5
薄手の長袖で暮らせるような過ごしやすさはあっという間に通り過ぎて、寒さだけが居座るようになる。世間ではクリスマスケーキの予約チラシがあちこちに貼られるようになり、町もなんとなく浮足立つ。俺は、この季節が嫌いだ。
安物のジャンパーのポケットに手を突っ込むと、妙な感覚があった。指が、布地を突きぬけた感覚。自由になった指先が、綿の海を泳いだ。……ポケットに穴が開いている。俺は思わず、右のポケットを確認した。
物をいれる時は不便だろうが、精々、手を突っ込むくらいしかしない。見た目だけでは、ポケットの内部が破れていることなど分からない。破れたままでも問題ないだろう。
仕事はいまだに決まっていなかった。彼女は相変わらず、うどん屋で働いている。この時期のうどん屋は忙しいのだろうか。ピザ屋やケーキ屋の繁忙期は今だと分かるが、うどん屋はよく分からない。
彼女は最近、少しだけふっくらしたようだった。ふっくらしたといっても、細いことには変わりない。『骨のようにガリガリだった人間』が、『細すぎる人間』になった程度。それでも少しだけ気が楽になった。あくまでも俺の自己満足だが。
今の俺にできることといえば、懺悔と、家事くらいだった。特に、料理には力を入れている。いい加減に彼女の嗜好を把握してきたので、味付けなんかは彼女好みにできるようになった。ただ、食べたいものは日によって変わるのが人間なので、毎日確認をとるようにはしている。
しかし今日の晩飯は、久しぶりに唐揚げとポテサラの注文がきた。念のために味付けを確認すると、唐揚げの下味にマヨネーズ、ポテサラには林檎入りだった。俺が最初にあの家で食べたメニュー。――彼女の好きなものでは、ない。
思い出したのは、初めて彼女と食卓を囲んだ日の事ではなく、人を殺したあの日の事だった。
言い争う。ナイフを取り出す。出っ張った男の腹部にそれを突き刺す。肉とナイフの間から、俺の拳へと流れる、どろりとした感触。白い床に落ちる、赤黒い液体。逃げ出そうとする男。その背中に突き刺す刃物。悲鳴。崩れ落ちる身体。
一瞬の、恍惚。
「――戻りました」
無表情かつ事務的な口調で、彼女は帰宅を俺に知らせた。飾り気のないベージュのコートに身を包んだ彼女の右手に目が行く。白い箱。どう見ても、ケーキ屋のそれだった。クリスマスまであと五日ある。だが、世の人間がクリスマスパーティを開始していてもおかしくない時期ではあった。
よそ見をしていたら唐揚げの油が飛んで、俺の指先に当たった。――痛い。大袈裟に右手をひっこめたが、やけどをしている様子はなかった。
「飯、もうすぐできますから。座っててください」
いつも通りの声かけをする。しかし彼女は白い箱を持ったまま棒立ちで、俺の方を眺めたままだ。何か考えているのか、それとも何も考えていないのか。さっぱり分からなかった。
「……あの、大丈夫ですか?」
もう一度声をかけると、彼女はようやくそこではっとして、静かに席へと向かった。とん、と白い箱をダイニングテーブルの上に置き、フォークを二本持ってくるよう注文してくる。揚げたての唐揚げと、昼に作り置きしておいたポテサラ、玉ねぎたっぷりの味噌汁、白ごはん。それからフォークを二本持って、俺は彼女の元へと向かった。
フォークを受け取った彼女は一本を自分の前に、もう一本を、誰もいない席に置いた。恥ずかしい話、久しぶりにケーキを食べられるのかと期待していた俺はおあずけを食らった気分だったし、彼女のとった行動が不思議だった。
白い箱が開けられ、ケーキが顔を出す。馬鹿な俺はそこでようやく事実に気付いた。
ケーキはクリスマスケーキではなく、バースデーケーキだった。一番オーソドックスなイチゴのショートケーキに、「HAPPY BIRTHDAY!」とかかれたホワイトチョコがのっかっている。彼女が晩飯に唐揚げを所望した理由も、これですべて繋がった。繋がって、しまった。
「……あなたが」
無感情ではなく、感情を押し殺した声で、彼女が言った。
「あなたが、変わってきていることは理解しています。けれど……このケーキを一緒に食べたくはありません」
――彼女の感情は当然だった。俺さえいなければ、あの男は今日、三十七歳になるはずだったのだから。
俺が、彼の誕生を祝う権利なんて、どこにもなかった。
結局彼女はその日、一人でケーキをワンホール食べた。その間、一言も発しなかった。ケーキをナイフで切り分けることもしなかった。ホールケーキに直接フォークを突き刺して、もくもくと食べ続ける。節分の恵方巻のような、妙な光景だった。
唐揚げとポテサラはラップをして、冷蔵庫に入れるよう指示された。あなたが朝食に食べなさい、とは言われなかった。ケーキだけを食べ終えた彼女は風呂に入り、そのまま寝室へと引っ込んでしまう。永遠のように長い時間だった。その間、彼女は表情一つ変えなかった。俺の顔をろくに見ようとも、しなかった。
彼女に続いて風呂に入り、ソファに倒れ込み、あてがわれた毛布を体の上にかける。電気を消すと、ほのかな闇に包まれた。町は人工的な明るさでにぎわっていても、住宅街は街灯の光のみを頼りにひっそりと息をする。天井を見ると、ほんのりと明るかった。しかし目を閉じると、そのわずかな明りも消えてしまう。完全な暗闇の中で、俺は自分の息遣いだけを聞いていた。
どれだけ彼女をいたわっても、料理が上手くなっても、俺が彼を殺した事実は変わらなかった。後悔しようが懺悔しようが、死人はもう戻ってこない。
――人の命を奪ったということが恐ろしかった。それと同時に、その瞬間を楽しんだ自分の存在が忌々しかった。
「…………?」
首の違和感と息苦しさに気付き、そっと目を開けた。舞い戻ってくる、ほんの少しの明るさ。薄いグレーの天井。
そして、そこに、彼女が、いた。
いつものように無表情で、俺の上に馬乗りになって、折れそうなくらい細い腕で。
一心不乱に、俺の首を、絞めていた。