6
――殺される。
そう思うと、安堵と恐怖でぐちゃぐちゃになった感情が背中を這った。彼女の力が足りないのか、絞め方が悪いのか、完全に息ができない訳ではない。かすかに入り込んでくる酸素。ただ、このままだと確実に窒息死するだろう。
彼女の顔は、ケーキを頬張っていた時のそれと同じだった。なんの感情も込められていない。けれど、確実に、何かを押し殺したような顔。
感情をさらに押し殺すようにして、彼女が腕に力を入れる。気管がざらつくような妙な違和感があって、けれど絞められているせいで咳をすることもかなわなかった。
彼女の細い腕をつかんで、引き剥がすことはきっと簡単だと思う。その薄い肩を掴んで、床に投げ倒すことも可能だろう。けれど、それはしたくなかった。少なくとも本能を理性で抑えられるうちは、反抗せず、彼女に絞め殺されてしまおうと思った。
彼女は当然のことをしている。俺は当然の報いを受けている。簡単な話だった。
「……っく」
先に声を出したのは彼女の方で、声を出した瞬間更に力が加わった。俺の視界は徐々に暗くなりはじめている。だというのに、テレビの砂嵐のようなものが見えた。目を閉じる。これで、――これで。
徐々に熱くなり始めている俺の顔に、ぱたた、と何かが落ちた。
「――……っ、ひ、うぐ」
そうして断続的な声が何度か聞こえたところで、首を絞めている力が、ふ、と緩んだ。途端に空気が入り込んできて、大きくむせかえる。喉の奥のざらつきが邪魔をして、いくら咳込んでも声を出せそうになかった。
薄く目を開けると、彼女の顔がそこにはあった。今まで見たことがないくらい、綺麗な顔を大きくゆがませて。細い肩をぶるぶると震わせて。憎しみと悲しみと怒りと絶望をすべて混ぜたような大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。上から降り注ぐ涙が、俺の頬を濡らす。
しゃくりあげて、耐えるように震えて、俯いて。ようやく彼女が口にした言葉は「どうして」だった。
「どうして……」
彼女の両手は俺の首に置かれたまま。しかし、絞めようとする気配はなかった。
「どうして、どうして、――――どうして!」
そこまで言うと、大声をあげて彼女は泣きだした。壊れてしまうんじゃないかというくらい、激しく。さきほどまで俺のことを絞めていた両手で顔を覆う。けれどそのすきまから次々と涙がこぼれおちた。
その様子を、俺はただ眺めているだけだった。大丈夫かと声をかける勇気も、ましてや抱きしめる権利もない。背中を汗が伝う感覚があって、そこでようやく、死ぬことを恐れていたことに気付く。「当然だ」と思っていたのに。自分は、人を殺したのに。
彼女は「どうして」を繰り返し、力なく俺の胸を叩いた。何度も何度も。そうして声が掠れた頃、手の甲で涙をぬぐうと、そっと俺から身体をはがした。何も言わずに、ふらふらと寝室に戻っていく。その時にはもう、いつも通りの無表情に戻っていた。
「……どうして」
俺は、彼女の言葉を繰り返した。
どうして、あの男を殺したのか。
どうして、彼女は俺を殺さないのか。
どうして、俺は生きているのか。
「どうして」の答えは見つからず、その夜、俺は一睡もできなかった。そしてそれは恐らく、彼女も同じだった。
翌朝、寝室から出てきた彼女の目は真っ赤だった。瞼は腫れぼったい。ふらつく身体。だというのに仕事には行くつもりらしい、出勤用の鞄を肩に下げている。……なんて声をかけていいのか分からず、けれども俺はゆっくりと彼女に近づいた。
「……仕事に行きます」
「――…………朝飯、は」
「朝食は要りません。昼食も……夕食も」
隣で立ちすくんでいる俺に向かって、彼女は小さく言った。視線は玄関の先にあり、俺の方は一瞬たりとも見ようとはしなかった。
玄関先まで彼女を見送ることもできず、ばたりと閉まるドアの音だけを聞く。まるで昨夜のことは見なかったかのように、空は晴れ渡っていた。風は強く、上空では雲が急ぐように、逃げるように流れている。雨や雪の気配はない。
ラップをかけた唐揚げを取り出し、鍋に残っていた味噌汁をお椀に注ぎ、温めもせずに食べる。肉が硬いが、気にならなかった。いつものように食器を片付け、掃除機をかけ、洗濯物を干す。晩飯は要らないと言われた。買い物には行かなくていいだろう。
俺の分の晩飯も、いらない。
「どうして」
一人でぽつりとつぶやく。続きは、きっと聞けないだろう。けれどもしかしたら。
「どうして、死なないんだ?」
人を一人殺しておいて、懺悔したふりをして、それでも自ら死ぬことを選ばない。彼女はもしかしたら、そんな俺を責めていたんじゃないだろうか。
どうしての続きは、「どうしてあなたは死なないの」。
一生かけても償えない、と思った。償えるはずがない。なのにのうのうと生きている。――できるだけうまい料理を作る。洗濯物をきれいに畳む。入念に部屋の掃除をする。そんなもんで許される訳がない。馬鹿じゃないのか。
償いきれないのなら、死んでしまえ。
きっとそれが最善の方法だったのだ。償う方法は自分で考えろと言われた。なら、俺は死ぬことを選ぶ。それがきっと一番、望まれていることだった。なんでもっと早く気付かなかったんだろう。ここ三か月の自分を呪った。
勝手に寝室に入り、俺が殺した男の物であろう、えんじ色のネクタイを一本手に取った。輪にして結び目を固く縛り、自分の首にかける。そしてその先を、ドアノブに引っ掛けた。わずかに尻が浮いた状態。あとは床に座り込んでしまえば、勝手に首が締まるだろう。
「……すみませんでした」
自分以外誰もいない空間で、呟く。誰もいなくてもよかった。彼女には聞こえなくても、彼にさえ聞こえていれば、よかった。もちろん、心の底からそれを口にしたところで許される訳がなかった。
一瞬の躊躇と、恐怖。それらを押さえつけて、俺は床に自分の命を落とした。
今日からはもう、俺の晩飯は、いらない。