男装少女の苦悩
学園内を歩くと、今日も可愛い女性たちが話しかけてくる。
彼女たちの輝く瞳を見ると、僕は今日も安心できる。
「「ごきげんよう、ジェンナ様!」」
可愛い、可愛い彼女たち。
「ごきげんよう、サラ嬢、クレア嬢」
今日も僕を男性にしてくれる。
「今日も一段と可愛いね。サラ嬢は少し髪型を変えたのかい?」
「はい、そうなんです。この間編み込んだとき、ジェンナ様が可愛いって言ってくださったので…」
「嬉しいな、僕の為にこの髪型に?」
「は、はい」
「ありがとう、とても嬉しいよ、サラ」
そう言って頬に手を添えると、サラ嬢の顔は真っ赤で林檎みたい。
この後に追い打ちをかけようと思ったけど、その前にサラ嬢が気を失ってしまった。少しやり過ぎたかな。
「サラさん!?」
「ごめんね、クレア嬢。サラ嬢が気を失ってしまったみたいだから保健室まで運んでいくよ。よかったら彼女についていてあげてくれないかな?」
「もちろんですわ。サラさん、今日気合を入れて髪をセットしてきたみたいなので余程嬉しかったのですね」
「嬉しいなぁ、僕の為にそんなに頑張ってきてくれていたんだね」
サラ嬢を両腕に抱きかかえ、クレア嬢と共に保健室へ歩いていく。
その間も学園内ですれ違う女生徒たちに微笑むことは忘れない。すると、皆頬を赤く染めて目を逸らすんだ。ああ、可愛い。
保健室のベッドにサラ嬢を寝かせ、クレア嬢がベッド横の椅子に座る。心配そうな顔をしてサラ嬢を見ているクレア嬢は可愛い。
だから僕は、彼女にこうするんだ。
「よろしくね、クレア嬢」
彼女のふわふわの髪を一撫でする。僕は立っていて、彼女は座っているので自然と彼女は上目遣いになり、彼女の可愛さを掻き立てる。
「は、はい…」
顔を真っ赤にしてここに残る彼女にサラ嬢を託し、部屋を出る。だけど部屋を出る前に、これを言わなきゃね。
「クレア嬢」
「は、はい?」
「君からいつもと違う香りがした。僕の好きな薔薇の香り。もしかして、自惚れでないのなら僕の為に変えてくれたのかな?」
するとクレア嬢は更に顔を赤くして、微かに聞こえるくらいの声で「はい…」と言って頷いた。
「ありがとう、嬉しいよ。可愛くて友人想いのクレア嬢は、本当に素敵だね。僕、前よりも更に君が好きになったよ。じゃあよろしくね、クレア」
クレア嬢は言葉が出ないみたいで、真っ赤な顔をぶんぶんと縦に振っていた。
ああ、本当に可愛いなぁ。
保健室を出てからも、僕は彼女たちの可愛さを噛み締めながら教室へ向かった。
「おい、また女性を気絶させたのか」
ああ、嫌な奴が、大嫌いな奴来た。せっかく昼休みを人気のない、お気に入りの場所で過ごしていたのに。
僕がここにいるときは誰にも会いたくない時だって、何回も言っているんだけどな。
「僕は気絶させたくて気絶させたわけじゃないよ」
「そんなことは分かっている」
無遠慮に、まるで当然のことのように僕の隣に座る。
苛立って少しずれると、ずれた分だけ距離を詰めてくる。本当にムカつく。
「この女タラシが」
「僕は可愛い女性たちをただ褒めてるだけさ。事実をただ言っているだけなのにタラシだなんて言われる筋合いはないね」
「そういうとこが…もういい。じゃあ俺もお前に倣って言わせてもらおう」
まただ、また僕の平穏を崩す気だ。
「お前は女性なんだ、これ以上女性にモテるのはやめてくれ」
だからこいつは大嫌いなんだ。
僕はジェンナ・アディントン。残念ながら男性ではなく、正真正銘の女性だ。
だけど僕はいつも男性の恰好をしている。学園内でも、家の中でも男であれるように。
何故なのかと言われれば、それは僕が女性であることが嫌だからとしか言いようがない。
僕が僕で在る為に、僕は男性でいなくてはいけない。
そうじゃないと苦しくて、死んでしまいたくなってしまうんだ。
学園での授業を終え、家に着くと屋敷の中に可愛らしい声が響いた。
鈴を転がしたようなその声は、僕と血の繋がった可愛らしい妹のもの。
「お姉様、お帰りになったのですね」
ゆっくりと微笑んでこちらに向かって歩いてくるのは僕の妹のユリア。
身内の贔屓目もあるだろうが、ユリアは可愛い。学園内で一番の美少女だと思っている。
そんなユリアが僕は大好きで、憎らしい。
「明日、エイデン様がいらっしゃるそうですよ」
「そう」
少し困ったように笑うユリア。
ごめんね、そんな顔をさせたかった訳じゃないんだ。だけど僕は彼が大嫌いだから、彼が来ると分かると自然と声のトーンが低くなってしまう。
ああ、明日が憂鬱だ。
屋敷の中にある自慢の温室で紅茶を嗜む。
いつもは美味しいはずの紅茶が美味しくないのは、この場に不必要な存在がいるから。
僕の座るその正面には、昨日も会った会いたくなかった大嫌いな男。
「そう不機嫌な顔をするな」
「何しに来たのさ」
「何しにって、婚約者に会いに来たんだよ」
呆れたような顔をして紅茶を飲む男の名は、エイデン・スウィフト。
不本意ではあるが、僕の婚約者だ。
そして僕に女性であることを思い出させる、嫌な奴。
「僕は未だに君が婚約者だなんて認めていない」
「お前が認めてなくても俺とお前の両親、俺の両親が認めている。来年には結婚なんだ、潔く諦めろ」
「嫌だね」
「そんなに俺が嫌いかよ」
「ああ、大嫌いさ」
「まあそれでもいいけど。俺はお前が好きだよ」
さらっと言わなくていいことを言う。ああ、ムカつくムカつく。
そんな嘘つかなくてもいいのに。
だってエイデンは…。
「お姉様、エイデン様、こちらにいらしたのですね」
「ああ、ユリアか」
「私もご一緒してもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
「俺も構わない」
「ありがとうございます!先ほどシェフが美味しいケーキを作ってくださいましたの。せっかくだから皆で食べようと持ってきましたわ」
「それはいい、早速食べよう」
僕とは違い、可愛いドレスを纏った可愛い妹は、ケーキをテーブルの上に置いた。甘いものが大好きな婚約者様はチョコレートケーキ、甘いものがあまり得意ではない僕は紅茶のシフォンケーキ、苺と生クリームが大好きな妹はショートケーキ。
それぞれの好物が当然のごとく用意されている。これは僕と彼が婚約してからのいつもの風景だ。
エイデンと僕の両親は仲が良く、婚約も僕らが小さいときに親の希望でなされた。僕の家も彼の家も爵位は伯爵で、政略的なものではない。僕とエイデンが婚約したのは、たまたま歳が同じだったからだった。彼には5つ上の兄がいるが、彼にはすでに婚約者がいたので収まる所に収まったという感じだろう。
そんな理由もあり、親の顔を立てる為にエイデンとよく交流するようになった。まあ親同士が仲が良いから遊びにくるついでに彼も連れてくるって感じではあったが。でもいつの間にか彼単体で来るようになった。僕としては来なくてもいいんだけど、まあ不本意だが来年には結婚になるし仕方ないんだろうけど。
小さい頃は、婚約者であることを意識していなかった。というか婚約の意味をよく理解していなかったのだ。だから僕にとってエイデンは親の友人の子供という認識だった。
僕らは追いかけっこをしたり、中庭で木登りをしたりしてよく互いの両親に怒られたものだ。まあ僕らはヤンチャだったからね。でもある程度の年齢になると、温室でのんびり紅茶を飲んで会話を嗜むようになった。これは今まで続いている。
僕には妹が一人いる。僕が彼とヤンチャするのをやめて温室で過ごすようになると、妹も混ざりたがった。まあ妹には同年代の遊び相手がいなかったのでこれは自然な流れだった。そして僕もエイデンもそれを受け入れた。
その頃からだろうか、私じゃなくて僕になったのは。
僕も昔は普通に女性の恰好をしていた。ドレスを着てエイデンとヤンチャをしていたので母にしこたま怒られたのを覚えている。
どうして僕が男性の恰好をして、男性のように振る舞うようになったのか。
それは僕が可愛くないからだ。
僕は一度も可愛いと言われたことがない。綺麗って言われたことはあるが、可愛くはないらしい。
当初僕はそんなこと気にしてはいなかった。綺麗って褒められるのは好きだったし、寧ろ綺麗と言われるのは好ましかった。
だけどそんな僕を変えたのは、婚約者であるエイデンだった。
◇ ◇ ◇
その日もいつものように温室で紅茶を飲んでいた。他愛無いことを話しながら当たり前になっていた交流を楽しんでいたのだと思う。まだ婚約者という感覚はなかったが、それなりにエイデンとはいい関係を築けていたと思う。
そこに、いつものように妹が訪れたのだ。可愛いまだ見たことのないドレスを着て。
「あら、今日は見たことのないドレスを着てるのね。可愛いわよ、ユリア」
「ありがとうお姉様!今流行りのドレスだってお母様言ってた!お姉様のドレスもあるからあとで来てね!」
「そうするわ」
母がまた僕たちに新しいドレスを買ったらしい。母は僕たちを着飾るのが好きらしく、よくドレスを買ったりオーダーしたりするのだ。
だからいつものことだった。いつもと変わりないはずだった。
可愛いわねって言おうとエイデンの方を見たとき、気付いたのだ。
エイデンが見たことのない優しい目で、妹を見ていたことに。
そして言ったのだ。
「ユリアは本当に可愛いな」
「ありがとうエイデン様!」
愛おしそうにユリアを見るエイデンは、今までずっと一緒にいたのに知らない顔をしていて。
混乱した。激しく動揺して、気持ちが落ち着かない。
可愛かったはずの妹が、憎らしくてしょうがない。憎くなんて思ったことなかったから、吃驚した。
僕はそんな自分に唖然としたんだ。
なんて、なんて醜い感情。僕はこんな人間だったのかと、自分に失望した。
あの時は気付かなかったけど、僕は無意識のうちにエイデンに恋をしていたのだろう。
そして、妹に嫉妬したんだ。
僕はエイデンに容姿を褒められたことはないし、可愛いと言われたこともない。
だから妹が可愛いと言われているその事実が受け入れられなかった。
その後は何事もなかったかのように会話をしてエイデンと別れたが、部屋に戻ってから僕はベッドにあった枕を床に叩きつけた。
激しい、とても激しい感情が僕の胸に渦巻いていて。こうでもしないとこの気持ちをエイデンと妹にぶつけてしまいそうだった。
枕を叩きつけた後は声を出さないように泣いた。ベッドのシーツが涙でぐしょぐしょに濡れてしまったが、そんなこと気にしていられなかった。
僕は自分がこんなに醜くく激しい感情を抱く人間だなんて思わなかった。
それが嫌で、許せなくて。
自分を変えたい、またこんな感情を抱きたくない。泣きながらこの状態を逃れようと部屋の中を見渡した時、机にあった一冊の本を見つけた。
最近読み終えたばかりの、男装の麗人がたくましく生きていくという流行りの小説。恋に溺れた末に失恋し、失意にあった主人公の令嬢が自分を変える為、長かった髪を切ってドレスを脱ぎ捨て男性としてその後の人生を生きていくというストーリーだ。男装をするようになってからの主人公は、気高くたくましかった。話の最後まで二度と恋には溺れず、高潔であり続けた。
それを思い出した時、僕は「これだ!」と雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
僕は当時恋心を自覚していた訳ではなかったが、醜い感情を持つ自分が嫌だった。だから高潔であり続けたその小説の主人公のようになりたかったのだ。
決めたら早いもので、僕はその日のうちに髪を切り、ドレスを脱ぎ捨てた。僕はヤンチャだったから剣の稽古をしたがって、それに折れた両親の許可の元稽古を受けていた。剣の稽古をするときは動きやすいようにパンツスタイルだったので、稽古の時の服を着た。
私が僕になった瞬間だった。
その後は大変だった。まず僕の姿を見た家族や使用人に泣かれ、元に戻ってくれと懇願された。それでも僕の意思は固く、男性として生きていくと譲らなかった。
そのことで一時期家族と不仲になったが、三年間の冷戦の末、両親が折れて僕の生き方を認めた。そのときに婚約を解消するか妹に変えて欲しいと訴えたのだが、それは認められなかった。両親は妹に愛しい視線を送るエイデンに気付いていないみたいだったから、仕方がなかったのだろうけど。
そのうち諦めて妹に変えてくれるだろうと気長に訴えかけることにした。
僕が男装をするようになった姿を初めて見た婚約者様の反応はというと、唖然だった。
なにやら現実を受け入れられなかったらしく、酷く狼狽えていたのを覚えている。僕が男性としてこれからを生きていくと言うと、エイデンは怒った。婚約を解消したいといったらもっと怒った。
妹をあんなに愛おしそうに見ていたのに、何を怒る必要があるのかと思ったのだが、あまりに怒っていたのでそのことは言わないでおいた。凄く、怖かったのだ。
あんなに怒ったエイデンを見たのは初めてだったから。
その日から今までエイデンは僕が女性であることを説き続けている。やれ女性らしくしろだの、やれドレスを着ろだのとうるさい。僕はそれが煩わしくて、いつしかエイデンが大嫌いになっていた。仲の良かった友人であり婚約者から、僕の生き方を否定するムカつく奴になったのだ。
デビュタントのときも僕はドレスを着なかった。男性の装いをして、エイデンと似たような恰好で参加した。周りからは好奇の目で見られたが、僕は僕らしく生きていくと決めていたので両親には悪いが気にしないことにしていた。どう見られようとも、僕は変えるつもりはないからね。
残念ながらエスコートは免れず(エイデンにこれは譲らないと言われ大喧嘩をしたが結局僕が折れた)男性が男性のような女性をエスコートするという、なんとも不可思議な光景がその夜会では見られたという。ただ、僕は中性的な顔をしているし両親に似て綺麗な顔立ちらしく、女性に大層モテた。僕が性別自体は女性ということもあり、男性に話しかける勇気がない令嬢たちに声をかけられまくったのでそれほど夜会で浮くということはなかった。
因みにその夜会中ずっとエイデンが不機嫌だったのは言うまでもない。
そんな訳で、僕は高潔で在る為に、男性として今日までを生きてきたのだ。
◇ ◇ ◇
チョコレートケーキを美味しそうに食べる婚約者様と、それを見ながらにこにこしてショートケーキを食べる妹。
特出するほどではないがそれなりに美形であるエイデンと、可愛らしく妖精のような妹。最近は僕が口を閉ざすことが多いのでこの二人で会話をすることが多い。
お互い長い時間を一緒に過ごしてきているので会話には困らない。会話がなくなっても別に気まずい空気になることもなく、居心地が悪くなることもない。
チョコレートケーキを食べ終えた彼は、まだケーキを食べている妹を愛おしそうに見ている。僕には向けたことのない、視線。
僕の胸が少し疼いたが、自分が男装していることを思い出し落ち着いた。胸のあたりまで伸びてしまった髪を切り、また短くしたい。もっと、男性に近づかなければ。
そうしないと、苦しい。
さっさと僕と妹を挿げ替えて婚約をし直してほしいのに、そのタイムリミットは後一年もない。
あれからずっと両親にもエイデンにも訴えかけているのだが、僕との婚約は解消されないしエイデンと妹が婚約を結ぶこともないまま現在まできてしまった。
僕が高潔であるために、早く二人に婚約してほしいのに。彼は僕に気を遣っているのだろうか。そんなに愛おしそうに妹を見るならば、さっさと妹とくっついてしまえばいいのに。
ケーキを食べ終えた妹が、何やら思い出したように椅子から立ち上がった。
「大変!今日はこの後家庭教師の先生が来るんだった!お姉様、エイデン様、私はこれで失礼します!」
そう言い残し、妹は嵐のように去っていった。
「相変わらず忙しない奴だな」
「そうだね」
可笑しそうに笑い、目線は妹が出ていった温室の扉を見ていた。
胸が、疼く。
やっぱり僕は、こいつが嫌いだ。
「じゃあ僕も部屋に戻ろうかな」
「おい、まだお前はここにいろよ」
「特に君と話すことはないよ」
「婚約者を蔑ろにするな」
妹にあんな視線を向けていたくせに、僕を蔑ろにしていないとでも?
思わずそう言いそうになり、唇をぎゅっと噛み締める。
別に彼は僕を蔑ろにしたりしていない。休日のたびに僕にわざわざ会いに来るし、プレゼントだってくれる。ドレスはいらないがな。
だから、これは僕の八つ当たりなんだ。
彼は何一つ悪くない、悪くないんだ。
だけど、僕はこの疼きがある限り、八つ当たりせずにいられないのだ。
今日は昨日のこともあり苛立ちが最高潮に達し、思わず言ってしまった。
「だったらさっさと婚約を解消してくれ。幸いまだ結婚してはいないし、うちには妹がいる。仲が良いみたいだし、妹と婚約したらいいんじゃないか?」
婚約を解消してほしいとは何度も言った。だけど、妹と婚約しろと言ったのはエイデンには初めてだ。
両親にはずっと言ってきたのだが、エイデンには言うなと言われていた。何故言ってはいけないのかは教えてくれなかったので分からないが、何か気でも遣っていたのだろう。
言いたいことも言えたのでその場を離れようとしたが、腕を強く掴まれ危うく転びそうになった。
「何するんだ!」
まさか彼がこんな暴挙にでるとは思わなかったので油断していた。それに掴まれた部分が痛い。
彼を睨みつける為に振り返ると、初めて婚約を解消したいと伝えたとき以来の激昂したエイデンがいた。悪寒が背中を這いずった。
さっきまで怒りに打ち震えていたのに、今は怖くて仕方がない。
「お前は…そんなに俺が嫌いなのか。ユリアに代わってほしいくらい、俺が嫌なのかよ」
その声は震えていた。悲しみに震えているのか、怒りに震えているのかは分からない。もしくは両方なのか。今の僕にはその震えの意味を正しく解釈する余裕はなかった。
怖くて返事ができない。掴まれている腕が、痛い。
「そんなに嫌なのかよ!?」
どうしてそんなに怒っているんだ。
そう言おうとしたとき、彼に強く押され床に尻餅をついた。文句を言おうと彼を見上げると、目には怒りの炎が渦巻いている。彼はきっと、昔の僕みたいに醜い感情を今抱えている。何故?
「俺の何がいけない?何が気に入らない?どうしてお前は男みたいになった?なんで婚約を解消したがる?なんでユリアと婚約しろだなんて言うんだ?なあ、なんでなんだ?」
彼の声は今まで聞いたことがない程情けなく、悲しみが滲んでいる。
だけど目は、先ほどの激昂を鎮めてギラギラとしていた。獲物を逃すまいとする、肉食獣のような目。こんな目をする彼を、初めて見た。
「お前は自分が男として生きているって言ってたよな?」
歪んだ笑みを浮かべるエイデンは、まるで知らない人のようだった。幼い頃から知っているはずの彼が、知らない男性にしか見えない。彼の仄暗い瞳に映るのは、怯えた自分。
あまりの事態に動揺し、どうしていいのか分からずにいると、エイデンは床に座り込んでいた僕を押し倒してきた。腕を掴まれて床に押し付けられる。必死に抵抗するが、力の差で押し込められる。
「な、何するんだ!?」
「男のくせに、このくらい力を入れただけで抜け出せないのかよ」
「うるさい!君より少し非力なだけだ!」
「非力だからじゃない、お前が女だからだ」
その言葉に怒りが溢れ、更にもがくが逃げられない。
抵抗を続けていると、エイデンは僕の首筋に唇を落した。僕は何が起きたのか理解できなくて、いや理解したくなくて頭が真っ白になった。
「やめろ!やめてくれ!」
「お前は間違いなく女だ。男より力はないし、身体の線も細い。手首も首も、こんなに細い。それでもまだ男だって言い張るのか?」
「僕は男として生きていくんだ!細くたって男だ!」
そう言うと、エイデンは口の端を吊り上げた。
「じゃあお前が女だってことを思い出させてやるよ」
「な、何を」
言葉を続けようとしたが、エイデンに口を塞がれた。塞いでいるのは、彼の唇。舌で口内を蹂躙され、息が上手くできない。
床に押し付けられていた両手を頭上に持っていかれ、片手で抑えつけられた。それでも抗えないのは、圧倒的力の差。いつから彼はこんなに力が強くなっていたのだろうか。
空いた右手で僕の服のボタンを外していく。暑いからと上はシャツしか着ていない。彼は僕に何をしようとしているのか。まずい、このままではまずい。嫌な予感が全身を駆け抜け、必死に抵抗するがやはり抵抗は虚しく彼にされるがままだった。
「やめろ!何してるんだ!今すぐやめろ!」
ボタンが外れ、隠れていた肌が露わになる。鎖骨をそっとなぞる彼の指に、鳥肌がたった。
サラシの上から胸を触ろうとするエイデンに、はんば叫ぶように抵抗した。
「やめろ!触るな!」
「男だっていうくせに、なんでこんなもので胸を隠してるんだよ」
「うるさい!」
「男なら、触ってもいいだろう?」
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
どうしてエイデンはこんなことをするんだ。今までこんなことしたことなかったのに。
怒りや悲しみや恐怖が胸の中で混ざり合い、いつの間にか僕は泣いていた。
「おねっ、お願いだ。お願いだからっ、やめて、くれ…」
抵抗する気力もなくし、ただただ泣いて懇願した。
お願い、大嫌いだけど、本当に大嫌いにさせないで。必死に隠している胸の内を暴くようなことをしないで。僕を辱めないで。嫌いにさせないで。
貴方をまだ、好きでいさせて。
しばらく嗚咽を上げて泣いていると、涙が伝った頬に温かい温もりを感じた。さっき僕の唇を塞いでいた、彼の唇の温もり。
「ごめん、怒りのあまりやり過ぎた。ほんとごめん」
以前彼の身体は僕の身体の上にあるのだが、先ほどまでの抑えつけるような感じはなかった。ただ僕の身体に覆いかぶさっているといった感じだ。
いつの間にか僕を抱きしめている彼の身体は震えている。
「本当にすまない」
彼の声は後悔がありありと感じられる程か細い。今までに聞いたことがないほど弱弱しかった。
彼にされたことは許せないが、消えていなくなってしまいそうに思えて、恐る恐るではあるが、彼の背に腕を回した。すると彼の身体がぴくりと動き、先ほどまでの震えがなくなった。
少し、落ち着いたのだろうか。
いくらかの沈黙の後、彼は静かに口を開いた。
「…なあ、俺のことが嫌いか?」
「冗談とかじゃなく、本気で嫌いになりそうになった」
「…」
「なんであんなことしたのさ?」
しばし無言を貫いた後、恐る恐るといった感じで震えた声が聞こえてきた。
「…お前が、ジェンナが婚約を解消してユリアと婚約しろだなんて言うから」
「今までだって婚約を解消してほしいって言っていたじゃないか」
「だけどユリアと婚約しろだなんて言ったことなかった」
「…妹じゃ、ユリアじゃ嫌なのかい?」
「嫌だ」
まさかの即答。
動揺して、言うつもりのなかったことを口走った。
「で、でも君はユリアが好きなんじゃないのか?」
「何を言っているんだお前は。俺が好きなのは昔からお前だ」
「そ、そんなはずはない!昔からユリアを可愛いって言っていたじゃないか!」
「ユリアは確かに可愛いが、妹みたいに思っているだけだ」
「あ、あんなに愛おしそうに見ていたじゃないか!」
「俺は兄しかいなくて下がいないし、妹が欲しかったからユリアといると妹ができたみたいで可愛かったんだ。実際に来年義妹になるがな」
「う、嘘だ!」
「嘘じゃない。なんでそんなに否定的なんだよ」
なんてこと、なんてこと!
まさかただ単に欲しかった妹みたいで可愛かっただけだなんて!
「で、でも僕は君に可愛いだなんて言われたことはない!だからてっきり僕は可愛い妹が君は好きなのかと…」
「確かに言ったことはないが…。ああ、まさかこんな勘違いをされているとは!今も昔も俺が結婚したいのは、好きなのはお前だけだ!そしてお前は可愛いというよりは綺麗だ!」
「嘘だ…嘘だ…」
「嘘じゃないって言ってるだろ!恥ずかしくて面と向かって言えなかったんだ!お前は昔から綺麗だったよ。俺はそんなお前に一目惚れしたんだ。それで両親に頼んで婚約を結んでもらったんだ」
「そんな…」
「本当さ。なのにお前はある日突然綺麗だった髪は切るわ、男みたいな恰好するわで俺は愕然としたぞ!しかも男として生きていくとか言い出すし、何より婚約を解消するとか言い出す始末だ!俺はお前に何か嫌われるようなことをしてしまったのかと今までずっと悩んでたんだ!」
僕の勘違いから始まった男性として生きるという行為は、エイデンを想像以上に悩ませていたらしい。なんだか申し訳ない気分だ。
「でも、俺は男として生きていくって決めたお前の凛とした姿にまた惚れたんだ。だから、お前が男みたいになってもやっぱり好きだった。でもやっぱり最初に会った頃の姿が忘れられなくて、俺の婚約者なんだということを忘れて欲しくなくてお前に女であることを説き続けたがな」
「迷惑だったけどね」
「そうみたいだな。露骨に嫌な顔してたからな、お前」
「…僕は今後もこの生き方を変えるつもりはないよ」
「構わないさ。そういうお前も含めて俺はお前が好きなんだ。だから婚約解消は諦めろ」
顔に熱が集まってくる。今自分の顔をみたら、多分真っ赤になっているだろう。
覆いかぶさっていたエイデンが僕の顔を見てニヤニヤしている。相変わらずいけ好かない奴め。
「…邪魔だからどいてくれないか」
「嫌だと言ったら?」
「婚約解消を諦めない」
「…ってことはどいたら婚約解消を諦めてくれるのか?」
「…まあね」
不本意ながらそう伝えると、エイデンは身体を物凄い速さでどけた。
やっと起き上がれると思って立ち上がろうとしたら、急に身体を抱きしめられた。
「ごめん、これだけ言わせて。諦めてくれて…ありがとう」
やや震えているので、彼の背中をぽんぽんと叩いた。
なんだか凄い展開になったものだと思いながら、僕は立ち上がった。
◇ ◇ ◇
あの後互いの誤解も解け、色々と話し合ったが、どうやらすべては僕の勘違いが引き起こしたすれ違いであったらしい。
両親や妹には恥ずかしいし特に何も伝えなかったが、僕とエイデンが長い喧嘩を終え仲直りしたと思っているっぽかった。ただ、妹だけは何かを察していたようで何やらホッとした顔をしていたが。
僕が妹に嫉妬して男装し始めたと話したら、エイデンは複雑そうな顔で、でも嬉しそうに笑っていた。嬉し過ぎて調子に乗ってキスをしてきたのでビンタをかましたが、それでもニヤニヤしていたのはちょっと気持ちが悪かった。なので素直にそう伝えたら彼は物凄く沈んだ顔になった。彼はこんなに感情の揺れ幅が激しい人ではなかった気がする…長年過ごしてきたが彼の新たな一面を知った。
だけど彼は我が世の春といった感じで最近ちょっと調子に乗っているので、あとで少しだけ虐めてやろうと思っている。最近の彼はちょっと冷たい態度をとっただけで大慌てだからな。別に、彼をからかって楽しんでいる訳ではない…うん、楽しんでなどいない。
誤解は解けたし男装をやめるか?と言われたが僕は首を横に振った。
あんなに醜い感情を抱いていた僕が落ち着いて過ごしてこれたのは、紛れもなく男装していたお陰だ。あの小説の主人公のように高潔であれるようにと頑張った、僕の証なのだ。
それに女性に黄色い悲鳴を上げられるのも、結構好きだしね。僕は元々可愛いものが好きだから。
男装を続けると言ったらエイデンは不服そうにしていたが、誤解が解けた日に仕出かしたことを言うと黙るので、これを盾にずっとこれからも続けていこうと思っている。
結婚式だけはドレスを着てくれ、それまで髪をお願いだから伸ばしてくれと土下座して懇願されたので、それだけは叶えてあげようと思っている。なんか、可哀想だから。
だいぶ長い間すれ違ったし、喧嘩もした。男性として生きると決めてからは苦労もそれなりにあった。やっぱり女性にはウケても男性には不評だしね。まあ僕がモテすぎるから僻みもあったとは思うが。因みに男装をやめさせようとエイデンが頑張っていたのは、僕が女性にモテすぎるからだというのもあったようだ。令嬢たちに嫉妬していたらしい。なんて小さい男なのか。
色々あったが、やっぱり男装して良かったと思う。
あの苦悩の日々は、苦しかった日々は無駄じゃない。エイデンはまず僕の外見に惚れて、それから僕が男装して生きていく姿にまた惚れたと言っていた。あの苦悩がなければエイデンは今以上に僕を好きにはならなかったと思うから。
あの日々は全て、今日の幸せに繋がっていた。
だから僕は今日も男性の恰好を装い、明日の幸せの為に彼と一緒に温室で紅茶と会話を嗜もうと思う。
妹は早い段階で姉の勘違いに気付くも、部外者(?)である自分が何か言う訳にもいかず。
色々と手を尽くしたが上手くいかなかったらしい。妹はずっと姉と義兄のすれ違いで一人胃を痛めていた。来年二人が結婚だという頃にはもはや胃薬は相棒だった。
この度「家庭教師の先生来るんだった☆作戦」でやっと勘違いに気付き二人が仲直りをしたことで、相棒を手放すことに成功したようだ。長い付き合いだった。
妹は二人のすれ違いの被害者。南無。