決定戦開始。
母がその身を起こして、自分と手をつないで歩いてくれる。トレインは、それで幸せだった。なぜだか家の中だけで、それは誰にも言ってはいけない秘密だった。けれど、父とマリーと、母と自分。4人の秘密は嬉しかった。
母が歩けるようになって、1週間。その日、父はいつもより早くお仕事に出ていた。トレインが起き上がる前だ。
「今日は、お昼前からお出かけよ。それまでに荷物を支度しなくてはね」
母にそう言われ、好きな本と衣服をカバンに詰め込み、玄関に準備した。マリーも忙しそうに、多くの荷物を運んでいる。
「予定通り、馬車はミネッタに先行させます。雨は降らないと思いますが、雨具は一応手荷物に入れておきました」
「ありがとうマリー。あなたには、どれだけ感謝しても足りないわ」
「そんな・・・」
涙ぐんだマリーは、それ以上言葉を続けられなかった。
ダンの護衛らにはレインが出かけるとは告げず、荷物運搬用馬車にこっそりレインとトレインを乗せ、シャダンの森付近で下ろしてもらう。斥候が周囲を最大警戒している現在のシャダンの森は、世界で最も安全な場所だ。そこで戦いの終わったトステンと落ち合い、逃げる。
もしもトステンが領土決定戦で命を落としたなら、そのまま母子2人だけで行く。
レインは、トステンの決定戦参加に何も言わなかった。事情があろうと、トステンが抜けたなら、今の人間側に勝ち目は無い。開始した瞬間に白旗を上げなければ、皆殺しにされる。
出来れば勝って欲しい。前回は魔王が出なかった。今回も様子見をしていてくれれば・・・。
最新兵器はある。だが使えない。
将軍ドンスは、己の業に飲まれていた。
本命は、この戦いの後。
この領土決定戦は、決定戦参加者は、全て捨て駒。
しかし、この事実は、魔族側への情報漏洩を恐れて、ドンス以外には知らされていない。
そしてドンスは、敗北の白旗を上げる役割のために、自らの死も許されていない。兵に死ねと命じながら、己は絶対に死なない。
周囲の兵らが特製の飲み物(恐怖心や痛みを感じにくくなる代わりに、肉体を蝕む)を飲み干していても、ドンスは飲まない。ドンスが恐怖心を感じなければ、降伏のタイミングを逃してしまう。
元教え子のトステン。それにこれまで生き残って来た全ての兵を生贄に、人は魔族に勝つ。
一体。人とはなんなのだ。
誰を犠牲にして、誰を生き残らせる。死なせて良い人間と、そうでない人間の違いは。
渦巻く思考を、無理やり戦闘に引き戻す。それが出来るから将軍をやれる。
せめて無駄死にはさせない。ドンスの気も、前線の兵に負けず、研ぎ澄まされて行く。
魔族側、凶鳥の影が見える。
戦いは、今まさに始まろうとしていた。
「おれの動きに釣られるな。作戦通り、お前らは本陣を守るんだ。そうすりゃ、勝てる」
トステンは、自信満々に言い切った。そのあふれる余裕に、若き戦士団の面々も、過度の緊張感から解放されつつあった。
敵の正確な陣容が分かっていない今、勝てると言い切るのは、単なる考えなし。それでもトステンは、バカにならなければならなかった。
今回は、勇者が居ない。前回とは違う。
誰かが精神的支柱にならなければ。誰かが、人類の希望にならなければ。いかに動揺しにくくなっていると言っても、兆しも無く人は耐えられない。
そしてそのおれが死んでしまっては意味がない。生き残りつつ、勝つ。
始まりの鐘まで、もう少し。完全に準備を終えた砲兵隊。それを守る槍兵、盾兵。人類軍2万の精鋭。
彼らと共に。
ゴオオオオオオオン!
勝つ!!
「始まった・・・」
勇者レインは、息子と共に、とある木に登っていた。正確には軽く飛翔して、木の枝に到着した。
少しは体力も戻った。まだ全盛期の2割ほどだが、体はしっかり動く。
ここから戦場まで200メートル。斥候の時間が過ぎた今、見付かる心配もない。凶鳥や魔法師団も、指定エリア外に出る事はほとんどない。魔族は徹底的にルールを守る。
「お母さん?」
「しばらくは、待つ事になるわ。さ、今日は領土決定戦について勉強しましょう」
今からしばらくは、何も出来ない。予定通り、レインは時間つぶしに子供の教育をする。
魔族、人族の入り乱れる戦場に、さらなる影が現れたのは、その数十分後だった。




