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目を開けると、見慣れない白い天井が見えた。部屋を仕切る、薄いピンクのカーテンのようなものも見える。――病院、だろうか。
たまたま点滴をつけかえていた看護士が、俺が目覚めたことに気付き、医師を呼んだ。自分の名前や年齢なんかを確認される。言われた通りに答えると、医師は頷いた。
「記憶障害も言語障害もないようですね。明日には退院できるでしょう」
医師は後ろを振り返る。そこには、簡易椅子に座った彼女がいた。
「もう、馬鹿なことはしないように。なんなら、この病院の精神科に通うといいですよ」
医師はそう言うと、看護師をひきつれて出ていった。
俺は彼女を見る。いつものコートに、黒のスラックス。カシミヤの白のマフラー。今朝(俺が何日も目覚めなかったとか、そういうことがなければ「今朝」のはずだ)家を出た時と同じ格好をしている。顔には、心配というものがまるでなかった。物を見るような、つまりはやはり無表情に、俺のことを覗き込んでいる。かと思えば、薄く口を開いた。
「発見があと少し遅れていたら、死んでいたそうです。胸騒ぎがして家に戻ったら、ネクタイと仲良くしているあなたがいたので、すぐに救急車を呼びました。迷惑極まりなかったです」
「……どうして助けたんですか」
昨夜は俺のことを殺そうとしたじゃないか。それは言わなかったが、恐らく通じたのだと思う。彼女は目を伏せた。
「共に生きろ、と最初に言ったはずです」
彼女はこちらを見ず、床に向かってそう言った。
「だけど俺は、あなたの大切な人を殺しました」
「――それが、あなたを殺していい理由になるのですか」
なる。少なくとも、この世界では。この社会では、それが認められている。けれどこの女は、それを選ばなかった。選ぼうとしたのは昨夜だけ。それすら、彼女は必死に食い止めていた。これまた言いたい事が伝わったのか、彼女は自分の細い右手首を、左手でつかんだ。
「間下」
「……はい」
「私は、あなたを許しません」
それは、今後絶対に揺るがないだろう言葉だった。
「あなたの反省を見届けることはできる。あなたが改心したことを頭で理解することはできる。あなたを上辺だけで許すことも、できるでしょう。けれど私は、あなたを許すことができません。一生です」
「――なら、どうして」
「……人を殺す権利など、誰も持っていません。私も、あなたも。社会が許せば、殺してもいいのですか? 人が。人を」
「…………」
「死刑に反対しているわけではありません。はっきり言いますが、もしもあなたが死刑になったなら、私は止めなかったでしょう。……私も結局は、自分の手を汚したくないだけかもしれません」
そこまで言うと、彼女は口をつぐんだ。点滴がぽたぽたと落ちる音が聞こえてきそうなほどの静寂が訪れる。俺は少し考えて、ずっと言っていなかったことを言った。彼女が訊いてこなかった、「どうして」のひとつ。
「――……俺は、生まれた時に両親に捨てられて、ずっと施設で育ってきました。施設の人間は乱暴で、折檻されるのが当たり前の毎日でした。助けてくれる大人は誰もいない。慰めあう友人もいない。施設を出るまでそんな生活が続きました。自分の人生ほど、クソみたいなもんはないと思ってました」
彼女は何も言わない。俺は息を吐く。
「そのうちグレて、非行に走るようになりました。盗み癖がついたのもそんな時です。……いつも利用しているコンビニは店長が本当に間抜けで、防犯もなってなくて、盗みたい放題でした。菓子もパンも雑誌も、配布物みたいに盗りました」
目の端で、彼女の身体が少しだけ硬直したのをとらえた。――そう、そこの店長は本当に間抜けで、万引きしている俺を発見しても声すらかけてこなかった。……あの日までは。
「ある日、店長が声をかけてきたんです。いい加減にしろって。……俺はキレました。生ぬるい人生を歩んできただろう、ブクブクと太って馬鹿みたいな顔をしたやつに注意されたくなかった。俺の事なんて何も知らないくせに正義面しやがって。どうせ平凡な人生を送ってきたくせにって思うと無性に腹が立ちました」
「…………」
「カッとなって口論になって。持ち歩いてたナイフで、そいつを刺しました。男はうめいて、刺された腹部を両手でおさえてて。イージーモードの人生だった人間が苦しんでるって思うと……愉快でした。もっと刺したいと思いました。それで気づいたら……男は死んでました」
男の物語はそこで終わりだった。続きはない。――誰も、言えない。
彼女は黙ったままだ。もしかしたら今度こそ殺されるんじゃないかと思った。五分だったか十分だったか。もしかしたら一分足らずだったのかもしれない。俯き、黙り込んでいた彼女が、ぱっと顔をあげた。
「あの人とは、中学生の時に出会いました」
唐突だった。俺は彼女の方に顔を向ける。耳元でそばがらが、がさりと音を立てた。
「その頃の私は、男子グループから酷いいじめを受けていました。私物が無くなるのは当たり前、バケツ一杯の水を頭からかぶせられるのも当たり前。制服のスカートを破かれて、布きれのようになったそれを押さえつけながら帰宅したこともあります。……そんな時、「もう馬鹿なことは止めろ」と男子グループに注意してくれた人物がいました。それが、彼でした」
意外だった。万引き常習犯の俺ですら見逃していたあの店長に、そんな度胸があったとは。
「今考えてみても、あれが彼の精一杯の勇気だったんだと思います。おかげで、いじめのターゲットは私から彼へと変更されました。それから二年、更には高校の三年間も。彼は私以上に酷いいじめを受けました。……酷すぎて、内容は言いたくありません。高校を卒業して、ようやくの思いで入った会社はブラック企業。それでも彼はそこで数年働き続けました。やがて鬱になって会社を辞め、自殺未遂をしたのち、閉鎖病棟に入院しました」
言葉も出ない俺に、彼女は淡々と物語を続ける。
「鬱が寛解し、退院後、コンビニ店員として働きはじめました。当時の店長と折り合いが悪く、うだつがあがらないと、毎日怒鳴られる日々。けれどそれでも働き続け、どうにか店長にまでなることができました。万引きの多い店舗を任されて、また鬱が再発していましたが……片手一杯の抗鬱薬を飲んで、欠勤することなく働き続けていました。あなたと口論になった、その日までずっとです」
「…………」
「簡単な人生なんてありません。どこにも」
彼女が椅子から立ち上がると、さびた鉄が嫌な音を立てた。後ろを向いたまま、彼女は病室を出ていこうとする。その背中に、俺は声をかける。
今の俺が、唯一、彼女にできること。
「……家に帰ったら、飯つくります。何が、食べたいですか」
身支度をしていた彼女は動きを止め、頭だけをこちらに向けた。呆れられているんじゃないかと思ったが、そのようなそぶりはなく
「あなたの食べたいものを作ってください」
それだけを言い放って、今度こそ病室から出ていった。




