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夜風も涼しくなり、チョコレート菓子が目立つようになり始めた頃、彼女が職場復帰すると言いだした。俺は思わず反対しそうになった。(俺のせいだが)まだやつれているし、働けるほど体力があるようにも見えない。しかし、彼女にきっぱりと言われた。
「二十四時間、あなたと共にいる生活が苦痛です」
……反論できなかった。
ちなみにその頃の俺はというと、就活こそしているものの就職口はいっこうに見つかる気配がなかった。手首に巻かれたブレスレットの存在が重い。これを巻かれているのは、服役中というレッテルを貼られているのと一緒だ。買い物に行く時なんかは長袖を着て隠しているが、制服が半袖の職場だとまず働けない。
しかし制服もそろそろ長袖に切り替わるので、今度こそ就職口を見つけるぞと思っていた矢先の出来事だった。
話を聞いたところ、彼女のパート先はうどん屋で、思いっきり接客業だった。いまだに無表情をつらぬいている彼女だが、大丈夫だろうか。それとも無表情なのは、俺の前だけか?
しかし最近になって、たまに、ごくまれに、表情を変える時があった。ほんの一瞬だが。
……そしてもちろんそれは、笑顔ではなかったが。
彼女はさっさと制服やら名札やらを用意しはじめた。ずっと思っていたが、行動が早い。
無駄な動きひとつせずに作り上げた荷物を肩に下げると、置いてけぼりを食らっている俺に視線を向けた。相変わらずその目は冷たい。
「今日から復帰するので、昼食は要りません」
「……じゃ、晩飯を用意して待ってます。何がいいですか」
「では、今日はサンマで」
「塩焼きですか」
「ええ」
なら、大根も買わなければならない。慌ててメモをする俺をよそに、彼女はさっそうと家を出ていった。
帰ってきた彼女はふらふらだった。今にも倒れるんじゃないかという足取りで、寝室へと入っていく。彼女が希望していたはずのサンマは、半分以上残された。粥でも作りましょうかと提案したが、それすら却下される。顔色はますます悪くなっていた。どう見たって、まともに働ける状態じゃなかった。
翌日、気になって、買い物途中に彼女のパート先であるうどん屋を覗きに行った。店舗はガラス張りになっていて、汚れ一つないガラス越しに中を覗ける。彼女はちょうどレジをしていて、とてもとても薄い笑顔を貼り付けていた。初めて見る笑顔だったけれど、写真の中のような自然さも、満天の笑みもなかった。痛々しいくらい精一杯の、嘘だと分かる笑顔だった。
お釣りを渡そうとした彼女の上半身が軽くぐらついて、小銭が床に散らばった。慌てて拾う彼女の後姿を、俺は眺めていることしかできなかった。
「――……雨宮さん。俺、頑張って働くところ見つけます。金なら俺が稼ぎますし、一緒にいるのが嫌なら俺が外に出るようにします。だから、あなたは休んでてください」
その日の夜。食卓をはさんで向かい合った形で、俺はそう言った。
それまで等間隔で栗ご飯をつついていた彼女の箸が、ぴたりと止まった。すっと顔を上げる。……無表情。けれど、無表情ではなかった。
――怒っている。そう思った。
「服役中のあなたが、就職先を見つけるのが困難であることは、理解しているつもりです」
机に箸をぱたりと置き、彼女は俺を見据えた。俺はぐっと拳に力を込めた。それでも、それでもだ。
「服役中だからとか、それに甘んじて何もしないのは嫌なんです。もうすぐ長袖の季節になりますから、制服も着れるようになりますし、どうにかします。……力仕事とかそういうことしかできないだろうから、給料は低いでしょうけど……。それにさっきも言いましたけど、俺と一緒にいるのが嫌なら、俺が家を出ます。日中は外の公園で過ごすようにしますから……。だから、あなたは家に居てください」
出来る限りの事を言ったつもりだった。なのに、彼女の表情はますます険しくなるばかりだ。実際はさほど表情は変わってなかったが、この一か月ほど、嫌というほど彼女の無表情っぷりを見てきた俺からすれば、それは激しい変化だった。
彼女が何に怒っているのか、もはや分からなかった。俺は何か、怒らせるようなことを言っただろうか。
彼女は立ち上がると、いつものように電気ケトルで湯を沸かし始めた。ミルクの大袋を取り出す。珍しく、砂糖も用意しはじめた。
「少し……変わりましたね」
声も後ろ姿も、もう怒ってはいない。けれど、その言葉の意味が、よく分からなかった。彼女は手際よく、ティーバッグとマグ、それからカップを用意する。ティーバッグは、ふたつだ。
そこまで準備して、ようやく彼女はこちらを向いた。そこにはもう、なんの感情も込められていなかった。
「そういえば聞いていませんでしたね。間下。紅茶は飲めますか」
「…………はい」
驚いた。彼女が、俺の分まで紅茶を用意するのはこれが初めてだった。砂糖はカップにしか入れない。……俺の分だろう。
「……あの、なんで」
「あなたが、あの人の店に来たとき」
俺の分にだけ砂糖を入れるんですか、という質問をする前に、彼女が言葉を重ねた。
「最初は殺人ではなく、ただ万引きするつもりだった。それを見とがめた店長――あの人と口論になり、あなたは持っていたナイフであの人を刺した。……万引きしようとしていた割に、生活は逼迫していなかったようですね。あなたが盗もうとしていたものはすべて嗜好品でした。チョコレート菓子がふたつ、ドーナツ、それとエクレア。唯一のスナック菓子は小袋のポテトチップスでした。それを見て、相当な甘党だと認識しましたが、……間違えていますか」
俺ですら、そこまで覚えていなかったことを、彼女はすらすらと言った。どこかにカンニングペーパーでもあるんじゃないかというくらい、流暢に。
「……間違えていましたか」
「――……いいえ」
正直に答えると、彼女はさらにもう一杯、砂糖を追加した。流石に甘すぎるだろうとは思ったが、何も言えない。ミルクは勝手にふたつ入れられた。彼女の好みだろうが、これも文句は言えない。かちゃかちゃと音を立てて中身をかき混ぜると、出来るだけ音をたてないようにそっと、俺の前にカップを置いた。彼女の手にあるものと色違いのマグは、食器棚にある。俺の前に置かれたカップは、明らかに来客用だった。
「明日も仕事なので、昼食は要りません。……間下。あなたが、仕事を探したいのなら探せばいいですし、働きたいのなら働いてください。けれど、あなたが働くことと、私が働くことは関係がありません。私は私が働きたいので働いているだけです」
言い切ると、彼女はキッチンから出ていった。
――俺は、どんなに働いても許されないんだ。そう思った。