっきまでいた殺風景な部屋ではなくて、スクリーンを取り囲むように椅子が螺旋状に並んでいて、どこか懐かしい昭和の雰囲気がする部屋に変わっていた。

 恵は、さっきまで立っていたはずなのに、いつの間にかスクリーンが正面に位置する椅子に座っていた。


 ――何? ここは一体どこなの?

 恵は、何が起こったのか理解できていなかった。


 混乱している恵をよそに、スクリーンにはタイトルが浮かび上がってきた。

『大切なもの』というタイトルだった。


 恵は、映し出されたタイトルに刮目した。

 すると、結婚式のフォトムービーのように、ゆっくりと写真が切り替わっていった。

 恵は、何が起こっているのか分からなかったが、ただ映し出されている写真をじっと見つめていた。


 なぜ、こんな場所にいるのか?

 さっきまで話していた店主は、どこに行ったのか? 

 想い出を売る店は、幻だったのか?


 いろんな疑問が頭に浮かんだが、フォトムービーを見ているうちに、そんな疑問も忘れて、切り替わる写真を注意深く見ていた。

 見ているうちに、自分の過去の想い出がフォトムービーとして流れていることが分かった。

 写真は、セピア色に彩られている。

 その写真を演出するかのように、フォトムービーに合わせて、心地良いオルゴールが鳴り始めた。

恵は、セピア色に彩られたフォトムービーを見ていると、その映し出された写真の時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。

 しばらくの間、懐かしむようにフォトムービーを見ていた恵だったが、ある写真に切り替わった時にハッと我に返った。


 写真には、元彼と過ごした日々の出来事が、映し出されていた。

 ゆっくりと写真が展開されていく。


 街で元彼と遭遇した時は拒絶反応が出たが、写真として見る分には、冷静に客観的に見ることができた。

 元彼とは就職して、数合わせで無理やり参加させられた合コンで知り合った。

 押しの強い男で、何度も断ったが、諦めずに何度も告白してくる姿に根負けして、結局、断り切れずに付き合うことになった。


 だけど、それが失敗だった。


 付き合った最初の頃は優しかったが、半年も経つ頃には、付き合った当初とは人が違うみたいになっていた。

 上から目線で、何かと命令口調で接してくるようになった。

 まるで恵の気持ちと同調しているかのように、写真が絶妙なタイミングで切り替わっていく。


 浮気相手が発覚してショックを受けているシーンの写真。

 問い詰めてケンカになって、殴られているシーンの写真。

 それを境に、気に食わないことがあれば、暴力を振るうようになった。

 暴言は、日常茶飯事だった。

 そのシーンが結婚式のフォトムービーのように流れている。

 流れていくフォトムービーに合わせて、恵は記憶が鮮明に蘇ってきた。


 バレたことから、悪びれもせず、堂々と浮気をするようになった。

 浮気相手といる時は、他人のふりをしろなどと言ってきた。

 完全に都合のいい女になっていた。

 そんな日々に耐え切れなくなった恵は、元彼に別れてくれと言った。


「お前みたいな、疑い深い女、誰と付き合っても上手くいかねぇよ。清々するぜ」


 最後まで悪態をつかれて、いろいろと言ってやりたいことはあったが、恵は殴られるのが嫌だからグッとこらえた。

 元彼は浮気相手の方に行ってしまい、恵は捨てられた形になったが、別れることができてホっとした。


 やがて、フォトムービーのシーンが切り替わった。

 写真には、すれ違いざま声をかけられて、振り返って驚いている恵が映っていた。


 ――このシーンは街で偶然、圭一くんと再会した時の写真だ。私はボーっと歩いていて全然気づいていなくて、圭一くんが気づいて声をかけてくれたんだっけ。


 彼氏と別れてから、しばらく経ったある日。偶然、恵は圭一と再会した。

 まともに話すのは、中学を卒業して以来だった。


 中学生になって周りが恋愛を意識し出した頃から、二歳年上の圭一と話すとからかわれるようになって、周りを気にしてあまり気兼ねなく話せなくなった。

 圭一が卒業してからは、近所に住んでいても、そうそうバッタリ会うこともなくなった。たまに朝の通学時にすれ違うことはあったが、お互い急いでいたのもあり軽く挨拶をするくらいで、ゆっくり話すことはなくなっていった。

 恵は、高校は女子高に通っていた。

 圭一とは、まったく違う場所にある学校に通っていたのもあり、ますます疎遠になっていった。

 ゆっくり話すのは、十年以上ぶりだった。


 ――久しぶりの再会で嬉しくなって、結構長い時間、立ち話したんだっけ。

 長い間、話していない期間があったにも関らず、そんなブランクを感じさせないほど自然に話せた。

 恵の目には、昔から何ひとつ変わっていない圭一の姿が映っていた。


 ――それで次の週末、久しぶりに飲みに行くことになったんだっけ。思い返せば、ここからが、圭一くんとの『集会』の始まりになったんだ。

 フォトムービーが、心のページをめくるように、その時の様子を展開していく。

 スクリーンには、圭一と二人でお酒を飲んでいる写真が映っている。


 ――最初は久しぶりだから、お互いの近況なんかを話していたっけ。

 恵は、写真を見ながら、他人事のように当時のことを思い出していた。


 圭一の肩に捕まって、駅に向かっている写真が流れている。


 ――久しぶりに再開して嬉しかったのか、私、この日、かなり飲んだんだっけ。

 お互いの空白だった数年分の時間を取り戻すかのように、語り合ったのを恵は覚えている。

 幼馴染という安心感からなのか、恋愛の話になった時に、浮気されたことや暴力を振るわれたことも、かなり詳細に圭一に話したことを恵はぼんやりと思い出していた。


 しかし、あるシーンに写真が切り替わった時、恵はハッキリとその時の記憶が蘇った。

 それは、圭一の襟元をもって、泣き叫んでいる場面の写真だった。

 今にも、その叫び声が聞こえてきそうだった。

 頭の奥の方で、その時の声が聞こえてきた。


『なんで、なんでこんな目に合わないといけないの?』


 写真から、今にもそんな声が聞こえてきそうだった。


 ――そうだ、再会して最初の飲み会の帰り道だ。恋愛の話で何もかも話し終えて、気が緩んだのか泣き崩れたんだ。

 写真を見ながら、誰かに本当の自分の気持ちを聞いて欲しかったんだと、今の恵には、その涙の理由が分かった。


 当時、真希にも話してはいたが、心の奥底に蓄積していた悲しみや悔しさという感情を吐露したのは、この日が初めてだったのかも知れない。

 胸に積もりに積もったままで、吐き出す場所がなかった心の中の涙が、ただとめどなく流れていた。

 圭一は、何も言わず黙って頷いてくれた。

 

 後になって圭一も、彼女に振られて、かなり苦しい日々を送っていたことを聞かされた。


 また、写真が切り替わった。

 泣いている自分に、圭一が肩に手を置いて慰めてくれている。

 立ち直るまでに、かなりの時間がかかった。


 ――この時、圭一くんがいなかったら、どうなってたんだろう。

 恵は、そう思うとゾッとした。


 そして、恵は気づいた。

 この時だけではなく、このあとも、ずっと圭一に支えられていたということに。

 圭一を思う時、確かにあった友達以上の感情。

 それは、自分で押さえつけていた、人を好きになるという感情だったということに。


 恵は、真希が圭一となら安心だと言っていた意味が分かった。

 自分らしくいられる場所。

 ありのままの自分を、受け止めてくれる人。


 ――そっか、私は圭一くんの前なら着飾らなくていい自分でいられるんだ。自分が自分でいられる場所なんだ。

 自分の気持ちにようやく気づいた恵は、胸が高鳴った。

 心臓が、いつもよりも早く胸をノックしている。


 だけど、それは元彼に遭遇した時の不快で吐き気がするような鼓動とは違って、脈打つ心臓のリズムは、まるで喜びで飛び跳ねているような心地良いものだった。

 恵の心の中に、忘れていた温かなものが蘇ってきた。


 ――ああ、そっかぁ……。この気持ち……。これが幸せなんだ。

 誰かを想う気持ち。それは、とても温かくて、時に切なくなるもの。

 そんな気持ちを、恵は感じていた。


 ――そうか、私は圭一くんが好きなんだ。

 写真は、また次々と切り替わっていく。


 その後は、集会という名の飲み会で、圭一と楽しく話している自分の写真が映し出されていた。

 徐々に、元気や明るさを取り戻していることに、写真を見ながら恵は気がついた。

 何よりも、着飾ることもなく自然体でいられていることを。


 彼氏に浮気されて、暴力を振るわれて、男性不信になりかけていた時に、誰が励ましてくれたのか。

 辛い時や苦しい時に、いつも誰が側にいてくれたのか。

 恵は、ずっと近くで支えてくれていた、大切なものに気づくことができた。

 それが、圭一だったということに。

 

 恵は、穏やかな気持ちで、微笑みながらフォトムービーを見ていた。

 やがて、フォトムービーに『おしまい』という文字が映し出された。

 すると、映画が終わった時のように、ゆっくりと部屋全体が暗転していった。



 部屋全体がゆっくりと明るくなった時には、また元の殺風景で何もない部屋に戻っていた。

恵は一人、ポツンと立っていた。

 まだ夢だったのか現実だったのか、意識がハッキリしていなかったが、恵の目に、扉の上の掛け時計が飛び込んできた。

 時計の時間を見た恵は、目を見開いた。

 時計の針は、店に入って来た時と同じく、十八時三十分を差したままだった。

 

「えっ、そんな、まさか……」


 ――お店に入った時、確か時間は十八時三十分だった。時間が流れていない?


「過去の想い出を見ているだけで、現実の時間は流れておりません。想い出という名のフォトムービーを見ていただけなのです」


 突然、声が聞こえてきた。


 声のする方へ振り返ると、いつの間にか店主がうしろに立っていた。


「そ、そうなんですか」


 少しびっくりして、恵は答えた。


 驚いた様子の恵を見て、店主は満足気にひげを撫でていた。

 そして、眉尻を下げて柔らかな表情で店主が呟いた。


「いかがでしたか? 大切なものは見つかりました?」

「は、はい」


 恵は、まるですべてを見ていたかのように話す店主に、一瞬たじろいだが続けて言った。


「近くにいすぎて、気づけなかった大切な存在に気づくことができました」


 店主は嬉しそうに、頷いている。


「辛いと思える過去だったとしても、その経験がなかったら、その胸の中にある気持ちは生まれなかったでしょう。それは、お金でも買えないかけがえのないものです」

「はい」


 恵は、胸に手を当てながら答えた。

 胸の奥には、温かな気持ちが溢れていた。


「さぁ、もうお行きなさい。あなたには、これからするべきことがあるでしょう」

「はい、ありがとうございました!」


 恵は、勢いよく返事をして、深々と頭を下げた。

 顔をゆっくり上げると、店主が微笑んでいる。


「あの、また……。いえ、何でもありません」


 またお会いできますか? そう言いかけて、恵は口を噤んだ。

 店主は、それを察したように優しい口調で語り出した。


「想い出を売る店に出会わなくても、人はいつでも過去にタイムスリップできます」

「え?」


 ポカンとしている恵に、店主はさらに続けた。


「人の心には、想い出が刻まれています。その時の歌や映画、香りや仕草。いろんなものが、その時の気持ちへといざなってくれます。例えば、想い出の歌を聴いた時に、その頃の情景が浮かんできませんか? 目を閉じれば、何もない真っ暗な目蓋のはずなのに、そこにはその時の光景が広がりませんか?」

「確かに、それは分かる気がします」


恵がそう答えると、店主は優しく頷いた。


「だから、もしも今後、大切なものを見失いそうになった時は、この想い出を売る店での出来事を思い出してみてください」

「は、はい、ありがとうございます!」


 恵は、もう一度店主に頭を下げて出口のドアへ向かった。

 出口のドアの前まで来た恵は、もう一度店主の姿を確認しようと思い、うしろを振り返った。

 店主は、穏やかに微笑んでいる。

 恵は、この想い出を売る店で起きた不思議な出来事と店主の姿を忘れないように、胸に刻み付けて出口のドアを開けた。


 

 想い出を売る店を出た恵は、胸に手を当てて音を立てる心臓を確認した。

 それは、とても懐かしくて、穏やかで心地良い鼓動だった。

 それを確認して恵は、カバンからスマホを取り出して、圭一に電話をかけた。


「もしもし」

「圭一くん、今、時間大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「あ、あのさ。昨日の告白の答えなんだけどさ」

「う、うん」


 圭一の声に緊張が帯びているのが分かる。

 ドクン、ドクン。心臓が大きく跳ねている。

 深呼吸して、恵は力強く言った。


「再会して約二年。私は、圭一くんが好きだということに気づきました。だから、逆に言わせてください。私と付き合ってください」

「えっ。どうした? 何かあった?」


 圭一は、驚いて動揺している。


「えっ、ダメなの?」

「いや、もちろん嬉しいし、喜んで付き合いたいよ」

「そっか、良かった」

「でも急に、どうした?」

「何か不満なの?」

「いや、まさか昨日の今日に返事がもらえると思わなかったから」

「詳しくは、また話すよ」

「分かった、ありがとう。今日から、よろしくな!」

「改めて言われると、恥ずかしいね。うん、よろしくね」

「今週集まったばかりだけど、来週の金曜日、『集会』しないか?」

「うん、いいよ」

「それじゃ、また金曜日にな。その時に、ゆっくり話そうか」

「分かった。はじめてだね」

「ん? 何が?」

「付き合ってから、はじめての集会だね」

「そ、そうだな。改めて言われると、照れるな」

「照れないでよ、こっちまで恥ずかしくなるじゃん」

「しょうがないだろ、こういうの慣れてないんだから」


 二人は、おかしくなって笑い合った。


「それじゃ、また金曜日にね」

「分かった、また連絡するよ」


 電話を切り終えた恵は、店主に報告をしたいと思い、うしろを振り返った。

 しかし、店があった場所には何もなく空き地になっていた。

 通り過ぎていく人たちは、それが当たり前だったかのように歩いていく。

 恵は唖然としていたが、すぐに理解した。


 ――そっか。私は、もう失ってしまった心を取り戻したんだ。

 恵は、もうそこには何もない空地にもう一度深くお辞儀をした。

 そして、自分自身の中に、まだ僅かだけど新しく生まれ変わったような、そんな感覚が芽生えていた。





* * * * * * * * * * *  




 恵と付き合うことになってから、初めての週末。


 圭一は、いつも通り仕事をこなして、早く仕事が終わらないかとソワソワしていた。

想い出を売る店と出会う前までの自分だったら、考えられないことだった。


 何の目的もなく毎日を過ごしていると、時間はあっという間に過ぎていくけど、何かひとつでも楽しみなことが待っているだけで、時間は正常に流れるんだと圭一は思った。

 何よりも、機械のように繰り返すだけの空虚な日々が、たったひとつ喜びが加わることで、こんなにも暮らしが彩りを見せるなんて今まで知りもしないことだった。


 ――早く、恵に会いたい。

 圭一の頭にあるのは、ただシンプルに、そんな気持ちだけだった。


「お疲れさまです」


 圭一は仕事が終わり、いつものように周りの職員たちに笑顔で会釈をして、席を立って帰ろうとした、その時。


「春日さん、何かいいことあった?」


 いつも、だんまり決め込んでいる圭一の横の席の社員が、珍しく話しかけてきた。


「どうしてですか?」

「いや、何となく、いつもより元気だなと思っただけだよ」

「いえ、特に何もないですよ」


 圭一は、平静さを装って、さも何もなさ気に笑顔で応えた。

 隣の席の社員が、そんな笑顔もできるんだと驚いた顔をしているように見えたが、圭一は気にせずに、軽く頭を下げて会社の出口に向かった。

 出口に向かう途中で、噂好きな女子たちが圭一をチラチラと見ながら、ひそひそと話をしていた。


「春日さん、今週に入って元気じゃない?」

「そう?」

「なんか雰囲気変わった気がするんだけど」

「気のせいじゃない?」

「いや、絶対に何かあったって」

「そうかな?」

「醸し出す雰囲気が全然違うよ」

「彼女でもできたんじゃない?」

「そうかも! そんな気がする!」


 その会話は、もはやひそひそ話と言えないレベルの声の大きさで、安易に圭一の耳に入ってきた。


 ――そんなに、いつもと違って見えるのかな? 普段、めったに接しない人たちも一緒になって……。見てないようで結構見てるもんなんだな。


 圭一は内心、苦笑したが、いつものように笑顔で会釈しながら会社を後にした。



『まごころ』へ急いで向かう圭一。

 待ち合わせの時間には、いつも通り五分遅刻になりそうな気配。

 それでも、心は恵と会える喜びに満ちていた。

 先週末に付き合うことになって、LINEでのやり取りはしていたが、実際に会うのは一週間ぶりだった。


 ――三十歳になって、一週間がこんなにも、待ち遠しくなるなんて。恵も同じ気持ちだったら嬉しいな。

 そんなことを思いながら、圭一は急いだ。


『まごころ』に着いた圭一は、店員に部屋を案内されて、ふすまを開けた。

 案の定、もうそこには恵がいた。


「遅い!」

「ごめん、残業で」

「また、それ?」


 恵は、呆れつつも、そのやり取りを楽しんでいた。


 付き合ってから、ゆっくり話すのは初めてだった。

 いつもの二人の定番のメニューを頼み終えて、ごくありふれた会話を交わす圭一と恵。

 特に今までと変わらない雰囲気ではあったが、時が止まったような、ゆるやかな時間が流れていた。

 いつもの団らんが落ち着いてから、恵がひとりごとのような小さな声でボソリと呟いた。


「ちゃんと断ったよ」

「そっか……」


 圭一は、何のことか瞬時に察した。そして続けて確かめるように言った。


「もし俺が告白してなかったら、どうしてた?」

「うーん……、たぶん断ってたと思う」


 圭一は、それ以上は何も言わなかった。

 少しの沈黙が流れた。

 だけど、それは嫌な沈黙ではなくて、今このひとときの幸せを確認し合うかのような沈黙だった。お互い、お酒を飲みながらその空間に浸っている。

 そんな空気の中、恵が圭一を見つめながら静かに言った。


「実はさ……」

「ん?」

「実はさ、私……。想い出を売る店を見たんだ」


 圭一は、目を見開いて驚いた。


「えっ! まじで!?」

「そのおかげで自分の気持ちに気づけたというか……」


 恵が頬を指でかきながら、照れくさそうにしている。

 そんな恵を見ながら、圭一が小さく呟いた。


「実は……。……俺も、見たんだ」

「ん? 何が?」

「……想い出を売る店」

「えっ!? そんな話、聞いてないよ!」


 びっくりする恵に圭一は、少し申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。


「先週、恵に告白した日に見たんだ」

「なるほどね、そういうことだったんだ。道理でおかしいなと思ったんだ。急になんで告白されたのかなって」

「俺も想い出を売る店のおかげで、自分の気持ちに気づけたんだ。今度こそ後悔しないように、自分の気持ちを伝えることができたよ」


 圭一と恵は、気持ちが通じ合っていることを確信するかのように、穏やかに見つめ合った。


 その後も、想い出を売る店の話題で二人は盛り上がった。

 圭一は、学生時代にタイムスリップした話や、母親にありがとうを伝えられた話。そして、前の恋人との話を綴った自分の映画を見て、また同じ過ちを繰り返すところだったことに気づいて、自分の本当の気持ちを伝えようと思ったこと。

 恵は、フォトムービーを見せられて、誰がいつも自分を支えてくれていたのか、誰が大切な人なのかに気づいたことを。

 お互いにどんなことがあったか、どんな想い出の場面に戻ったかなどを細かく語り合った。


「俺たち二人にとっては、あの店主はキューピッドだな」

「おじいさんがキューピッドっていうのは、何とも言えないけどね」


 圭一と恵は、お互いにドッと笑った。


「でも、また会いたいな」

「そうだね」


 圭一と恵は、店主に感謝していた。今、こうして二人が付き合うことができたのも、店主と想い出を売る店のおかげだと。いつか報告しに行きたい、そう思っていた。


 会話が落ちついた頃に、ボソリと恵が呟いた。


「そう言えばさ、街で再会したあの日、何年も会ってなかったのに、よく私ってすぐに気がついたよね? 普通だったら、それだけ会ってなかったら、人違いと思って声をかけるのも躊躇してしまいそうだけど」

「どうしてだろな? あの時、何の迷いもなく恵って分かったんだ。確かに、外見は昔よりも大人びていて、すっかり大人の女性って感じだったけど、俺の目には、あの頃と何も変わらない姿で映っていたんだ」


 その言葉に恵は、嬉しそうに、はにかんでいる。

 そんな様子を見ながら、続けて圭一が問いかけた。


「恵の方こそ、よく声をかけたのが俺だって分かったな」

「そう言われると、確かにそうだね」


 恵は、笑いながらそう答えると、続けて言った。


「でも私も、不思議と違和感がなかったんだ。あっ、圭一くんだって」

「俺もさ、なんていうか、不思議なんだけどさ。すれ違う瞬間、時間が止まったように感じたんだ。目に映る景色や周囲の人たちがスローモーションになって、恵だけに焦点が当たって見えたっていうか……」


 圭一が、恥ずかしそうに頭をかいている。

 そんな圭一を見ながら、恵は照れくさそうにうつむいて、ゆっくりと圭一を見上げるように顔を上げた。


「あの日、圭一くんに再会できて、ほんとに良かったよ。もし再会してなかったら、どうなってんだろう? って怖くなる時があるよ」


 圭一は、恵を穏やかな瞳で見つめた。


「あの日、再会してなかったとしてもさ、きっとまた違う形で再会していたと思う。店主が言っていたんだ。出会いは奇跡で、その中でも、どんなに離れていても、どんなに年月が流れても、繋がっている絆は運命だって言ってた」

「じゃあ、私と圭一くんが、また再会したのは運命だったってこと?」

「俺は、そう思ってる」

「そっかぁ……。そう思うと、恋愛で失敗して傷ついたことも、圭一くんとまた繋がるために必要なことだったんだって思えるね」


 圭一は、眉尻を下げて優しく頷いた。


「俺も、前の彼女に振られて、かなりキツい目にあったんだけどさ……」

「うん」


 前に圭一から、詳しく聞かされたことがあったから、恵は静かに頷いた。


「今、思えばさ、なんか変だったなって思うよ」

「変?」

「妙に彼女のご機嫌をうかがってさ、嫌われないようにとかさ、そんなことばっかり思ってた。結局、自分の意志や意見がないのが嫌になったんだと思う」

「それ、分かる。私も同じような感じだった。何か言えば暴力を振るってくるし、恐くなって何も言えなくなって、様子をうかがって従うだけだったもん」


 圭一は小さく頷きながら、溢れてくる気持ちを言葉にした。


「恵となら、俺、自分を飾らずにありのままでいられる気がするんだ。もちろん、それが恵にとって嫌なことだったら、その都度、言ってくれたらいいしさ」

「私も同じこと思ってた。着飾らずに自分らしくいられる場所、それは圭一くんと一緒にいる時だって」

「あの経験もすべては、恵に再会するためのものだったんだって、今なら思えるよ」

「うん、私も」


 圭一と恵は、お互いに優しく見つめ合った。

 過去の亡霊にとらわれていた頃は、もう過ぎたんだと。

 そして、二人なら、これからもずっとやっていけると。

 そんなことを思っていた。

 

 ひと通り話が終えて、穏やかな空気が流れる中、ふと何かを思い出したかのように、圭一が口角を上げて笑みを浮かべた。


「今月は、何か面白いことあった?」


 恵は、なるほどと理解して即答した。


「異常なしです」


 圭一と恵は、いつものやり取りに笑い合った。


「あっ」


 恵が、ふいに声をあげた。


「どうした?」

「間違えました、異常ありです。もうひとつ変わったことがありました」


 恵は、そう言ってから一呼吸置いて、幸せそうに微笑んで答えた。


「圭一くんと、付き合うことになりました」


 会計に向かうと、レジには顔なじみの店員がいた。

 いつも通り笑顔で迎えてくれて、一言だけ呟いた。


「良かったですね」

「え? あ、はい」


 圭一と恵は、何のことだろう? と顔を見合わせて首をひねった。

 会計を済ませると、いつも通り「ありがとうございました」と店員がお辞儀をして、笑顔で圭一と恵を見送ってくれた。

 圭一と恵も、それに答えるように、笑顔で会釈して店を出た。

 圭一と恵が店を出たあと、その顔なじみの店員は笑顔のまま、見る見るうちに姿を変えていった。白くて長いひげ、深く刻まれたシワ、細身で年老いた老人の姿に成り代わった。そこにいたのは想い出を売る店の店主だった。



 店を出て駅に向かって歩いている途中で、圭一は夜空を見上げながら、隣を歩く恵に話しかけた。


「想い出を売る店に出会えて、ほんとに良かったな」

「ほんとだね」

「おかげで、こんなに近くに幸せがあることに気づけたな」


 圭一は、恵に向き直って笑顔で伝えた。


「改めて言われると恥ずかしいね」


 恵は、はにかみながら嬉しそうに笑った。

 そして、ふいに圭一が恵に呼び掛けた。


「恵」

「ん?」


 圭一は照れくさそうにしていたが、真っ直ぐに恵を見つめながら言った。


「好きだ」


 ストレートなその言葉に、恵はドキッと胸が震えた。

 心臓がトクントクンと、幸せな音を立てている。


「私も、圭一くんが好きだよ」


 恵もしっかりと、圭一の目を見ながら笑顔で答えた。


 想い出を売る店に出会う前までの圭一だったら、こんなにも素直に気持ちを伝えることはできなかった。

 こんなにも素直な気持ちが、当たり前に言葉として出てきたのは、圭一の頭の中に店主の言葉が残っていたからだ。


『目に見えないからこそ、口に出さなければ伝わらない気持ちもあります』


 今にも、店主の声が聞こえてきそうだった。

 圭一は、それを決して忘れないように心に刻み付けた。


 通い慣れた道を歩きながら、圭一と恵は思う。

 想い出を売る店は、日々の暮らしの中で、見失ってしまった心を届けるために、ふと現れるのだろうと。

 笑顔を取り戻させてくれるために、きっとあるのだと。

 そして、今も誰かの心を助けているのだろうと。

 圭一と恵は、お互いに微笑み合いながら、どちらからともなく、ごく自然に手を繋いで歩き始めた。







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[良い点] 素直な描写に好感が持てました。会話と地の文の配分が適正で、2つのパートの構成が同じなので、ラストを想像しながら安心して読むことができます。 特に圭一のパートで、サラリーマン生活に摩耗してい…
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