2:フロイより
ツェガイラ地方をあとにして、またあてのない放浪の旅の中に戻った私の心の中には、ある思いが芽生え始めていた。ひどく美しいものが見たいという、旅人ならば誰でも心に浮かぶような情緒である。本音を言えば、ただ砂礫と荒原が続く殺風景なロム砂漠に飽き飽きしていただけなのかもしれない。
砂に足をとられながらとある砂丘を越えた私の眼に、海が飛び込んできた。滑らかで平らな、鏡を思わせる水面が眼下よりどこまでも果てしなく続いていて、穏やかな波が打ち寄せる砂浜近くには藁で屋根を葺いたいくつかの家が点在していた。
私は思わず眼を奪われた。砂漠を歩き通して乾ききった眼に、大海の青色はとても眩しく映って、私は立ち眩むようにふらついてしまった。ちょうど、長い間暗闇の中にいた人が光を目にした時反射的に眼を覆うようなのものであった。
港町とも呼べないような、小さな村だった。村の名はフロイといった。この地方の古い言葉で、波、という意味だという。私がなだらかな丘を下ってやって来ると、真っ赤に日焼けした村人たちが興味津々といった体で近付いてきた。
皆、やけに馴れ馴れしい。子供たちはしきりに私の体に触ってくる。
「ここから、船は出ているのですか」長老と思しき痩せた男を見受けて、私はそう声をかけた。男は砂地に敷いた襤褸に座り込み、木片のようなものを削っている。もう一度声をかけると、男はぎょっとしたように私の方を向いた。「明日の昼には、交易品を積んだシュカの伝船が来るだろうが」
シュカは、海を越えた先にあるとても大きな港町だ。港は交易に出て行く船や戻ってくる舟などで常にごった返していると聞いているが、こんな僻地にまで訪れているとは思わなかったので素直に驚いた。
やがて昼になると、村人たちは手に錆びたシャベルを抱え、列になってどこかへ向かって歩き始めた。
岩礁に身を横たえてうつらうつらしていた私は驚いて、彼らの後についた。入り乱れたたくさんの足跡が一本の道のようになっているので、見失うことはない。しばらく行った先には入江があって、険しい岩場が立ち並んでいた。
と、村人たちがシャベルを砂地にふるい始めた。たちまち無数の穴が砂地に穿たれていく。大人も子供も、汗と砂にまみれてせっせと砂を掘り続けている。私はそれを、ただぼんやりと突っ立って眺めていた。
しばらくして、ひとりのちぢれ毛の若者が声をあげた。村人たちが彼の掘った穴へと一斉に駆け寄っていくと、まるで陽炎のようにもうもうと砂埃が立ち昇って私の視界を曇らせた。私も若者の下へ小走りで駆けつけた。彼は手に、細長く、筋張った、針金のようなものを抱えて満面の笑みを浮かべていた。S字型に曲がりくねったそれは乾燥しひび割れていて、長年潮風にあてられて黒ずんだ村人たちの肌ととてもよく似た色をしていた。
「何です、これは」私は歓声をあげる村人たちを押しのけて若者にそう訊ねた。若者は、金魚のような目をぎょろりとこちらに向けて、訛りのきつい方言でこう答えた。
「ひからびだ」
「ヒカラビ?」
彼はそれ以上何も答えなかった。村人たちは来た時と同様にシャベルを肩に担ぐと、村への帰路を辿っていった。私は渋々彼らの後を追いながら、砂の中に埋まっていたと思われる件の細長い物体―ひからびについて、しきりに思考をめぐらせていた。
村に持ち帰られたひからびは、まず長老に手渡された。彼はひからびを持ち替えてみたり、離れた場所から眺めてみたり、回してみたりとしきりに観察していたが、やがて満足げに頷いて言った。
「まあ何にせよ一匹でも見つかってよかった」
「最近、めっきり減ってきてたしねえ」体格のいい女が言った。
「旅の者、見ていくか」
長老がふいに私の方を振り向いて言った。
「見るとは、何をでしょうか」
「ひからびを海に送るのだ」
長老はそう言うと、村人たちを引き連れて砂浜に出た。
黒くて細長い、干からびた針金。私にはそれが何なのか薄らとわかってきていた。みみずなのだ。うっかり日の下に出てしまい、そのまま地べたに磔にされて干からびてしまった哀れなみみず。
長老はひからびの身を、ちょうど打ち寄せてきた波の間に横たえた。一秒、二秒して、ひからびの体が泡を吹いてぴくりと動いた。凝り固まった節が柔らかく弛緩し、萎びた体表はみみず本来のぬめりとした膚へと変わった。そうしてみみずは海蛇のように体を撓らせると、ゆらゆらと沖の方へと泳いでいった。
私はまんじりともせずに、息を吹き返したみみずに見入っていた。遠い海、黒ずんだ辺りにみみずの影が消えるまで、目線を離すことはなかった。
「年に一度ほどね、ああしてひからびを海に帰してやるのだ。砂の中でじっと耐えてた分、のびのびと、嬉しそうに泳いでいただろう」
「ひからびは、どこからやって来て、どこへ行くのでしょうか」
私は誰に言うともなくそう呟いた。
ややあって、ひからびを砂中から探り当てたあのちぢれ毛の若者が憂いを含んだ調子で言った。
「わからねえ。ただ砂を掘ったら、いつもそこにいるだけだ。昔はもっと、たくさんのひからびを一斉に送っていたそうだがな」
日は傾きかけていた。やがて三々五々、村人たちが砂浜から引き揚げていった。
翌日、船が来た。
私はフロイの村の人々に別れを告げると、ロムを離れシクリフ大陸へ向かうというその伝船に乗せてもらった。
甲板からは、まるで私たちを飲み込もうとするかのように、行く手いっぱいに広がる深い海が見渡せる。